2012/10/24

暴力団と付き合っていた法相の後任が、年だから辞めたかった前法相になった理由

外国人からの献金や暴力団との交際が発覚して法務大臣を辞任する田中慶秋の後任は、前任者の滝実なのだという。この滝というのは6月の内閣改造で法務大臣に就任したが、今回の改造前に「僕自身はもう年なので、できるだけ外してもらった方がいい」といった人物だ。

滝法相「もう年なので外して」 74歳、在任4カ月弱

そもそもこの滝実の法相就任の経緯は、その前任者である小川敏夫が6月の改造で更迭されたことによるものだった。では、なぜ小川元法相は更迭されたのかというと、これはどう考えても、「陸山会事件」の虚偽捜査報告書問題に対する検察の捜査に対して指揮権発動をしようとしたことと無関係ではないだろう。

指揮権発動を首相に相談 陸山会事件をめぐり小川法相 「(了承得られず)残念」

・八木啓代のひとりごと
小川 敏夫 前法相 退任記者会見(抄録)

陸山会の政治資金収支報告書虚偽記載事件は、もはや東京地検特捜部による捜査報告書虚偽記載事件(検察が虚偽の捜査報告書を検察審査会に提出して、検審の議決を起訴に誘導した事件)に形を変えている。
これに対して健全な法治国家のために声をあげる市民の会が実行者である田代元検事を始めとして検察幹部を次々に刑事告発していったが、そのいずれもが嫌疑不十分、嫌疑なしで不起訴(したがって現在は検察審査会に申立中)。

ところが一方で、検察の犯罪を裏付ける関連文書がネット上で公開され、もはや事実は動かせなくなってしまった。そこで小川元法相は、「これだけ検察に対する不信が高まっているのだから、いい加減な幕引きをするな」という意味で指揮権発動をしようとしたのである。
きわめて真っ当な意見だと思うが、当時マスコミは社説などで一斉にバッシングし、時期を同じくして行われた内閣改造で小川は更迭されてしまった。

・「慎重さを欠く「指揮権」発言」(6月6日付 日経社説)

 小川敏夫前法相が退任記者会見で、在任中に検事総長に対する指揮権発動を検討していたことを明らかにした。野田佳彦首相の了承を得られず、見送ったという。
 指揮権発動を検討したのは、小沢一郎民主党元代表が強制起訴された陸山会事件で、捜査報告書に虚偽の記載をした検事が市民団体から告発された問題。近く不起訴となる見込みのこの検事の起訴を促そうとしたとみられる。
 検事総長への指揮権発動は捜査への政治介入を招きかねず、歴代法相は極めて抑制的に対応してきた。小川前法相がどのような判断材料をもとに指揮権発動を検討し、その影響をどの程度考えていたのか不明だが、退任時に、検討した事実だけを突然持ち出すような軽い話ではなかろう。慎重さを欠いた発言といわざるをえない。
 検察庁法では法相は検察官を一般的に指揮できるが、個々の事件では検事総長のみを指揮する。捜査への政治的影響を防ぐと同時に、検察の暴走を防止する狙いだ。
 過去に発動されたのは1954年の造船疑獄の一度だけ。当時の犬養健法相が佐藤栄作自由党幹事長の逮捕見送りを指示した。その結果、捜査は頓挫し、世論の強い批判を受けた内閣も総辞職へと追い込まれた。
 もちろん必要があれば指揮権は発動されてもおかしくない。だが小沢元代表をめぐる捜査、裁判はこれまでも政治的色彩を帯び、混乱をきたしてきた。ここで指揮権発動の検討話を明かす意図は何だったのか。虚偽報告書の捜査徹底が目的なら、指揮権を持ち出すまでもなかったのではないか。
 こうした形で政治につけ入る隙を与えている原因は検察の側にもある。大阪地検特捜部による捜査資料の改ざんなどの不祥事で、検察の信頼は失われたままだ。
 虚偽報告書問題では、国民が納得できる処分と、その判断にいたった十分な説明、さらに再発防止への取り組みが不可欠だ。自浄能力を示すことができなければ、検察の信頼回復は一段と遠のく。

そして、その後任として登場したのが滝実だ。滝は法務検察の思惑通り、指揮権発動などまったくやる気はなく、田代元検事らの不起訴処分などをいとも簡単に容認した。
ついでにいえば、たった数ヶ月の在任期間中、これまた法務省の思惑通りに死刑を執行するという、官僚にとってはまことにありがたい無能大臣であった(小川も死刑は執行している)。

今回、野田政権は、そういう人物を「経験者を起用して堅実さを優先」「法相経験者で政策通の滝氏の再登板で混乱を早期に抑えたい狙い」(いずれも日経記事)との理由で起用するのだという。だったら、ヤル気のあった小川元法相を再登板させればいいわけだが、絶対にそこには行かずにまったくヤル気のない前法相を再登板させるのだから、どこまでも国民を舐めきった政権というしかない。

私はこの滝という人物や、あるいは野田政権の面々を見ていると、ある人が昔教えてくれた「WTI」という言葉を思い出す。「WTI」とは「Well Trained Incapability」の略で、「よくよく訓練された無能力者」という意味。
官僚にとって抜群に使い勝手がいいのがこのタイプなわけだが、その「WTI度」が歴代でもっとも高いのが野田政権ではないだろうか。

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2012/08/31

ACTA強行採決 ~ 「奥さん、『VERY』を読んでる場合じゃないんですヨ」

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 報道機関のガンは現代の記者クラブ制度だ……ということは、すでに耳にタコができるほど言われている。政治派閥の代弁者としての政治記者、財界業界のスポークスマンとしての経済記者、各官庁の広報担当係に成り下がった霞ヶ関記者。それなら「日本赤軍」や中核、革マルそれぞれの代弁記者が正規に振りあてられているかというと、こっちのほうは警察庁や警視庁の公安担当のあとを金魚のウンコのようについて行くか、クラブで警察発表されるものを、マージャンの合い間にデスクに送稿するだけの官報記者しかいない。それを現代のマスコミでは「報道の中立性」といい、この立場を堅持するのが、すなわち「言論の自由」を守り、日本を“なんでも言える国”(新聞標語)としてささえる新聞の役目だということになっているらしい。

丸山邦男『遊撃的マスコミ論 オピニオン・ジャーナリズムの構造』
「醜聞はマスコミのタブーか」より
(※初出は1974年12月『現代の眼』)
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先日、テレビ局(民放)で報道に携わる知人のtweetに以下のようなものがあった。

公共放送には、日頃から敬意を持ち合わせてはいるが…。
夜9時のニュース。野田首相が竹島問題で会見の日、沢尻エリカ映画を10分以上。本日はAKB前田卒業を大きく番宣。被災地、福島、原発、核廃棄物、尖閣、竹島、シリア、消費税、財政、オスプレイ、選挙…重要問題山積のなか、少々残念。

当ブログではいつも主張していることだが、「報じない」というのは立派な言論操作で、つまり「民は余計なことは知らなんでいい」という体制意志の発露である。
要はこの国の独裁権力者である霞が関にとって、国民が目覚めては困るのだ。

日本人の英語力の水準は世界レベルに比して劣っていることは、つとに伝えられている。これだけ長らく問題になっているにもかかわらず、なぜ事態はいっこうに改善されないのか。
突き詰めると、国家に「その気がない」ということだろう。
独裁権力にとって最大のテーマは情報をコントロールすることだ。島国という地理的条件に加えて、日本語という特殊な言語を使っている限りにおいては、メディアを抱き込めば国民は容易にコントロールできるのである(とくにその中心を担っているのがNHKと朝日だと思う)。

