原発とアスベスト
福島第一原発の爆発時にアスベストも飛散したのではないかという説がある。
・本気で臨海部の未来を考える会BLOG
原発の水素爆発事故で、アスベストも大飛散した可能性大
・南相馬市 大山こういちのブログ
「衝撃の事実」④どこまで我々を欺くのか?!
かつての日本のアスベストの使用状況を考えれば、原発で、それもより古い型でアスベストが大量に使用されていた可能性は強いだろう。
かつて日本はアスベスト大国であった。しかも、官民一体となってその危険さを覆い隠したのである。
以下は1987年に岡庭昇氏が書いた原稿で、「この情報はこう読め!」(1989年刊行)に収録されたもの。
志木電子書籍では、このたび「この情報はこう読め」を電子書籍化したのだが、その刊行記念ということで、以下の原稿を全文掲載いたします。
一読していただければ、日本という国が、3.11を経験した今も、そしてそれ以前もまったく変わっていないことにお気づきいただけるはずだ。
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ああ、官民一致協力してガン王国ニッポン!
ーー社会的責任を放棄するコスト・バカ
八七年八月二六日の朝刊各紙は、公害健康被害補償法の“改正”が、実質上決定したことを伝えている。むろん、じっさいは改悪、というよりも廃止である。関係産業全体で、公害患者に責任を示すという趣旨の法律だったのだが、それにしても経済的な側面の、それも一部だけを負担するにすぎない。こんどは、それも、やめようというのである。採算性だけに凝り固まり、倫理と無縁という点では、世界に冠たる日本の企業が、よっぽど国民に脅されたり、行政に泣きつかれたりしないかぎり、みずからまいた種で多くの人がいくら苦しもうが、誠意など示すわけがないので、虎視耽々と廃止を狙っていたにちがいない。いいなりの環境庁の方は、アメリカのEPAとは異なり、官庁の中のミソッカスみたいなものだから、独自の見識など、示し得るわけがない。かくて、大気汚染がますますひどくなる現状にあって、今後、産業公害(ほんとうは私害)による病害患者は存在しないことになってしまったのである。
本来、議論はこう進むべきであった。すなわち、患者に多少の金を出して、他方で、生産効率のためには環境や健康の破壊を引き換えにするという、日本社会の世界に類を見ない本質──それも、ほんのちょっとのコスト高を嫌って、いくら安全な材料や方法があっても、それに変えようとはしない──の方を温存するという、“反省なき猪突猛進”を続けようとしていることが批判されるべきだ、と。ところが、それどころか、みせかけの社会的責任も、なりふりかまわず止めてしまおう、というのである。まことに、恥ずべき国ではないか。みっともないくらい、せっせと金を稼ぎ、がっぽり貯めこむことが、銭ゲバなのではない。稼ぐことを、たんにコスト切り下げと直結して考えることしかできず、環境や健康を引き換えにすることによってのみ、可能とするといった貧しさ、情けなさをこそ、銭ゲバというのである。この国が、まさにコスト・バカ鎖国社会であることを、公健法の消滅はみごとに露呈してしまった。公健法の消滅で、今後一〇年間で、企業の負担は約二〇〇〇億円減ることになる。まことに、浅ましく、露骨なことである。要するに、なんの代替案を出すでもなく、ただもう、社会的責任とやらのポーズはやめた、というのだから。じつに、世界に冠たる後進国であると、何度でもいっておかねばならない。
そこにはまた、挙国一致体制である“行革”のインチキさ、いかがわしさが、濃厚に影を落としている。行政における無駄な出費をはぶき、出費を節約するというのが行革のタテマエであるが、現実には膨大な税金のたれ流しは温存したまま、安全や健康のための研究、管理の手間と費用を片っ端から削っているのが、行革にほかならない。たとえば国鉄が、行革と称して最初にやったのが、無人駅の増大化であった。それも西日暮里といった、通過人口の多い乗り換え駅のホームを無人化して、酔っ払いが線路に落ちたりしたら、居合わせた客が警報機を鳴らせというのである。一時が万事、すべて行革の現実はこうだ。
行革と税金タレ流し行政が不一致であったり、矛盾するというのではない。ほんとうは、それらは相反する別々のことがらなのではなく、ひとつのものである。行革においてこそ、タレ流し体制が完成する。なぜなら前者は消費、健康、安全、倫理といった“無駄な出費”の側面を、後者のために切り捨てることにほかならないからである。すなわち、コスト主義・生産至上主義と、意図された税金タレ流し(正確には日常化した租税再分配のシステム)は表裏一体のものであり、この一体化の仕上げのために“行革”が媒介する。生産と引き換えに身体を犠牲にするガン王国ニッポンは、さらにこの事態において完成するのである。
社会的な配慮やモラルにおいて世界最低の国が、ますます銭儲けだけに専念し、力で賃金を押えこんだのに続き、こんどはひたすら環境や健康を破壊して、コスト・ダウンのみを計ろうとする。そういう時代の、幕開きを象徴するのが、行革にほかならなかった。行政を、その日本的な本来の構造に純化して、幹は企業のための租税収奪、枝葉は、日々の対企業サービスに専念しようということだ。また、行革という名の、かかる犯罪をおおっぴらに行っておいて、環境破壊の責任のために金を出せと、企業に要請する根拠もあるまい。たしかに、公健法は、一三年前、四日市公害判決をきっかけに制定されたものであり、大気汚染の原因は、当時の硫黄酸化物から多様化したかもしれないが、それはますます事態が深刻化したということであって、それも、明らかに企業のコスト主義の、野蛮な結果にほかならないのだ。
