小沢報道、そして原発 ~ 日経記事より
前回、書こうと思っていた日経の記事については、時間がたってしまったが、本エントリーの最後に触れます。
その前に本日の記事と、昨日の記事について。
・まずは本日(17日)の4面(政治)のコラム、「記者手帳」。
小沢一郎が「脱原発」の視察としてドイツへ出発したことに触れる記事。
タイトルは『「数は力」探しの旅』。
「反増税と脱原発を掲げれば国民の支持を得られる」とかねけて同僚議員に語りかけてきたが、新党の支持率は振るわない。消費増税関連が成立したいま、「脱原発」の声におのずと力がこもるようだ。
ここ最近の維新の会とやらの洪水のような報道は、一方で国民の生活が第一を黙殺する意図があることは明白で、『遊撃的マスコミ論』の著者、丸山邦夫氏流に言えば「無報」(意識的な黙殺)の部類に入る。
ちなみに国民の生活が第一は現在、野党第二党だ。過去の政局を振り返ると、与野党が拮抗した状況においては野党第二党がキャスティングボードを握る可能性は十分にあるわけだが、にもかかわらず黙殺をしておいて「支持率が振るわない」と書くところにこの記事の下心が透けて見える。
おそらくは、あれだけ持ち上げた維新の会が早くも失速気味なだけに、細かいところでポコポコと国民の生活が第一を叩いておこうということなのたろう。この記事の締めくくりは、
15日には各党あいさつ回りで訪ねてきた日本維新の会の橋下徹代表に「過半数を制すれば何でもできる」と自らの政治信条を伝え「維新にも協力できる。がんばろう」と呼びかけた。「数は力」の難しさが身に染みる日々かもしれない。
短いコラムだが、タイトルを含めていやらしい記事というしかない。
「小沢一郎=数は力の政治家」というレッテルをどうしても貼りたいのだろうが、そもそも「数が力」ならどうして民主党を離党するのか?(笑)
一方でこの政治面には、「赤字国債法案と予算案 民主、一体成立打診へ」「逆転国会の弊害是正 野党は「解散が先」」という記事が出ている。つまり、どの政党も「数の力」が足りなくて困っているわけで、それでおかしな妥協をしようとかしないとかいう話をしている。「数の力」の難しさが身に染みているのは、民主と自民なのである。
・16日朝刊3面(総合2)「日本の原発輸出 暗雲」
日本の原発インフラ輸出に暗雲が漂っている。リトアニアで14日実施された原子力発電所の新設を問う国民投票は、反対が多数を占めた。同プロジェクトは日立製作所が事実上受注していたが、計画見直し議論が進む見通し。新興国向け原発商戦を巡っては韓国やロシアなどが政官民一体による受注活動を強化している。日本の原発輸出は厳しさを増している。
リトアニアの国民がきわめて真っ当な判断を示しただけのこと。
福島第1原発の事故で日本の原発に対する安全神話が崩れた。その中で日立はリトアニアで最新炉をいち早く安定稼働させ、フィンランドやベトナムなど次の受注活動で優位に立つ戦略だった。その見直しを迫られる。
日立に限らず日本の原発輸出は先が見えない。民主党政権の原発政策に対し「不信感を見せる国・地域は多く、商談を重ねるたびに劣勢になっている」(重電メーカー幹部)との声もある。
別に民主の肩をもつわけではないが、「民主党の原発政策」云々で先が見えなくなっているわけではない。
有史以来、チェルノブイリと並ぶ最大級の原発事故を起こして、しかもその収束がいつになるのか見当もつかない国の原発を輸入するなどという行為自体に無理があるのである。そんなことを強行したら、それこそ彼の地の国民が暴動を起こすだろう。
しかも今日の日経の記事にも書いてあるけれども、「原発の技術者が枯渇しかねない状況」だというのだから、なおさらだ。こんなヤバくて危ない国の原発を輸入するなどというのは狂気の沙汰なのである。
・13日9面(企業総合)『「東電、過ち大きく」「日本の規制 複雑」 クライン委員長に聞く 』
さて、最後に前回のエントリーで触れようと思った記事について。
すでに他のブログでも書かれているが、東電の「原子力改革監視委員会」の委員長になった米原子力規制委員会元委員長のデール・クライン氏へのインタビュー記事。
ま、この方もアメリカで原発を推進してきて、東電が「この人なら大丈夫だろう」ということで起用したのだから、東電よりの人物であることは間違いないが、しかしそれはそれとして、やはり話をしている内容は興味深い。
クライン氏はまず原発の安全対策や事故対応に関し、「規制当局と東電は大きな過ちを犯した」と強調。今後策定する事故の再発防止策の効果を検証するとともに、社員一人ひとりが「安全に責任を負っている自覚を持つべきだ」と訴えた。
改革への課題として「違った対策を取っていれば事故は防げたという事実を受け入れることが重要だ」と指摘し、「改革には長い時間がかかる」との見通しを示した。
防げた事故を防げなかったのであれば、当然、その責任者は追及されてしかるべきで、クライン氏には是非、大きな過ちの内容と責任者を追及していただきたいものである(無理だろうけど)。
官民挙げた過酷事故への備えの必要性にも言及した。NRCは2001年の米同時テロ後、原発の安全指針「B5b」を策定。日本にも導入を促したが、経産省は当時この助言を無視した。もし日本がB5bを導入していれば福島第1原発事故を防げたか、との問いにクライン氏は「防げた」と断言した。
この時にその助言を無視した官僚はどこのどいつなのか? なぜこの記事を書いた記者は取材しないのだろうか?(現在しているのかもしれないが)
おそらく、この助言を受け入れると、それなりに大きなコストアップになったのだろう。それは原子力村全体のもっとも嫌うところであり、ゆえに無視したことは間違いない。
これだけの過ちを犯したにもかかわらず、誰一人として責任を追及されない社会というのは、小出裕章先生がおっしゃるように、「国家としての体裁をなしていない」と私は思う。
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