ま、それはそれでいい面もあって、デモクラシーマインドの欠片もない日本人は、戦後、文句も言わずにひたすら働き続けた結果、高度経済成長を成し遂げたわけだ。

しかし、当然、その過程でひずみは出る。だが、それを国民は何も知らぬまま(知らされないまま)3.11まで来てしまった。そのツケがモロに出たのが福島第一原発の破局事故だと思う。
これは日本の歴史上、というか世界史的に見ても稀な破局事故だ。私はさすがにこれで少しは世の中が変わるかと思ったのだが、権力はこれをキッカケにさらに独裁のタガを締め直すことに躍起になっている。

先日、半年に一度、雑誌の実売部数を公表するABC公差の数字を見ていたら、古巣の会社の「VERY」という雑誌が大変な伸びを示していた。漏れ伝え聞くところによれば、広告も絶好調だという。確かにこの雑誌の編集長は大変有能で、雑誌の出来もいい。
ただし、元々の源流がJJ(こちらの没落は著しい)にあるだけに、内容は消費の刺激一本槍、世田谷あたりに住む奥さんを念頭に置いた、言ってしまえばノーテンキな雑誌だ。
その雑誌の好調を示す数字を見て、私は「奥さん、『VERY』を読んでいる場合じゃないんですヨ」と心の中で呟いた。

もはや福島第一の事故は収束して、いつもの日常が戻ったと思っている人は多い。だが、放射能による影響が出るのはこれからだ。なにしろこれは津波による被害とはまったく性質の違うもので、東日本の広い範囲を壊しつつある。
マスメディアは消費税増税後の成長戦略がどーしたこーしたと言っているが、福島第一の破局事故の処理、及び住民の安全確保のコスト(+原発の今後の廃炉コスト、高レベル放射性廃棄物の廃棄コスト)を抜きにした成長戦略などありえない。そして、このコストを真剣に計算したら、成長戦略など吹っ飛ぶのは間違いない。それがわかっているから、政府は何もしないのである。

と、ここまで書いたところで、とんでもない動画があることを知った。

いやー、これは凄いですね。もう戦時中と同じです(というか、それよりももっと悪い)。

で、まあしかし、現代が戦時中と異なるのは、インターネットがあることだ。もちろん、ここに流れる情報も玉石混交だが、マスメディアによる大本営発表とはまったく違う情報も流れており、それがさまざまなSNSツールによって拡散されていく。
その成果の一つが、新しいエネルギー政策に関するパブリックコメントの結果だろう。

私のような者にとってはネットほどありがたいものはないが、言論操作に命をかけているこの国の権力からすれば、これほど忌々しい存在もない。
ゆえにACTAなるものが登場するわけだ。

本日、衆議院でACTAの強行採決が行われるという。その「こと」の重要性を知っている人がどれだけいるだろうか?

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2012/08/16

ところで年金はどうなった?

先日、5月に急逝した父の年金を母の遺族年金に代えるための手続きをしに年金事務所へ行ってきた。
この手続きがなかなか大変で、真夏に80歳を越えた老母一人ではどうにもならないので、私が代理人として行ってきたわけだ。

戸籍謄本やら何やらをとって、やっとこさ年金事務所へ到着すると、なるほどこれが混雑している。
やっとこさ順番が回ってきて、年金の記録を調べてもらうと、どうもデータと年金手帳の記録が異なる。ただしこれは些細な差異だったため、とりあえずデータのままで申請をしてもらうことに。
パソコンのキーボードを叩く担当者。そして、母の遺族年金の額が算出されたのだが、開口一番、

「ああ、これはほとんどマックスで出ますね。すごいなー」

とのこと。父は大正14年11月生まれだったのだが、この世代がもっとも年金額が高く、その先はどんどん目減りしていく。再び、担当者曰く、

「ワタシなんて団塊の世代ですけど、もうどんどん減ってます」

そう言って彼は年齢別の年金額の表を見せてくれた。
それを見ると、50歳の私なんぞは団塊の世代よりもさらに悲惨である(もちろん、その下の世代はさらに悪くなる)。
改めて言うまでもないが、まことにもって年金というのは国家的詐欺という他はない。

しばらく前にタレントの母親の生活保護不正受給が問題になり、メディアが盛んに取り上げていた。もちろん不正受給がいいとは言わないが、話のスケールとしては国による年金詐欺の方が圧倒的に大きい。にもかかわらず、この母親を叩いているメディアや一部の国会議員は、木を見て森を見ずどころか葉っぱを見て森を見ずとしか言いようがない。

話を年金に戻すと、私は年金額の表を見ながら、ふと「ひょっとするとこの国の権力者は、国民の数を減らしたいのではないかな」と思った。だから、たとえば福島第一原発事故による放射能の影響を最大限に過小評価しているのではないかと。

で、そんなことをボンヤリ考えていたら、先週末、気弱な地上げ屋さんの人気ブログ「ラ・ターシュに魅せられて」のエントリーに以下のような部分があった。

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「ねえ、××サン? もう14年ですか? 年間自殺者が3万人超してるでしょ? 罪務省は・・何か方策無いのですか?」
赤門出身らしい
いろんな屁理屈並べたあと・・
ついクチを滑らしました。
「でもね、気弱な地上げ屋サン。 いまこの国の現状や・・将来の経済見通しからすると・・日本の人口の・・適正規模は・・7000万人がいいとこですよ」

驚きました。
年間3万人の自殺者どころか・・
3000万人以上死んでも・・
いや・・
ヘタすると・・
3000万人以上死んだほうがいい・・
と言う意味で、言ってたのかも知れません。 (苦笑)

・ラ・ターシュに魅せられて
「2人だけのハナシなんだから、代表変わったら無効? 輿石さん・・だから、代表変わる前に解散するんでしょ!」 野田佳彦
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これを読んで私は「ああ、やっぱりな」と思った。
ま、もちろん普通に考えれば、これはいくらなんでも冗談だろうという話だろうが、しかしこの国の官僚ならそれぐらいのことは考えかねない。それこそが霞が関の官僚だと思うのだ。

それにしても年金を巡るさまざまな問題というのはどうなったのだろう?
政権交代時には「ミスター年金」と呼ばれた議員が世間で大人気を博し、勇んで厚生労働大臣になったが何もできずに退任した。その後、この議員が年金で何かを発言したという話はとんと聞かない。
そうして、先日の消費税増税法案にはしっかり賛成していた。

次の選挙の争点は「脱原発、消費税、TPP」だという。それはそれで異論はないが、年金問題も忘れてはならない。

※参考リンク
・8月11日 北海道新聞社説「消費増税法が成立 国民欺く理念なき改革」

・120810 みどりの風 緊急記者会見

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2012/07/13

世襲議員 〜 小沢一郎と河野太郎の違い

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「うちのオヤジが新しい器(注:新自由クラブ)を作って、十年苦労して、つい何年か前にその借金払い終ったというのをずっと見てますから、新しい器をつくるのも結構大変だなというのは感覚的にありますんで、どうせならまずあるものを乗っ取って、それがダメなら次のことを考えようというのが正直なあれです、、、」
(2009年11月7日 「久米宏ラジオなんですけど」に出演した河野太郎が、久米宏に「新しい器(新党)を作った方が手っ取り早くないですか?」と問われた際の答え)

音源はこちら
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小沢一郎を党首とする新党「国民の生活が第一」が結党した。
早速、朝日が昨日の社説で「小沢氏は政治資金をめぐる刑事裁判の被告である。一審判決は無罪だったが、国会や国民に対するいっさいの説明責任から逃げ続けている。けじめをつけないまま、新党の党首として政治の表舞台に立つ。私たちはそもそも、そのことに同意することはできない。」と書くなど、主要メディアは袋叩きの様相である。

朝日は同じ社説の前半で「この20年間、小沢氏がつくった新党はこれで四つ目だ。これまでの三つの党は、権力闘争と合従連衡の果て、すでに存在しない。また、その繰り返しではないのか。うんざりする思いの人も多かろう。」と書いているが、「うんざり」どころの話ではない。大歓迎である。

