6.22大飯原発再稼働反対デモ ~ 4万人ではぜんぜん少ない
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ひとくちに誤報といっても、ニュースが誤ってつたえられる過程で、さまざまなニュアンスの違いがみられる。三樹精吉氏の『誤報』によると、誤報は、①虚報、②歪報、③誤報、④禍報、⑤無報……の五つに分類されるという。「公正な報道」という観点からすれば、大小の誤報とその政治的社会的影響力にてらし、大体この分類に振りわけられると思う。ただこれに、私なりにちょっと手を加えさせていただくならば、次のような類別が可能ではないかと考える。
①虚報──三樹氏の規定どおり完全に事実無根の報道。
②歪報──文字どおり事実を歪めた報道だが、そこには(イ)誇報と(ロ)矯報の二種類がある。語法上おかしいかも知れないが、誇報とはある事実をとくに誇大につたえることであり、矯報とは何らかの意図で、逆に事実よりも矮小化して報道することを指す。
③誤報──報道機関の機構上の欠陥からうまれる過失や、作為はないが記者の軽率さによって生じるもの。
④禍報──意図はないが、周囲の状況や記事作成上の不手際から、読者に誤って受けとられるばあい。不作為の歪報。
⑤無報(あるいは不報)──何らかの事情で報道されず終いになること。これには意識的な黙殺、つまり「自主規制」によるものと、直接に外部から圧力が加えられてニュースが抹殺される「言論統制」によるものと、二つがある。
⑥削報──矯報と無報(不報)にそれぞれ近いが、ある部分にかぎって、外部からの圧力や自己検閲によって記事を故意に削除すること。
⑦猥報──戦後の「言論の自由」によってジャーナリズムに根づよく腰をすえたエログロ・スキャンダリズム。主たる原因はマスコミの過当競争だが、注意すべきは、いわゆる識者のいうように“劣情を刺戟”することに問題があるのではなく、むしろ既成の道徳観や性にたいする偏見から、故意に男女問題をスキャンダル化して報じることに、マスコミの偽善性が特徴的にあらわれている。多くのばあい古いモラルをかくれみのにしているところに、言論報道の自由にたいして官憲や道学者が介入するスキを与えている。私は、これも現代マスコミが明らかにしなければならない主要な課題であり、アキレス腱だと考える。
戦時中の新聞は、厳しい言論統制によって毎日のようにひどい「歪報」をかさねていたし、また戦後の占領下ではプレスコードに縛られて連日「無報」の罪を犯していたといえる。陸海軍大本営発表が極端な歪報を報道機関に強要したように、占領下の新聞はGHQ新聞課の検閲によって、アメリカ兵は「大男」、米軍ジープは「小型車」という、苦しい表現でしか報道することを許されなかった。さらにさかのぼれば、日中戦争勃発当時の「爆弾三勇士」が、全くの虚報であったことは、当時から新聞記者のあいだでは公然の秘密だったにも拘わらず、軍当局は国威発揚のために、新聞にデタラメな三勇士物語を書きたてることを強制し、銅像までつくられてしまった。知らぬは国民と三勇士の親ばかりだった、ということになるが、当時の国民にたいする宣伝効果は十二分に達せられたわけだ。軍に都合のわるいことは一切載せさせないという戦時下の言論統制は、国民の大多数をメクラ同然にしてしまったといえる。
だが、このいわば権力の圧力によってうまれる「無報」も、戦時中は無暗に××の文章が新聞や雑誌に目立ったために、かえって検閲制度のきびしさを国民に知らせる結果になった面がないでもない。これに反して戦後の占領軍は、あきらかに削除(削報)とわかる紙面づくりを許さなかった。したがって××は「言論の自由」を高らかに謳い上げた戦後のジャーナリズムには一つも出てこない。それだけに、占領軍(とくにアメリカ軍)に対する批判がいっさい禁止されていることに、国民は気づかず、ジャーナリストの間でさえ「今日ほど言論が自由になった時代はない」などと手放しで謳歌する者がすくなくなかった。日本の検閲制度に苦しんだ言論人も、××のないことによっておこる錯誤のワナに、みごとに落ちこんでしまったといえる。その点では占領軍の言論統制は日本軍部よりも巧妙であり悪質だった。
(丸山邦男著『遊撃的マスコミ論──オピニオンジャーナリズムの構造』(1974年)より)
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先日、知り合いが「原発がすべて停止して以来、涼しい日が多いような気がする」と言っていた。
