資本主義の精神がない日本の電力会社に、
原発を運転する資格はない
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私はプロテスタンティズムの倫理のようなものがベースにないところで、経済活動が市場のメカニズムに任されると弊害があまりにも大きくなると思っている。
というよりも、そもそもアダム・スミスが「神の見えざる手」による予定調和を考えたときに倫理が暗黙の前提にあったのではないか。
その暗黙の前提に違反した人びとが大量に出始めたのが、今の日本の資本主義社会である。
私はプロテスタンティズムの倫理のようなものがベースにあって、競争主義、成果主義というのは良いと思うが、そうしたベースのないところで競争主義や成果主義は、人の心を破壊する。
もちろんあくまでもプロテスタンティズムの倫理のようなものであって、何もプロテスタンティズムである必要は全くない。
仏教でも神道でもイスラム教でもヒンズー教でも、宗教でなくてもなんでもいいから「精神的なもの」という意味である。
加藤諦三 著 『誰も書かなかったアメリカ人の深層心理』 より
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現代日本は、機能集団が同時に運命共同体としての性格を帯び、かかる共同体的機能集団の魔力が、日本人の行動を際限もなく呪縛することになる。
小室直樹著 『危機の構造』 より
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エネルギー政策意見聴取会で、電力会社の人間がノコノコと出てきて「会社の方針」を喋ったことが大問題となった。
この意見聴取会は、2030年時点での原発依存度を0%、15%、20~25%という3つの選択肢を示して、それぞれの選択肢から抽選で各3人づつが意見を述べた。そのうち20〜25%の選択肢を支持する発言者のなかに電力会社の人間がいたという。彼らは真顔で「選ばれた」と言い、しかも複数の会場で同じ有様だったというのだから、要するにそんな選択肢を支持しているのは、もはや原子力ムラの人間だけということなのだろう。
それにしてもこれが「やらせ」であることは間違いない。
そして、当然のごとくというか、さすがにというか、この「やらせ」に対してはメディアからも批判の声が出た。
私ももちろん腹は立ったが、しかし怒りが爆発するほどではなかった。
なぜなら、原子力ムラの連中であれば、このぐらいのことは朝飯前のこと、いつもやっていることに過ぎないからだ。
当ブログでもかねて電力会社こそは第一級のデタラメ企業であると主張してきたが、およそ原子力発電の歴史というのはウソとデタラメと差別の連続で、それをカネの力で隠蔽することだけで成り立ってきた業界である。
いまになって志賀原発の真下に活断層がある可能性があるなどというニュースがメディアを賑わせているが、そんなことも以前からわかっていたことだし、それをいうなら伊方原発の目の前にだって活断層はある。はたまた東海地震の予想震源域の真上に位置しているのが浜岡原発だ(というかそんな例はまだまだ山のようにある)。
そういう事実に一切目をつむり、ひたすらにカネ儲けを優先した結果として起きたのが、福島第一原発の大破局事故である。にもかかわらず、それを推進してきた連中が、自らの体質を一つも反省するでもなく、戒めるでもなく、原発再稼働、再推進に猪突猛進している。
今週は大飯原発4号機が臨界に達したというニュースがあったが、3号機を再稼働する時、会見に臨んだ関西電力副社長の豊松秀己は、「アメリカでは(原発の運転年数は)60年がスタンダードとなっている」強調していた。つまり自分たちも同じように60年運転したいということなのだろう。
もともと原発というのはアメリカから輸入した技術であって、「アメリカがそうなのだから、日本でもそうしたい」というのが原子力ムラの連中の言い分だ。
私はアメリカという国は好きではない。まして原子力産業というのは、どこの国においてもそれ相応にいかがわしい。
したがってアメリカにおいても原発を60年も運転することはあってはならないと思うが、しかし少なくとも日本に比べればアメリカの原発が事故を起こす確率は相当に低いのではないかと思う(もちろん、過去にスリーマイルの事故を起こしてはいるが)。
なぜなら、かの国には原発を開発、運転する上で最低限の倫理、モラル、ルールを遵守する精神が宿っているであろうからで、少なくとも日本の原子力産業のように1から10までデタラメをすることはできないし、やるつもりもないだろう。
ここで話は少々脱線するが、戦後、日本が奇跡的な経済復興を果たした最大の原動力は、いわゆる「日本的経営」にある。国中が上から下まで経済第一主義一色に染まり、ひたすら効率が優先された。そのため歯車である社員は信じがたい量の残業(それも往々にしてタダ働き)をした挙句、過労死しても労災はめったに認められず、裁判に訴えても司法はどこまでいっても企業の味方である……。
この社会システムに支えられた「日本的経営」は一時、世界から注目を集めてずいぶんと研究された。しかし結局のところ、「日本的経営」とは特殊な先進性であり、世界の国々が真似できるような普遍性を持っていなかった。
その一例を挙げると──。
かつてトヨタ自動車は、土日の電気料金が安いということで、週末を出勤日にしたことがある。一銭でも製造コストを下げて利益を追求するという姿勢は資本主義の行動様式として間違いではない。だが、普通の国では週末は家族と共に過ごし、教会へ行くのであって、たとえモノを安く作れるからといってその大切な週末を会社に捧げるなどというのは、理解の範疇外にある。
ところが、そういう常識、暗黙の前提を一切無視して、ひたすら効率優先(=人権無視)でカネ儲けをしようという国が現れた。それが日本だったわけだ。
そこで原発に話を戻すと、アメリカが原子力発電の技術を開発していく上でも、やはり暗黙の前提はあったのだと思う。つまり、日本ほどデタラメ放題に、モラルも倫理もかなぐり捨てて原発を推進・運転するという想定は、原発を開発した当のアメリカにもさすがになかったのではないだろうか(もちろん、原発は核兵器開発と密接不可分な関係にあるわけで、その部分を含めた倫理についてはアメリカも日本も同じだが)。
そして、そういう暗黙の前提の上に、原発の技術が成立しているのだとすれば、そもそもその前提を持っていない日本では、アメリカと同じような原発の運転はできないことになる。
というよりも、資本主義の下での最低限必要なモラルやルール(いわゆる資本主義の精神)をまったく持ち合わせていない原子力ムラの人間には、こんな危険な技術を扱う資格はそもそもないと私は思う。
もう十年以上前のことだと思うが、慶大教授の金子勝と木村剛(その後、逮捕されたが)の対談を読んだことがある。新自由主義の信奉者と反新自由主義の学者の対決はさぞや激しい論争になったかと思いきや、意外にも意見が一致していた。
その一致点を突き詰めると、要するに「日本の企業は、せめてアメリカ並にルールを守れ」ということだったと記憶している。
私は京都大学の小出裕章助教と同じく、「すべての原発を一刻も早く廃炉にすべきである」という論者だが、それはそうとして、まず電力会社はあらゆる面で、せめてアメリカ並にルールを守るべきだと思う(おそらくそのルールを適用した段階で、日本の原発のほとんどは止めざるを得なくなると推測する)。
とここまで書いて思い出したのだが、、、
私が編集者として最後に作った本は田原総一朗と木村剛の共著で、タイトルは『退場宣告 居直り続ける経営者たちへ』であった。
そして表紙には、タイトルとともに以下の英文が入っていた。
Why Are They Still Here?
なんだか出版から十年を経て、時宜に合っているような、、、
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