私の住む地域の小選挙区は、どこにでもあるような民主対自民+共産の構図だ。
2009年は民主がもちろん勝ったが、この議員は松下政経塾出身がウリというトホホな経歴で、それでも目をつぶって投票したのは、一応、小沢一郎を支持する若手グループに属していということも大きかった。
が、その後、この民主党議員が小沢一郎と行動を共にすることはなかった。要するに小沢グループに仕込まれていたユダだったことが確定したわけで、かといって自民候補はこの民主議員に輪をかけてトホホであるし、残念ながら私には日共に投票する器量もまたない。

つまり行き場がないのである。となると選挙そのものへのモチベーションが下がることになる。
そして、そういう人は決して少なくないのではないかと私は思う。
なぜなら、そもそも2009年に民主を大勝させたのは、圧倒的な浮動票だったのだから。
その浮動票が動かない=投票率が下がれば、企業、労組、宗教といった固い組織を持つ候補が有利になる。そして、低投票率の中で絶対得票では大したことのない組織候補が勝ち、霞が関と結託して国政を動かしていく、、、
これは考えてみれば恐ろしい話なのだが、一方で民主潰し(小沢外し)の最大の眼目はここにあったと私は思っている。選挙結果を左右する浮動票が選挙に対する関心を失ってくれることを、民自公の連中は切に願っていることだろう。

これに対して小沢は再度、新党を作ることで対抗した。
少し前に朝日の天声人語は「小沢は壊すことは得意だが、作ったものはない」というようなことをシラッと書いていたが冗談ではない。1993年に細川連立政権を作り、民主党では鳩山政権を作ったのである(本当は小沢政権になるはずだったが)。
自民党と霞が関による一党独裁が長く続いたこの国で、この20年間に二度も政権交代を実現した政治家は他にいない。
民主党では前原が偽メール事件でボロボロにした後の代表に就任し、参議院選挙、東京都議選、衆議院選挙と、あの政権交代のムーブメントを作ったのは小沢であって、たとえば野田には絶対にそんなことはできなかっただろう。

だから、、、
マスメディアは苛立つのである。
これだけぶっ叩いても、まだ小沢は諦めないのか、、、と。

もちろん、新党「国民の生活が第一」の前途が多難であることは間違いない。
結党に参集した議員の中に、まだまだユダが紛れ込んでいる可能性は十分にある。
そしてなにより、もはや法治国家の体をなしていないこの国では、今後も小沢のみならず、グループの有力議員に対してメチャクチャな冤罪をでっち上げてくる可能性もある。
リーガルマインドのかけらもない検察による不正行為が明らかになってもなお、小沢に対して「刑事裁判の被告」と決め付ける朝日の論調を見ていると、「このレッテルを貼るために、検察官役の弁護士は控訴したんだろうな」と私は思う。

しかしそれでも、新党「国民の生活が第一」に期待したいし(できれば埼玉4区に候補者を立てて欲しい!)、このたびは人生で初めて一つの党の党員になってもいいかな、、、とすら思っている。
新党を作るということは資金的にも大変だろう。であるがゆえに政治資金を集めるのは当たり前の行為であり、それに対して金権などとレッテルを貼るのは笑止千万である(ちなみに先日、大きな会計事務所に所属している会計士の方に話を聞く機会があったが、「小沢事務所の政治資金処理には何の問題もなく、もしこれが重大な犯罪だというのなら、どうすればいいのかわからないし、実際、現場ではそういう空気がある」と言っていた)。

それに引きかえ、、、
冒頭に発言を引用した河野太郎は、何かというと「小沢は金権」などと言っているが、久米宏から「新党への意欲」を問われると、「オヤジがカネで苦労をしたから、、、」と尻込みしているのである。
つまり、「国民の生活」よりも「自分の生活が第一」なのだろう。
河野家は3代続いた政治家の家系であり、長らく与党に所属しながら何か大きく政治を転換させた業績というのはまったくない。
河野洋平が作った新自由クラブにしても、一時こそブームを作ったが、最終的には尻尾を巻いて自民党に戻っただけ。
洋平、太郎という親子はリベラル保守の顔をして、自民党内では野党的立場にいたが、私はある自民党の秘書から、「選挙区が神奈川県という土地柄、そういうスタンス(与党内野党)が一番選挙に通りやすい」と聞いたことがある。

クリーンなのかもしれないが、時折、パフォーマンスをする以外にさして見るべきものもなく(原発問題では時々いいことを言うが、ただそれだけ)、カネで苦労したくないから自民党を乗っ取ると嘯く政治家と(それにしたってそこそこの資産はあるだろう)、叩かれても潰されても懸命にカネを集めて、70歳になっても政治理念を実現しようと挑戦する政治家のどちらが国民にとって有用かは言うまでもない。

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2012/06/24

6.22大飯原発再稼働反対デモ ~ 4万人ではぜんぜん少ない

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 ひとくちに誤報といっても、ニュースが誤ってつたえられる過程で、さまざまなニュアンスの違いがみられる。三樹精吉氏の『誤報』によると、誤報は、①虚報、②歪報、③誤報、④禍報、⑤無報……の五つに分類されるという。「公正な報道」という観点からすれば、大小の誤報とその政治的社会的影響力にてらし、大体この分類に振りわけられると思う。ただこれに、私なりにちょっと手を加えさせていただくならば、次のような類別が可能ではないかと考える。
 ①虚報──三樹氏の規定どおり完全に事実無根の報道。
 ②歪報──文字どおり事実を歪めた報道だが、そこには(イ)誇報と(ロ)矯報の二種類がある。語法上おかしいかも知れないが、誇報とはある事実をとくに誇大につたえることであり、矯報とは何らかの意図で、逆に事実よりも矮小化して報道することを指す。
 ③誤報──報道機関の機構上の欠陥からうまれる過失や、作為はないが記者の軽率さによって生じるもの。
 ④禍報──意図はないが、周囲の状況や記事作成上の不手際から、読者に誤って受けとられるばあい。不作為の歪報。
 ⑤無報(あるいは不報)──何らかの事情で報道されず終いになること。これには意識的な黙殺、つまり「自主規制」によるものと、直接に外部から圧力が加えられてニュースが抹殺される「言論統制」によるものと、二つがある。
 ⑥削報──矯報と無報(不報)にそれぞれ近いが、ある部分にかぎって、外部からの圧力や自己検閲によって記事を故意に削除すること。
 ⑦猥報──戦後の「言論の自由」によってジャーナリズムに根づよく腰をすえたエログロ・スキャンダリズム。主たる原因はマスコミの過当競争だが、注意すべきは、いわゆる識者のいうように“劣情を刺戟”することに問題があるのではなく、むしろ既成の道徳観や性にたいする偏見から、故意に男女問題をスキャンダル化して報じることに、マスコミの偽善性が特徴的にあらわれている。多くのばあい古いモラルをかくれみのにしているところに、言論報道の自由にたいして官憲や道学者が介入するスキを与えている。私は、これも現代マスコミが明らかにしなければならない主要な課題であり、アキレス腱だと考える。
 戦時中の新聞は、厳しい言論統制によって毎日のようにひどい「歪報」をかさねていたし、また戦後の占領下ではプレスコードに縛られて連日「無報」の罪を犯していたといえる。陸海軍大本営発表が極端な歪報を報道機関に強要したように、占領下の新聞はGHQ新聞課の検閲によって、アメリカ兵は「大男」、米軍ジープは「小型車」という、苦しい表現でしか報道することを許されなかった。さらにさかのぼれば、日中戦争勃発当時の「爆弾三勇士」が、全くの虚報であったことは、当時から新聞記者のあいだでは公然の秘密だったにも拘わらず、軍当局は国威発揚のために、新聞にデタラメな三勇士物語を書きたてることを強制し、銅像までつくられてしまった。知らぬは国民と三勇士の親ばかりだった、ということになるが、当時の国民にたいする宣伝効果は十二分に達せられたわけだ。軍に都合のわるいことは一切載せさせないという戦時下の言論統制は、国民の大多数をメクラ同然にしてしまったといえる。
 だが、このいわば権力の圧力によってうまれる「無報」も、戦時中は無暗に××の文章が新聞や雑誌に目立ったために、かえって検閲制度のきびしさを国民に知らせる結果になった面がないでもない。これに反して戦後の占領軍は、あきらかに削除(削報)とわかる紙面づくりを許さなかった。したがって××は「言論の自由」を高らかに謳い上げた戦後のジャーナリズムには一つも出てこない。それだけに、占領軍(とくにアメリカ軍)に対する批判がいっさい禁止されていることに、国民は気づかず、ジャーナリストの間でさえ「今日ほど言論が自由になった時代はない」などと手放しで謳歌する者がすくなくなかった。日本の検閲制度に苦しんだ言論人も、××のないことによっておこる錯誤のワナに、みごとに落ちこんでしまったといえる。その点では占領軍の言論統制は日本軍部よりも巧妙であり悪質だった。