確かに6月も後半に入るが真夏のような暑さの日は少なく、朝晩は窓をあけていればひんやりするほどだ。
それが原発と関係あるかどうかはわからないが、原発という巨大海水温め装置が止まったことと気象の関係をきちんと調べてみる必要はあると思う。
何しろ核分裂反応によって得られる熱エネルギーの3分の2は、単純に海に捨てているのが原発なのだから。
さて──
一昨日の22日の夕刻、私も総理官邸前へ行って来た。
位置関係で言うと、総理官邸と道を隔てて反対側には国会記者会館があり、その前、あるいは敷地内にまで人が入り込み「再稼働反対」の声をあげていた。
集まった人数は4万以上だという。
自分たちの目の前でこれだけの人が集まったにもかかわらず、それでも何も報じないNHKや読売新聞は、つまり意識的に黙殺しているわけで、丸山邦男氏が指摘するところの「無報」である。
そにれしても──。
長らく反原発の立場にあった私としては、まさかこれだけ多くの人が原発反対のデモに参加する日が来るとは思わなかった。その意味で、まさに隔世の感がある。
しかも、若い人から年配の人まで年齢層が幅広い。そして、男性にしても女性にしても、一人でやってきている人も少なくない。また多くの人がスマートフォンを手にしてツイッターを見たり、ツイートしている。
ソーシャルメディアを手にした市民が目覚めつつある光景は、この国を支配する記者クラブメディアによる強烈な言論統制の崩壊を予感させる。
が、だからこそ私は思うのだ。
「まだまだぜんぜん少ない」と。
昨日、今日と、日頃私が目を通している多くのブログで今回のデモが、その人数も含めて好意的に取り上げられていた。
もちろん、それは喜ばしいことだ。
だが、20時を過ぎて私がデモの現場を離れて地下鉄の駅へ向かうと、少し歩けばそこにはすでに金曜日夜の永田町の日常的な静寂があった。そして電車に乗り込めば、ほとんどの人が官邸前の出来事など知るはずもない。
原子力発電所が3機もメルトスルーし、総理大臣の「収束宣言」という大ウソとは裏腹に、すでに手をつけられない状況になりつつある(ひょっとしたら手段がないという意味での「収束宣言」かもしれない)。
東京電力のみならず、すべての電力会社がデタラメの限りを尽くして原発を運転してきた。その体質を一つも改めることなく、原発を再稼働しようなどというのは狂気の沙汰だ。使用済核燃料の最終処分地の行き先すら見つからないなかでの「安全宣言」など無意味以外の何ものでもない。
これだけの現実を目の当たりにしたら、普通の国であれば暴動の一つや二つは起きていると私は思う。
にもかかわらず、この期に及んでも総理官邸の前にせいぜい4万人しか集まらないというのは、逆に言えば国家権力の情報統制がそこまで行き届いていることの証明とも言える。
私が生まれる2年ほど前に60年安保というのがあった。この時、国会周辺に集まった人数は、一昨日の人数とは比較にならない、100万人単位だったという。
にもかかわらず、時の首相である岸信介は「声なき声が聞える」と嘯いた。
官僚というのは前例を踏襲する。
おそらくいま野田を取り巻く官僚たちは、「あの60年安保に比べれば、ぜんぜん大したことはない。声なき声に耳を傾ければいいのです」と耳もとで囁いていることだろう。
岸信介という政治家が私は反吐がでるほど嫌いだが、しかし岸には岸なりの信念があっただろう。
一方、野田という男には何もない。たとえ官邸の外で少々の騒ぎがあろうとも、官僚に入れ知恵されれば何の疑問もなくそれを受け入れるだろう。そんな無気味さが野田にはある。
ところで、これまでに私が見たデモの中で最大規模のものは70年安保だ。
この70年安保は60年安保に比べると、規模としては小さいと言われる。
が、当時、小学校低学年だった私が見たこのデモは(親に連れられて見に行った)、子供心に強烈な印象として残っている。その時の記憶と比べてみても、一昨日のデモはまだまだスケールが小さい。
もっともっと多くの人が国会周辺のみならず全国で行動を起こさなければ、国民まるごと原発破局と道連れという運命は変わらない。そして、悪い奴らは誰一人責任を取ることなく逃げ切ることになる(彼らはもはや国の将来がどうなろうが知ったことではない)。
そう私は思うのである。
※丸山邦男氏(丸山真男氏の弟)の『遊撃的マスコミ論──オピニオンジャーナリズムの構造』は、近日、志木電子書籍より電子化されて刊行されます。