アスベストが、最近、急に話題になりはじめた。アスベスト、すなわち石綿である。話題になりはじめた、と厭味な正確さで書いたのは、いくら情報量が増えても、決して“問題”にされているわけではないからである。日本という国は、生産に都合がいいが、健康に害があるものについては、徹底的に事実をおし隠して、生産に便宜を計る。隠し切れなくなったときは、それを“話題”にして、本質を韜晦させ、やがて、なし崩しにしていくのである。いつものこの手口は、アスベスト問題においても健在(!)のようだ。今回も、取材を続けていくうちに、官民一体のこのなし崩し体質に、ほとほと愛想が尽きた。
アスベストは、発ガン物質である。目に見えないほど小さなトゲになって、人体に入り込み、長年、肺に蓄積されて、やがて肺ガンの原因になる。これほど確実に、因果関係が突きとめられている発ガン物質も、めずらしいといわれる。危険きわまりない物質である。もはや、数年前から、アメリカでは大問題になり、厳重な規制がなされているというのに、世界最大の使用国日本では、なんとまったく野放しで、まったく規制値さえないというのだ。
アスベストが、建材をはじめ、日本のいたるところで使われているのは、防火・防音機能に勝れているという理由もあるが、何よりも安いからである。とっくに危険性はわかっていたのに、コストを理由に、大量に、かつ無造作なやり方で使用されてきた。知っていながら、情報機関は、誰かが指摘するまでは、パニックを防ぐという大義名分のもと、何も報道しなかった。ここらが、いかにもニッポン的な風景である。
武道館の天井はアスベストだらけで、最後列の座席は、客に届きそうな低さまで、はがれたアスベストが垂れ下がっているのは、よく知られた事実である。また、日比谷図書館の天井もそうだし、東大工学部では、抵抗のためか、マスクをして授業に出る学生が出てきた。が、何も、とりたてて、これらの例をあげるまでもなく、たいがいの場合、アスベストと縁がなく暮らしている日本人などは、存在しえないのである。先日、いろいろな住宅メーカーの、パンフレットを取り寄せてみたが、どこにも、例外なく“彩色アスベスト使用”と、堂々と断ってあった。安い素材だからという理由で、あらゆるビルや住宅、ボイラー、船舶、ドライヤー、白粉、車のブレーキ、蚊取り線香の蓋のウラ、ベビーパウダーなど、膨大に使用してきたこの国は、同じ理由で、アスベスト関連産業、またアスベストが大量に使われている職場で働く労働者、それ以上にアスベスト材で作られた、建築物とり壊し作業に従事する人々の、健康管理などは、まったく無視してきたのである。
軍艦は断熱のため、膨大なアスベストを使用する。横須賀の米軍基地で働く日本人労働者は、寄港する軍艦の壁などから、アスベストをはがす仕事をさせられてきた。アメリカは、厳重な健康基準を持っているから、防護服などの使用を義務づけているが、日本人労働者は裸でその作業に従事してきた。まともにアスベストを吸い込んできたのである。その結果、横須賀労災病院における肺ガンの発生率は、他の六倍にもなっているのだ。
なかでも、緊急の課題は小・中学校だろう。子供たちが、アスベストの降る下で授業を受けている国なんて、まったく日本くらいのものである。かつてアメリカでは、生徒・父兄の側が登校拒否で戦ったが、日本では、改造が間に合わないから、ともかく夏休みあけは、危険であろうとおかまいなしに学校に出ろと、いっている。健康より出席が大事だ、というこの国の“義務教育”の観念なのであり、親の側も不思議に思ったり、不安になったりしないらしいのだ。騒音対策のため、基地の学校は、すべてアスベストを大量に使用しているが、その他でも、じつに例が多い。まず、たいがいの場合は該当すると思っていい。
わたしが怒りを覚えるのは、コストのためにのみ危険な発ガン物質を用い、そのことを隠してきた、使用、放置、情報等のすべてにわたる官民一致体制がここにきて、隠しおおせなくなっても、なおその論理に執着し、取り壊しや、改造のプロセスにおいて、あたりにアスベストの粉塵を撒き散らし、新たな公害を平然と作り出している点だ。犯罪的なコスト主義の後始末についてさえ、やむをえずポーズをとっているだけなのであり、しかも後始末にまでコスト主義を貫いて、手抜きの極みゆえの、公害を増やしている。さらにいえば、いま、アスベスト対策のニュースが急に盛り上がってきたように見えるのは、きちんとしたやり方──まことにコスト至上主義を自己否定し、身体保護の観点から生産の方を振りかえる姿勢からしか、正しい事後処理も生まれない──で処理を、全面的、かつ厳重にやらねばならなくなったら金がかがるため、駆け込みで糊塗しようとしているからなのだ。だから、やり方自体が公害を作り出しているのであり、現場はどこも、完全な秘密主義で、絶対に取材に応じない。法律ができてからでは金がかかるから、作業員にとっても、まわりの住民にとっても、危険極まりない処理工事がひそかに夏休みに行われ、行政はいつもそうであるように、あらかじめ猶予期間をわざわざ設けてやり、その上で、駆け込み工事の危険さに対して、しらんふりをしている。もとより、彼らは官民こぞってグルなのだ。(1987年8月)
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