(丸山邦男著『遊撃的マスコミ論──オピニオンジャーナリズムの構造』(1974年)より)
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先日、知り合いが「原発がすべて停止して以来、涼しい日が多いような気がする」と言っていた。
確かに6月も後半に入るが真夏のような暑さの日は少なく、朝晩は窓をあけていればひんやりするほどだ。
それが原発と関係あるかどうかはわからないが、原発という巨大海水温め装置が止まったことと気象の関係をきちんと調べてみる必要はあると思う。
何しろ核分裂反応によって得られる熱エネルギーの3分の2は、単純に海に捨てているのが原発なのだから。

さて──
一昨日の22日の夕刻、私も総理官邸前へ行って来た。

位置関係で言うと、総理官邸と道を隔てて反対側には国会記者会館があり、その前、あるいは敷地内にまで人が入り込み「再稼働反対」の声をあげていた。
集まった人数は4万以上だという。
自分たちの目の前でこれだけの人が集まったにもかかわらず、それでも何も報じないNHKや読売新聞は、つまり意識的に黙殺しているわけで、丸山邦男氏が指摘するところの「無報」である。

そにれしても──。
長らく反原発の立場にあった私としては、まさかこれだけ多くの人が原発反対のデモに参加する日が来るとは思わなかった。その意味で、まさに隔世の感がある。
しかも、若い人から年配の人まで年齢層が幅広い。そして、男性にしても女性にしても、一人でやってきている人も少なくない。また多くの人がスマートフォンを手にしてツイッターを見たり、ツイートしている。
ソーシャルメディアを手にした市民が目覚めつつある光景は、この国を支配する記者クラブメディアによる強烈な言論統制の崩壊を予感させる。

が、だからこそ私は思うのだ。
「まだまだぜんぜん少ない」と。

昨日、今日と、日頃私が目を通している多くのブログで今回のデモが、その人数も含めて好意的に取り上げられていた。
もちろん、それは喜ばしいことだ。
だが、20時を過ぎて私がデモの現場を離れて地下鉄の駅へ向かうと、少し歩けばそこにはすでに金曜日夜の永田町の日常的な静寂があった。そして電車に乗り込めば、ほとんどの人が官邸前の出来事など知るはずもない。

原子力発電所が3機もメルトスルーし、総理大臣の「収束宣言」という大ウソとは裏腹に、すでに手をつけられない状況になりつつある(ひょっとしたら手段がないという意味での「収束宣言」かもしれない)。
東京電力のみならず、すべての電力会社がデタラメの限りを尽くして原発を運転してきた。その体質を一つも改めることなく、原発を再稼働しようなどというのは狂気の沙汰だ。使用済核燃料の最終処分地の行き先すら見つからないなかでの「安全宣言」など無意味以外の何ものでもない。
これだけの現実を目の当たりにしたら、普通の国であれば暴動の一つや二つは起きていると私は思う。
にもかかわらず、この期に及んでも総理官邸の前にせいぜい4万人しか集まらないというのは、逆に言えば国家権力の情報統制がそこまで行き届いていることの証明とも言える。

私が生まれる2年ほど前に60年安保というのがあった。この時、国会周辺に集まった人数は、一昨日の人数とは比較にならない、100万人単位だったという。
にもかかわらず、時の首相である岸信介は「声なき声が聞える」と嘯いた。
官僚というのは前例を踏襲する。
おそらくいま野田を取り巻く官僚たちは、「あの60年安保に比べれば、ぜんぜん大したことはない。声なき声に耳を傾ければいいのです」と耳もとで囁いていることだろう。
岸信介という政治家が私は反吐がでるほど嫌いだが、しかし岸には岸なりの信念があっただろう。
一方、野田という男には何もない。たとえ官邸の外で少々の騒ぎがあろうとも、官僚に入れ知恵されれば何の疑問もなくそれを受け入れるだろう。そんな無気味さが野田にはある。

ところで、これまでに私が見たデモの中で最大規模のものは70年安保だ。
この70年安保は60年安保に比べると、規模としては小さいと言われる。
が、当時、小学校低学年だった私が見たこのデモは(親に連れられて見に行った)、子供心に強烈な印象として残っている。その時の記憶と比べてみても、一昨日のデモはまだまだスケールが小さい。

もっともっと多くの人が国会周辺のみならず全国で行動を起こさなければ、国民まるごと原発破局と道連れという運命は変わらない。そして、悪い奴らは誰一人責任を取ることなく逃げ切ることになる(彼らはもはや国の将来がどうなろうが知ったことではない)。
そう私は思うのである。

1969_0615
(写真は70年安保のデモ隊を見る私(^_^;) )

※丸山邦男氏(丸山真男氏の弟)の『遊撃的マスコミ論──オピニオンジャーナリズムの構造』は、近日、志木電子書籍より電子化されて刊行されます。

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2012/06/22

小沢一郎が霞が関独裁の逆鱗に触れた理由

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 2011.1.21のことである。官僚に優越する政治という、当たり前のことが当たり前でなかった現状を批判して民主党が政権を取った基本姿勢、いわゆるマニフェストを菅直人首相は転換した。
 官僚に優越する政治という、従来の民主党の姿勢は行き過ぎだった、と公に表明したのである。むろん政権を取らせた国民への、いかなるエクスキューズさも含まない公然たる裏切りである。
 わたしもこの裏切りは、現在の政権が成り立った当初から実感していたが、先の八ツ場ダム建設中止の撤回とともに「恭順」はさらに推し進められたのだ。このあざといまでの「反省」は、その露骨な「正直さ」において辟易させられる。
 (中略)
 従来からの官僚独裁は蘇ったのである。鳩山―小沢の首を以て恭順を公にし、自民党と同じ体質の「官僚さまの素直な奴隷」として。もともとそれが、菅政権の本質ではないか。濃厚な疑いはまさに立証された。フェイクとしての一党独裁とは、最終的に政治を、ハンコをつくだけの存在に限定することだ。ナツメロ漢奸菅は、そこに戻った。いまや小沢一郎という「悪」を、自民党と民主党は一致して排外し、お役に立とうと雪崩を打っている。第二の55年体制の発足である。

(岡庭昇著『理不尽』「民主党の漢奸」より)
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 鳩山=小沢で出発した民主党政権は律義に、官僚独裁から政治家の手に政治を奪い返えそうとした。
 だが独裁者官僚が巻き返さないわけはなく、アメリカとも結んで反攻に出た。誰にでも予想がつく成り行きである。手っとり早く経済スキャンダルで、鳩山=小沢を追い落とした後、アメリカお気に入りの漢奸菅と岡田に引き継がせた。だがあまりにも漢奸菅がマスコミに人気がなく、さらにドジョウに首だけすげ変えたのだ。
 この事態でついにマニフェストは死んだ。「政治優先」の残滓もなくなったのを見越して、権力(官僚独裁)はグローバリズムの手先となり国家や民衆を売ったわけだ。そうこよなく明晰なジッチャマは、偏見と独断に満ちて断言する。一党独裁(本当は官僚独裁)は、さらに強力に再生したのである。