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コメント
日本国家には、霞ヶ関の国家公務員も、永田町の国会議員も必要性がありません
敗戦後日本は、天皇制度からアメリカの支配下になって来たのだから
アメリカの植民地日本
アメリカの奴隷日本国民
霞ヶ関と永田町は日本国民を欺いて来た
倒すべきは!霞ヶ関だ永田町だ
そして、下劣な独裁者と化した
浩宮とその嫁小和田雅子と娘愛子
支持をした高円母子4人。この7人は、揃って下品で傲慢な独裁者税金泥棒
根性を叩き直せ無い両陛下にもウンザリ
欧米カブレが酷い9人には辟易だ…
アメリカの植民地には、皇室はいらない
全てがいらない
日本国家をダメにした全ての権力者を福島原発1KM圏内にくくりつけおきたい
国民はささやかに生きて来たのに
全てのツケを国民に押し付けて
悔しいー…
投稿: 国民は悲しい | 2012/06/28 21:36
【鉛筆書き投票は総務省の憲法違反汚職刑事犯罪である】
「由紀日記より!」(秀ちゃん日記のブログ「~桐生市議会議員 西牧秀乗(秀ちゃんの議会内のつぶやき)~」さま)へコメント
>>http://hidenori1212.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-12e9.html
さて今日は自分の住んでる市の市民税を納めてきました。
これがたとえば桐生市では瓦礫の焼却に使われ市役所の電気代電話代に使われ市役所職員の賞与付き俸給+臨時手当と市議会議員と市長の賞与込み俸給に使われるわけです。瓦礫焼却で桐生市域のみならず周辺にまで大気中に放出された放射能を測定する費用を桐生市が負担するならそれにも市民税が使われるし、放射能汚染が起こった地域への損害賠償ももし桐生市が訴えられたら市民税が賠償金支払いに充てられるわけです。
亀山市長が責任は桐生市がとると言明したのはそういうことです。
日本国内で公職選挙があれば投票用紙への記入は全員【黒ボールペンで記入】しましょう。国内最高のセキュリティ公文書ですから白紙投票はいけません。その場合は黒ボールペンで大きく×印して投票しなければ公文書のセキュリティが守れず、公文書偽造という犯罪に荷担することになります。棄権票を投じるときは必ず黒ボールペンで×印を記入してから投票してください。
住民投票請求や署名や役所に提出する書類も皆公文書私文書に限らず鉛筆書きは却下され黒ボールペン記入を要求されるのはセキュリティ保護のためです。
国民が主権行使する一票は日本国内最高度の厳重なセキュリティ管理を要する最重要公文書です。鉛筆で書くことなど許されざるセキュリティ破りの犯罪ですね(笑)
投票所に鉛筆を用意して鉛筆書き投票を主権者国民に強要する。これが全国の選管を一律に直轄所管する総務省の憲法違反の犯罪行為であることが明白にわかりますね(笑)
これは私の持論などではなく単なる【正論】であり、国民へ鉛筆書き投票を強要する者を現行犯で警察へ告発逮捕請求できる刑訴法の常識です。
投稿: 通りがけ | 2012/06/27 22:53
今回初めてコメントを投稿いたします。ヨーロッパ在住の者です。「デモ、4~5万人では少ない。」という管理人様の意見に全く同感です。日本の総人口からみれば非常に少ないと・・・。以前、何のニュースサイトか忘れましたが、フランス(原発先進国ですけど・・・)でさえも反原発デモに6万人集まったという記事を読みました。日本の人口の約半分のフランスでさえも、です。現在の世の中のようにインターネットで情報を拡散でき、Twitterなどで知らない人同士が繋がることの出来る社会であるはずなのに、日本のデモの規模は小さ過ぎると感じます。昔はインターネットなんか無くても、人と人との大きな繋がりがありましたね。私の個人的意見ですが、例えば、電車で隣に座った人同士、居酒屋で意気投合した他人同士、カフェや牛丼屋で隣り合った知らない者同士が、「日本は大変なことになった。」と自然と語り合うような世の中にならないと、日本は生まれ変わることは出来ないと思うのです。インターネットがなければ何も起こせない、何も出来ない、では弱いですよね。毎日充電する携帯電話の利用を減らせば、もっと電気が余るかもしれないのですから・・・。そういう私も電気を使ってこのコメントを書いている訳ですから、えらそうな事を言えませんね。では、突然の長いコメント、失礼致しました。目を通して頂けたら幸いです。
投稿: 海外在住者 | 2012/06/25 22:44