志木電子書籍からの新刊情報 ~ 「テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!」発売!
株式会社志木電子書籍(代表は当ブログ管理人)からの新刊情報です。
タイトル:『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇
価格: 500円(税込)
(※まずはボイジャーストアでの販売が先行しますが、近日中に紀伊国屋やソニーリーダーストアなど左にある「電子書店リンク」の書店でも販売いたします<発売日は決定次第発表>。さらに取り扱い電子書店も来月初めから増えます。)
岡庭昇氏の著作としては、弊社では2冊目の電子化となります。
まずは目次のご紹介。
二〇一二年──電子書籍版への序文はじめに──メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ
Ⅰ メディアとスキャンダルが相姦する
1 ロス疑惑とテレビの新時代
“疑惑”という名の公開処刑イベント
2 かい人21面相と事件の“顔”
仮説・グリコ‥森永不連続説
3 倉田まり子と国家のスキャンダル
“コト”が“ヒト”にすりかわる
4 山口組と劇場犯罪
あらゆるスキャンダルはイベントとなるⅡ テレビは空気のような罠である
1 体験的“抗議電話”
それはリアクションとしてのアクションである
2 安心は既視感のなかに
メディアに出るのはエライ人、か?
3 テレビは“市民”のパスポート
永遠に停滞するわれらの至福の共同体Ⅲ“像”という名の妖怪が歩き出す
1 われらの“現実”は仮装する
メディアの権力を解剖する
2 一枚の写真とイメージの罠
感性の支配が確立するとき
3 スキャンダルのケインズ理論
広告代理店向け“疑惑”のマニュアル
4“像”は君臨する
露出する人々は権力を得るⅣ 逆説のカラクリが情報を戦略する
1 情報帝国主義の完成
統制がリーグとなり、リーグが統制となる
2 真のスキャンダルは逃亡する
タレント・スターという機能
3 メディア・ファシズムヘの逆転技
官能を研ぎすませよ!あとがき
1985年に刊行された本なので、出てくる事件は古いですが、しかし、書かれている内容はまったく古くありません。
それどころか、現在起きている福島第一原発の破局事故をめぐるさまざまな情報、あるいは政治、とくに小沢一郎の「陸山会事件」についての情報など、マスメディアがながすあらゆるニュースについて、これまでとはまったく異なる視点を読者のみなさんは持つことができると思います。
私はかつて、田中角栄という政治家は大変に悪い、金権政治家だと思っていました。
だから、東京地検特捜部によって田中角栄が逮捕され、総理の犯罪として裁かれたことに喝采を送ったものでした。
しかし、この「総理の犯罪」と命名された戦後最大の“疑獄事件”を徹底的に見直す必要があると今は思っています。
岡庭氏は文中でこんなことを書いています。
《ヨーロッパをひとつの妖怪が徘徊する、共産主義という名の妖怪が》と若きマルクスは誇らかに書きつけた。いま、ずっとネガティブな意味であるが、市民社会を一つの妖怪が徘徊する、既視感(デジヤ・ヴユ)の他者であるところの“像”という名の妖怪が、とわたしは書きとめておかなければならない。
高度に制度化された制度は、もはや制度であることを感じさせない。権力の最高度の達成とは、何よりも権力としての自己消滅である。支配されているという実感を、支配されている者の感性から拭い去ることこそ、支配の完成にほかならない。その意味で、鎖国ニッポンの完成、そこでの身体の囲いこみの完了は、警察や軍隊といった暴力による支配の形を遠く離れる。いまや支配されたがっている人間ほど、自分を自由だと実感しているはずだ。市民社会はすでに法や規範や戒律や禁忌や私刑で動かされているのではない。“空気”と“気分”こそが、市民社会の鉄の掟である。それは法や規範や戒律や禁忌や私刑以上に絶対管理制であるところの、いわばソフト・ファシズムである。このソフト・ファシズムはメディアによって司られている。とりわけて空気のファシズムたるテレビによって。
このメディア・ファシズム状況の中核にあるものが“像”である。メディア批判は、報道の右傾化を憂うといったおなじみのスタイルにおいてではなく、メディアそのもののホンシツをつかない限り成り立たない。そのとき、メディアの支配力の源泉である“像”のトリックこそが、批判的な課題として考察されるべきである。
“像”とは、読んで字のごとく“像”である。たとえば山口百恵、田中角栄、三浦和義という名前から、われわれがおおむね共通に浮かべるイメージが“像”である。モモエにも、角栄氏にも、三浦サンにもさまざまな表情やシチュエーションがあるのだが、われわれはただひとつの“像”を条件反射するのだ。それは記号化された顔である。同時に意味が記号化している。彼らは既視感(デジヤ・ヴユ)のかたまりであり、それゆえ他者総体を代行している。つまり彼らが記号化されることは、現実そのものを記号化するということなのだ。そのことによって、われわれは空気の制度をみずからの手で完成しているといわねばならない。
現実が“像”におきかえられる。同時に“像”もそのままたれ流されるだけでは“条件反射”を保証されないから、さまざまに“像”のころがし方が発達する。たとえば角栄さんに顕著だったような、“像ころがし”だ。三浦印や角栄印の場合のように“像ころがし”はますますテレビの支配機能を尖鋭にした。それに“像”をひきしめるスパイスの投入がある。スキャンダルの使用である。そんな風にして、現実と“像”をすりかえるメディア力学は、ますます盛大に栄えている。
しかし、現実を記号に変え、他人の生き死にをイベントにすりかえるメディアと共犯に立つことで、市民たちはいずれ手ひどいしっぺ返しをうけるだろう。GNPぼけして忘れているが、半世紀前の日本人たちは、いよいよ自分が死地にひっぱられるまで、祖国ニッポンが自分たちの檻であるなどとは夢思わず、さまざまな国家製の物語や記号を娯楽していたのである。
↓こちらでは「はじめに――メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ」もお読みいただけます。
・志木電子書籍からのお知らせ ~ 「テレビ帝国の教科書」がボイジャーストアより発売されました!
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