(岡庭昇著『理不尽』「売国奴!」より)
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どうやら民主党は分裂するらしい。しかも出て行くのは2009年の総選挙で圧倒的な支持を得た小沢一郎を中心としたグループで、残るのはこの総選挙で歴史的な大ウソをついた野田のグループだという。そして、この連中は、これまた先の総選挙で国民から圧倒的な不信任を突きつけられた自民党と手を組む。
ところが「造反」しているのは小沢グループだとマスメディアは書き立てている。
この光景を目の当たりにして思うのは、日本を長らく独裁支配してきた霞が関の凄まじい力で、私はその威力に慄然とせざるを得ない。

もとより今回の政局は、野田と小沢の対立ではない。
小沢一郎が民主党の代表就任以来、相手にしてきたのは、安倍でもなければ麻生でも菅でも野田でもないく、常にその背後いる霞が関(とそれを取り巻く利権集団)であった。
これに対して独裁権力を恣にしていた霞が関もまた、小沢一郎を最大の敵として認定した。
それはなぜか。
もちろん、小沢が独裁権力の本質を見破っていたことが第一の理由であるが、なによりも彼らの逆鱗に触れたのは、それを「国民の生活が第一」というキャッチフレーズに集約して、わかりやすく国民の前に提示したからではないかと私は思う。
これまで、完璧な言論操作で「日本はいい国だ」と信じ込まされてきた国民は、年金行政などを見るにつけ、薄々ながら「本当はこの国はひどいことになっているのではないか?」という疑念を募らせてきた。そこへ登場したこのキャッチフレーズは、デタラメの限りを尽くしてうまい汁を吸ってきた連中からすれば、世界一おとなしい(飼いならされた)国民に目覚めるきっかけを与えてしまうという意味で、正しく体制の危機だった。
しかも小沢は、せっかく前原が偽メール事件でボロボロにさせることに成功した民主党を瞬く間に立て直し、政権交代を可能にする勢力にまで復活させた。

ここから小沢対霞が関独裁の闘いが始まった。
小沢の狙いは衆議院選挙と参議院選挙に勝ち、真の権力交代、つまり霞が関から国民の代表である政治への権力交代を実現させること。
これに対して霞が関は衆議院選挙を前に小沢を民主党代表の座から引きずり下ろすことに専念し、衆議院選挙の勝利は捨てた。ただし、民主党が衆議院選挙で圧勝したことから、生半可な切り崩しが不可能になったため、参議院はどうしても民主党が負けて「ねじれ」を起こさせる必要があった。
そこで、参議院選挙の前に小沢の代理である鳩山のクビを飛ばし、菅直人を首相にして「消費税」を口にさせることで見事に民主党を沈めることに成功した。

ところがここで予想外の事態が一つ起きた。
それが3.11であり、福島第一原発の破局事故である。
独裁権力にとって傀儡政権とは当然ながらコントローラブルでなければならない。ところが、市民運動上がりの菅は、原発という戦後日本が生んだ最大のデタラメ利権を国民の批判から守るには、あまりに危険な人物だった。
そこでさらに菅を引きずり下ろして登場したのが、100%コントローラブルな野田だ。
この男は松下政経塾という独裁権力の身内出身で、利権集団のためならどんな大嘘でも平然とつけるという人材である。
平時であれば、これほどあからさまな人間というのはかえって使い道がないものだが、原発が3機もメルトダウンして収束もままならず、さらに4号機が危機敵状況にあるというなかでは、徹底的に独裁権力&利権集団に忠誠を誓える人間を首相に据えないと、彼らがこの事態から無傷で脱出できることはできない。
そうして、この野田の一派と自民党の残滓(利権に戻りたくてうずうずしている集団)は結合する。
岡庭氏が指摘するところの第二の55年体制の発足である。
ただ、実は私はこの体制はそう長続きはしないと思っている。
それは、福島第一原発の破局事故が彼らの浅はかな思惑などぶち壊すほどの猛威を、これからも振るい続けることは間違いないからだ。

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2012/06/13

『プロメテウスの罠』の罠

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 日本の国連加盟が、昨年の十二月十八日の総会で決定された直後、重光前外相はとりまく記者団に向ってこう語った。
「満州事変以来の日本の混迷は今日この日をもって終った。これもついに国民の努力の結果である。この事実を基礎に謙虚な態度で過去のあやまちをふりかえり、二度と同じ間違いをしないようにしたいものである」(『朝日』31・12・19・夕刊)
「大日本帝国」最後の外務大臣、ミズーリ号調印式の政府代表、巣鴨のA級戦犯、そして国連加盟を承認された日本の外相と、このあわただしい十数年間それぞれの時期にそれぞれの歴史的な役目を負わされて来た人の言葉として、その中にはたしかに無量の感銘がこめられていたであろう。
 私はこの重光前外相の言葉を率直に受取りたい。しかし、「日本の混迷は今日のこの日をもって終った」という意味が、戦争以来こんにちまでの数々の過失と罪悪を、ここでやっと洗いおとしたというような、そんな生やさしい安堵感のあらわれだとすれば、私はこの言葉を全面的に否定する。それは、昨年あたりしきりとかつぎ出された「もう戦後ではない」という合言葉の裏にひそんでいる責任回避の意識、早く過去の現実からすりぬけたいというあのうしろめたそうな願望に通じるものが感じられるからである。
 とはいうものの、私はやはり重光氏の談話を額面どおり、善意に解したい。とすれば、むしろ今日この日から、「謙虚な態度で過去のあやまちをふりかえり、二度と同じ間違いをしないように……」という言葉にその重心をおかねばならぬ。それは、戦後十一年余の永きにわたって、まったく放置され、あるいは意識的に回避されて来た多くの問題を、この日からあらたな気持で直視し、検討するということであろう。けっして、いい加減に妥協したり、問題の焦点をズラしたりすることですりぬけられてはならない。そして、ここでとらえられたことは、過去がそのまま明日への架け橋としていかされるように提出されねばならないのだ。
 この日から、これだけは正しくはじめられねばならぬ過去の解明──国連加盟を私は、そのような日として明記したい。
    ☆
 私はその一つとして真っ先に戦争責任の問題を挙げる。
 昨年は知識人や文学者の戦争責任がさかんに論ぜられた。それは天皇から共産党まで、徹底的に追究せよという意見から、全くナンセンスだという総無責任論まで、まさに百家争鳴であった。しかし、折から巣鴨を出所した荒木貞夫、橋本欣五郎両氏を筆頭とするA級戦犯が、無謀な戦争指導者としての責任に全く無自覚だといわれたのと比較して、それはともかく真摯な意図によっておこなわれたことだけはたしかであろう。
 ただ私にはどうしても不思議でならなかったのは、知識人や文学者の戦争責任を、絶好の論争テーマとして取上げた新聞・雑誌・放送を含むジャーナリズムの態度である。正確にいうなら戦争責任論と、これを積極的に取上げたジャーナリストの関係についてである。
 ジャーナリストは一体、知識人であるのかないのか。すくなくとも職能的には知識人から除外される根拠は一つもないだろう。あるとすれば、それは次にのべる無責任の意識においてである。
 この一年間、知識人とくに文学者の責任がするどく追究されながら、ついにジャーナリストの責任については全くとりあげられなかった。戦争責任の問題で、文学者のみに追究の鋒先がむけられ、文学者よりはるかに政治に近接し、社会的影響力においても国民大衆と直結しているジャーナリスト(先に挙げた新聞・雑誌・放送関係者を含む)の責任が不問に附されているというバカげた法はない。文学者の戦争責任を“十大論争”などの一つにおさめているジャーナリズム自身は全く無風状態の中にある。つまり、このことは、戦争責任論がジャーナリストたちにとってはたんなる論争か特集記事のテーマにすぎず、しかもこの問題をとりあげている一部の新聞・雑誌編集者を除いて、大部分のジャーナリストにとっては、A級戦犯やパージ解除者にとってと同じように、すでに死語となっているという事実を示している。それは、十年前、各新聞社、雑誌社、放送局を襲った社内民主化と戦犯追放のあらしによって、片づいてしまったものと考えられているのである。
 間違いの出発点はここにあった。言論と報道に携わるジャーナリストの責任問題が、役人や財界人などと同じ目尺で行われた戦後の形式的な責任処理(職階によってきめられたパージ)によって解消されうるはずがない。
 私はジャーナリストなどという漠とした用語で表現したが、それは第一に新聞記者であり、第二に雑誌編集者であり、第三に放送関係者(とくに番組の企画・決定権をもつ者)であり、そして第四にマス・コミに登場する学者・評論家などである。
 横にならべるとこういうことになるが、これは大きく二つに分けられる。つまり、書く者と、書かせる者の立場である。戦争責任追究に則していうなら、新聞や雑誌の上で言論・報道に携わった新聞記者や評論家の責任、それと新聞・雑誌社というマス・コミ機構の内部にあって編集に携わった者、つまり編集者の責任ということであろう。
 ジャーナリストの戦争責任が、この一年間まったく取上げられていない、と私はいった。いや一年間だけではなかった。戦後ただの一度もジャーナリスト自身の問題として自主的に考えられたことはなかったのではないかと思う。
(以下略)

「ジャーナリズムと戦争責任」 丸山邦男 (1957年2月 「中央公論」掲載原稿より)
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しばらく滞っていた当ブログの更新を、なんとか元に戻したいと思っております。
この間、コメントをいただいたみなさま、公開もせずに申し訳ありませんでした。お詫びいたします。

それにしても、このひと月の間も世の中は順調に悪くなっている。
大飯原発を再稼働するという。「最終責任者は私だ」と総理大臣なる男はのたまった。
この男は、政権交代が実現した前回の歴史的な総選挙の際、「消費税増税をする前にやることがある。公約しないことはやらない」と大見得を切った。しかし、これは大嘘だった。
そして、福島第一原発の事故は収束したという、子どもでもわかる大嘘をついた。
歴史に残る二つの大嘘をついた男の言葉を信じるほど、私はお人好しではない。
福島第一原発の破局事故では、未だ誰一人として責任を取っていないわけだが、そういえばこの男は、「福島第一原発事故の個人の責任は問わない」旨の発言をしている。つまり、今後、再稼働した原発で事故が起きたとしても、端から責任をとるつもりなどないのだろう。

自分たちが起訴できなかった総理大臣の有力候補を何がなんでも法律には素人集団の検察審査会で起訴させようと捜査報告書を捏造し、目論見通りに起訴することに成功した集団がいる。マスメディアが「史上最強の捜査機関」と絶賛してきた東京地検特捜部だ。
検察審査会制度の良し悪しは別として、まったくもって市民をバカにした、コケにしきった話であり、法治国家の枠組みをぶち壊すおそるべき犯罪集団である。
ところが彼らの身内である東京地検特捜部の元部長によれば、こんなことは「小さなこと」なのそうだ。つまりこの程度のことは日常茶飯にやっていることで、もっと大きなことをいくらでもやっているということだろう。はからずもそれを告白してしまったわけだが、なるほどその結果がロッキードであり、リクルートであり、鈴木宗男であり、福島県知事、、、ということか。

とはいえ、当然のごとく疑問をもった市民団体が、この犯罪集団を告発した。ところが彼らは自分たちの手で捜査をして、近日中に不起訴の結論を出すという。近所の独裁世襲国家も腰を抜かし、尻尾を巻いて逃げ出すような話である。
さして有能とは思えない元検事の法務大臣が、さすがにこれではいかんという認識のもと、指揮権を発動するべく総理大臣相談したら、法務大臣はアッサリと更迭された。

・現代ビジネス
「指揮権発動について再び首相と会う前日に更迭された」、「小沢裁判の虚偽報告書問題は『検事の勘違い』などではない!!」小川敏夫前法務大臣に真相を聞いた

すでに少なからぬ人が忘れてしまったと思うが、菅内閣時代に柳田という法務大臣がいた。彼はマスメディアが言うところの「失言」で更迭されたが、実は至極真っ当な検察改革をしようとしていた。
ところが、さして問題とも思えない発言をメディアが針小棒大に取り上げて、あっという間に更迭されてしまった。

ついでに言えば──。
野田内閣発足時には鉢呂という経産大臣がいた。どうしようもない顔ぶれの内閣にあって、原発に対して比較的まともな認識を持つ人物であったが、この鉢呂もマスメディアが騒ぎたてた「失言」によってあっという間に更迭された。

・誰も通らない裏道
鉢呂辞任と柳田辞任の共通点

その後任には何の批判もなく、3.11当時の官房長官で、驚くほど多くの人びとに無用な被ばくをさせてしまった犯罪議員が就任した。この男は「ただちに影響はない」との詭弁を弄して国民を騙し続けていたが、先月末に行われた国会の事故調査委員会で「炉心も溶けているし、漏れているのはあまりにも大前提で、改めて申し上げる機会がなかった」とのたまった。

・痛いニュース
枝野官房長官(当時)「メルトダウンは分かり切ったことで言わなかった」

唖然とする発言で、即刻、経産大臣という役職を剥奪すべきだと私は思うが、先の内閣改造でも留任し、野田とともに大飯原発再稼働を推進する中心人物として居座っている。
思うに、野田、枝野、細野など、大飯原発再稼働を目論む連中は、しきりに大飯の安全性、健全性を強調するが、そもそも彼らの頭の健全性が失われているとしか言いようがない。

さて──
すっかりマクラが長くなってしまったが、、、(久しぶりのブログ更新であるとともに、先日、柳家小三治師匠の独演会を堪能したためか)。
本日、書きたかったのは朝日新聞が「好評連載」と胸を張る「プロメテウスの罠」についてだ。

私は朝日新聞の購読者ではないのでこの連載を読んでいなかったが、先日、単行本を読む機会があった。
連載直後から、ネットでも少しく話題になっていたので、期待して読み始めたのだが、冒頭部分からすでに大きな違和感を抱かざるを得なかった。
この本の「はじめに」にはこう書かれている。あえて全文を掲載してみよう。

********************
 はじめに

 2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故──いわゆる「3・11」は未曾有の衝撃を日本社会に与えました。
 物理的被害の甚大さだけではありません。私たちが長い間「安全」と信じようとしてきたものが一瞬にして崩れ去り、社会の大前提が根っこから揺らいでしまいました。言い古された言葉を使えば「安全神話は崩壊した」のです。とりわけ原発事故は衝撃的でした。放射能汚染が明らかになるにつれて、私たち一人ひとりの心に「何を信じればいいのか」という不安と「どうしてこんなことになったのか」という疑問を広げてきました。
 報道現場も例外ではありません。いや、より深刻でした。事故の実態をまず追わねばならなかった現場では、現に起きていることの情報すら希薄でした。不安におののく被災者、右往左往する政府や東電関係者を尻目に、汚染は福島県から県外にと広がり続けました。記者たちは「どうして」を自問しながらも、ただただ「何が起きたのか」を求めて走り回るほかありませんでした。それでも全貌をつかむことが到底できない、腹ふくるる日々だったのです。
 ひと月ほどして私たち朝日新聞は、あの時、福島で日本で何が起きていたのかにもう一度肉薄し、同時にどうしてそうなってしまったのかに迫る長期連載を構想し始めました。事実を丹念に追うなかで、この世界史的事故の意味を問いたいと考えたからです。
 原発は、戦後の日本が国策として決断し衆知を集めて作り上げ、万全の危機対策も誇ったはずの造営物です。電力は社会の近代化や成長の源であり、原発はまさに人々の生活を豊かにするために作られたはずです。
 だが事故は防げず対応はもたつき、原発は人と社会に刃を向けました。原発の意味と歴史を知る私たちは、単に「人知の限界」「想定外」として済ますことはできません。科学技術への姿勢、政策決定の仕組み、政治や世論のあり方など戦後の日本社会の体質にも切り込まねばならないだろうという予感に満ちて、取材は始まりました。
 原子力はときに、人間に「火」を与え文明をもたらしたとされるギリシャ神話のプロメテウスにちなみ「プロメテウスの第二の火」と形容されます。
 この火はしかし、人々の生活にいったい何をもたらしたのか――
 連載『プロメテウスの罠』は、2011年10月から朝日新聞紙上でスタートしました。分かりやすく事実をもって事態を語らしめようと、出来事の細部に徹底的にこだわりつつ、ほぼ連日の掲載を続けています。本書はその冒頭、第6シリーズまでの内容の書籍化です。
 本書を通じて私たちの思いが伝わり、読者の皆さんがまだまだ続く朝日新聞紙上での連載にも熱いご声援を送ってくださることを願ってやみません。

  二〇一二年二月
    朝日新聞社 編集担当 吉田慎一

※下線はブログ主
********************

ありていに言えば、この「はじめに」を読んだ時点で、私は「こりゃダメだ」と思った。
なぜなら、この記者がア・プリオリに信じていた前提にこそ、日本の原子力産業の本質的な問題が潜んでいるからだ。
『言い古された言葉を使えば「安全神話が崩壊した」のです。』だって?
そもそもそんなものは存在しなかったんだよ。
それは推進派を含めた原子力に関わるすべての人が知っていた。だからこそ原子力ムラの連中は莫大なカネをかけて「安全神話」をでっち上げたのである。そしてメディアはこの工作に深く関与していた。
にもかかわらずこの記者は、「安全だと思っていたらこんなことになってビックリ仰天した」という立場に立っている。
これは、戦争中にさんざん大本営発表を垂れ流していたメディアが、敗戦を迎えて「日本は勝つと信じていたのに、まさかこんなことになるとは思わなかった」と言っているようなものではないか。

ただ、ここで思うのは、この記者が本当に単純に「安全神話」を信じていのかもしれないということ。だとすると、つまり朝日新聞社という会社は、原発の安全神話を疑うようなタイプの人間は採用していないのかもしれない。
そう考えると、記者クラブに所属して発表情報を何の疑念もなく垂れ流し続けるこの会社の体質(検察にしても原発にしてもみんなそうだ)も理解できる。要は、朝日新聞記者たる者、本当の権力に対しては疑問なんて持ってはいけないということなのだろう。

そして、この記者は「右往左往する政府や東電関係者を尻目に、」と書く。
確かに東電の現場は右往左往していただろう。しかし、では経営トップはどうだったのか。彼らはどのように動いていたのか。これを検証することこそ、福島第一原発の破局事故でもっとも重要な点であると私は思う。
なぜなら東京電力は史上稀に見る犯罪企業なのだから。
おそらく──
東京電力で経営責任を負う人々は、自分たちに火の粉が降りかからぬよう全力で情報を操作し、危ない証拠を隠滅し、あらゆる方面に圧力をかけただろう。東電の経営トップが事故後、どのように動いていたのか? そこに斬り込まなくて、何がジャーナリズムなのか。

「だが事故は防げず対応はもたつき、原発は人と社会に刃を向けました。」

たとえば、もしジャーナリズムが本来持っていると想定される使命をきちんと行使して、原子力産業を取材し、批判していれば、これほどまでの破局事故は起こらなかったと私は思う。ところが、実際には多くのメディアが、それも大きいメディアほどが、原子力産業とがっちりスクラムを組んで、「安全神話」の構築にせっせと汗を流してきた。そのジャーナリズムの責任を丸ごと抜け落とした上で、「原発は人と社会に刃を向けました」などと書くのは噴飯ものである。

「原発は、戦後の日本が国策として決断し衆知を集めて作り上げ、万全の危機対策も誇ったはずの造営物です。電力は社会の近代化や成長の源であり、原発はまさに人々の生活を豊かにするために作られたはずです。」

こういう文章を書く人間に、私はジャーナリストとしての資質があるとは到底思えない。
なにしろ、私のような素人でさえ、ちょっと調べれば原発の危機対策などほとんどなかったことなど知っている。この国では原子力災害は起きないことになっていたから、その対策など必要ないというのが基本スタンスだった。そして、コストアップの要因になる安全対策をどんどん切り捨て、そのかわりに「原子力は安全だ」という宣伝に莫大な予算を投入したのだ。

「科学技術への姿勢、政策決定の仕組み、政治や世論のあり方など戦後の日本社会の体質にも切り込まねばならないだろうという予感に満ちて、取材は始まりました。」

それほどの「予感に満ちて」いるのなら、まず自社の広告局へ行ってグループ全体で電力会社や電事連といった原子力関係のクライアントから過去から現在にいたるまで、どれだけの広告予算をもらっていたかを調べて発表するべきだろう。原子力産業を語る上で必要不可欠なのは、メディアとのつながりであり、それこそが「戦後の日本社会の体質」なのだから。

「本書を通じて私たちの思いが伝わり、読者の皆さんがまだまだ続く朝日新聞紙上での連載にも熱いご声援を送ってくださることを願ってやみません。」

繰り返して書くが、自分たちの責任をまったく棚上げどころか「ないもの」として、「熱いご声援を送ってくださることを願ってや」まないというこの認識は、見当違いもはなはだしい。
そして私は思うのである。この「プロメテウスの罠」という連載は、そもそも朝日新聞が自らの責任から目をそらすための「罠」なのではないか、と。
もっともこれは今に始まったことではなく、それが日本のマスメディアの体質であることは、最初に引用した丸山邦男氏の文章が、今読んでもまったく古びていないことが証明している。

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2012/05/01

連休谷間の戯言〜
千年に一度の想定もできないタコ集団に、
万年単位の放射性廃棄物の管理などできるかっ!

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落合 だからおれ、この考え方間違っているかも知れないけれど、あえて言うよ。野球界、いっぱい問題あるよね。で、実行委員会、月に何回やるの。これだけ問題あるのに、全部が棚上げされている。何にも進まない……。ということは、やらなきゃいけない仕事をみんな放棄しているわけだ。
 おれ、日本の政治と一緒だと思っているんだ、ここ数十年の球界というものは。政治家は、人から信任されて、政治家になる。だったら、この国家危急存亡のときに休んでいる暇なんてないだろうって思う。国会? 休会している場合じゃないだろう。この国をよくするために、変えるために、あんたら毎日働かなきゃいけないんじゃないのか。土日返上して、毎日会議やって、一日でも早く法案を通さないかんだろう。世の中が望んでいるのだから、しかるべく結論を出して実行実現させなきゃいかんじゃないかと。それがどうだい、一年のうち決められた日数しか、国会、やらないでしょう。それと野球界は、一緒だな。絶対変わらない。命がけで変えようと思っている者がいない。これは政治でもそうだと思う。それよりもっと野球界はひどいんだもん。変わるわけがない。だれがコミッショナーになったって一緒だよ。

「新潮45」2012年5月号
オレ流「プロ野球改革論」 落合博満VS.坂井保之 より
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知り合いの国会議員秘書氏によれば、連休の谷間の本日あたりは議員会館は閉めている事務所もあるらしい。
地方選出の議員は地元に帰って大忙しなのだそうだ。
facebookを見れば、休みをとってゴルフに出かけている友人も複数。
世の中は3.11以前とまるで変わらなく動いている。
しかし、どう考えても現実に起きていることはただ事ではない。

・低気温のエクスタシー
〔放射能写真〕郡山市の子供が遊ぶスポットも数値が高い

今、手を打たなくては未来永劫にわたって禍根を残すような事態が進行中にもかかわらず、これまでの政策の責任を問われたくない原子力ムラの連中と、その集団に担がれた政府の面々は、対策を取るどころか放置し、なかんずく現在、避難している人々をも帰宅させる方向に動いている。

総理大臣は犬のように(という表現は犬に気の毒だが)千切れんばかりに尻尾を振りながら訪米したが、今日の東京新聞2面には↓のような記事があった。

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原子力協力委
首相、再稼働へ加速狙い
米お墨付きで反対論抑制

 野田佳彦首相がオバマ米大統領との首脳会談で、民生用原子力協力に関する二国間委員会の設置を決めるのは、首相が目指す原発再稼働方針を加速させる狙いがある。再稼働に対して原子力大国である米国のお墨付きを得ることで、日本国内の反対論を抑えたいという思いがあるようだ。
(以下略)
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国内の反対論をアメリカのお墨付きで跳ね除けようということらしい。
この記事が事実なら、日本国の首相というのはクズの中のクズだね(ちなみに普段、マスメディアの書くことはほとんど信じていないが、東京新聞の原発関連記事は信用している)。

その原発再稼働についてだが、京都大学原子炉実験所の教授なる肩書きを持つ人物によれば、「原発ゼロは危険な社会実験」なのだそうだ。

・ざまあみやがれい!
あの山名元が今度は支離滅裂な「タイタニック」の例えで「原発ゼロは危険な社会実験」と暴言!

世界有数の地震国家、かつ島国という条件の場所に50機以上の原発をつくるという「危険」かつ「壮大」な「社会実験」をした結果、このたびの大破局を来したという認識がこの人物にはない。
こういう人物が京都大学という最高学府の教授である一方、原発の危険性と破局事故の可能性を指摘し続けた人物が助教なのがこの国の現実である。

・京都大学原子炉実験所
研究部門等教員配置表

福島第一原発の事故は、千年に一度という想定外の地震と津波だったから事業者に責任はなく、そもそも原子炉の設計段階でそのような「あり得ない」状況を想定することは、現場では一笑に付されていたのだそうだ。

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 東日本大震災による大津波が発端となり、世界有数の原発事故を起こした東京電力福島第一原発。その設計や安全性の検証を担った東芝の元社員二人が本紙の取材に応じ、「設計時は、これほどの津波は想定していなかった」と証言した。東電の想定していた津波は最高で五・五メートル。実際には倍以上高い十四メートルを上回る大津波が押し寄せており、二人は設計に想定の甘さがあったと口をそろえる。
 取材に応じたのは、一九七〇~八〇年ごろに同原発の安全性を検証した元技術者の男性(63)と、七一年から順次稼働した同原発1~3号機と、5~6号機の設計に加わった元設計者の男性(69)。
 タービンの安全性の検証に携わった元技術者は、原発の設計図の青焼きを見ながら「今回のような大津波やマグニチュード(M)9は、想像もできなかった」と振り返った。
 元技術者は事故や地震が原因でタービンが壊れて飛んで炉を直撃する可能性を想定し、安全性が保たれるかどうかを検証。M9の地震や航空機が墜落して原子炉を直撃する可能性まで想定するよう上司に進言した。
 だが上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑に付したという。
(以下略)
「東京新聞」2011年3月23日より
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ところで原発を運転することで出てくる高レベル放射性廃棄物というものは、その管理を万年単位、それも十万年、百万年の単位でしなければならない。
たかだか千年単位の事態ですら想定できないタコ集団に、どうして百万年単位の想定などできるのか?(まあそんな時点まで管理可能と言っている時点で頭がおかしいが)

世の中には様々な職業についている人がいるが、プロフェッショナルであれば、みなその仕事にプライドを持っているわけで、それをよく〇〇屋という表現をすることがある(「鉄道屋」とか)。
もし、電力会社の人間がそれぞれプライドを持って仕事をしているのならば、原発がダメでも「火力屋」や「水力屋」が「俺たちが頑張って、絶対、電力不足なんて起こさせない」という声が出くるはずで、それがプロの気概というものだろう。
ところが、そんな声は一つも聞こえてこないどころか、東電(他の電力会社も同様)から出てくるのは、「原発が稼働しなければ、電力不足になる」「電気料金を値上げするしかない」という恫喝だ。
歴史上、稀に見る犯罪企業が、この期に及んでもこういう態度を取れるのは、電力会社が地域独占であるからである。
そして、そういう経営形態であるにもかかわらず、この会社のトップは常に経団連の要職を努め、規制緩和やら新自由主義やらの旗を振り、二言目には「自己責任」なる文句を持ち出して、時の政府に影響力を与えてきた(4月29日のバス事故にしても、規制緩和による価格競争激化と密接な関係があるだろう)。

いやはや日本の国民というのは、とことんナメられたものである。

ついでに言えば、、、
現在、新聞各社は横並びで野田政権の消費税増税路線を全面的にバックアップしているが、一方で新聞業界は「消費税率引き上げの際は、欧米諸国と同様に軽減税率を適用するよう求めている」ことをご存知ですか?

・日本新聞協会
税制改正で経産省に要望

もう何から何までデタラメだらけで、私なんぞは激怒するのが普通じゃないかと思うのだが、どうやら今もってこの程度のことで怒っているのは圧倒的少数派らしい。

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2012/04/16

仙石由人の古典的恫喝と
原発を知りつくした男が東京電力を辞めた理由

本日の東京新聞によると、仙石由人は、「脱原発依存が実現するまで、真っ暗な中で生活をおくるわけにはいかない」
と述べたそうだ。
かつて自民党政権時代、「原発を停めたらロウソクで生活しなければならなくなる」というようなことを言った政治家がいたが、この手の論理はずっと以前から推進派が使ってきた最単純な恫喝である。

一方、枝野幸男は「七月以降に猛暑が来る可能性がある。それまでに(再稼働の)理解をいただければありがたい」と言ったそうだが、この男はいつから気象予報士になったのか? まさに周りから「そう刷りこまれている」ことを露呈したといえるだろう。

京都大学の小出助教は原発に破局事故が起こる可能性をずっと指摘してきた。
これに対して、推進派の御用学者や政府は「絶対に起きない」と言ってきた。
結果、破局事故は起きた。

そして今、小出助教は「原発をすべて停めても電力不足は起きない」と言っている。
一方、推進派は「原発を再稼働しないと、真っ暗な中での生活をおくることになる」と言い出した。
どちらの言葉が信じるに値するかは火を見るより明らかだろう。

ただ、原発を停めても電気が足りるからと言って、享楽的な生活を送っていいというわけではない。
これまで日本経済は成長一本槍で来たわけだが、これからはほどほどで足れりとしなければならず、相当な我慢も必要になる。
しかし、それは依然として収束のメドすら立っていない原発事故を現在進行形で抱えている国としては、致し方のないことで、それがせめてもの後世の人びとへの償いである。

元東電社員木村俊雄氏:原発を知りつくした男 東京電力を辞めた理由

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2012/04/12

福島4号機のプール冷却が停止
第1原発、警報作動

以下のようなニュースか流れています。
北朝鮮の人工衛星に対しては、あれだけ「万が一」を懸念して大騒ぎする政府やマスメディアは、なぜ騒がないのでしょう?

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福島4号機のプール冷却が停止 第1原発、警報作動

 東京電力は12日、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールの冷却装置で午後2時44分に警報が作動し、装置が停止したと発表した。現場で水漏れの有無などを確認中。当時の水温は28度で、冷却停止中の上昇は毎時約0・5度とみられ、急激ではないとしている。

 プールの中には使用済み燃料1331本が貯蔵され、熱を発し続けている。装置はプールの水を引き出し、冷やした上でプールに戻す仕組み。警報が作動したのは水を冷やす機器の付近で、水漏れや異物の混入などの可能性が考えられるという。
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