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2010/09/01

ドキュメント出版社 その14

週刊宝石休刊(11)

先週、流れたニュースだが、集英社が初の赤字決算となったという。

・集英社、初の赤字決算に

光文社の場合、主たる収入源は書籍(小説、ノンフィクション)と雑誌の販売収入、そして広告収入の二つであるが、集英社の場合はコミック部門があり、さらにそれに付随したライツ収入がある。また、業界としては早くからネットに投資をしており、s-woman.netはこの分野で遅れている光文社にとってビジネスモデルの成功例として研究の対象にさえなっていた。
その集英社でさえもが赤字となり、しかもその額が41億8000万円だというのだから小さな数字ではない。

・集英社、最終赤字41億8000万円 10年5月期

上記の記事によれば、書籍と雑誌の販売収入は増えているが広告収入が24.8%減で、これが大きく響いているという。集英社のように収入の間口が広い会社でも広告収入減でこれだけのダメージを受けるということは、それだけ広告という商売がいかに利益率の高い、ボロい商売であったということの証明であると言えるだろう。

さて、週刊宝石について書くのは今回で最後にしたいと思うが、その最後は週刊誌というシステムについて私が短い期間ではあったが感じたことについて書こうと思う。

週刊宝石に異動してからしばらくして、古巣の書籍の編集部に立ち寄った時のこと。親しい同僚に「で、週刊宝石はどうなの?」と訊かれた。そこで私は真っ先に「新鮮な驚きとしては、プランを記者から聞くことだね」と答えた。「じゃあ編集者は何をするんだよ?」「そうだね、記者に指示を出して、後は入稿かな」という会話が続く。
実際、それは私にとっては最初の驚きだった。
私が入社後15年間在籍したカッパ・ブックスでは、まず最初はベテランの上司について原稿作成のノウハウを叩き込まれ、それが合格点に達するようになると自分で企画を出し、それが通れば著者のところへ自分で折衝に行く。ちょっと話はそれるが、私はノンフィクションの編集者に必要とされる能力として、

(1) 原稿作成能力
(2) 交渉能力、信用創造能力
(3) 安定供給能力

の三つが必要だと考えていた。まず(1)は著者から受け取った原稿に編集作業を入れることで整理する、あるいはテープ取材したデータを起こして、それをもとに原稿を作っていくといった実務能力だ。
それがクリアされると、次は実際に著者のところへ自分の考えた企画を持っていくことになる。といっても駈け出したの編集者がひとかどの著者のところへ行けば、相手は生意気な口をきく若造だとしか思わないだろう。そこで失敗(怒鳴られたりすることもある)を重ねながら交渉力を身につけ、著者の信用を勝ち得ていく。
私は20代の時に東京大学名誉教授のところに行って原稿を書いてもらったことがあるが、今考えると赤面もので、よくもまあこの先生が私ごときを相手をしてくれたものだと思う。しかし、そうやって少しずつ編集者としてのキャリアを積むと、やがて若い時には怒鳴られるだけで終わりってしまうような著者に対する提案も、「お前さんの言うとおりにやっていいよ」と言われる時がくる。この段階で(2)をクリアする。
しかし、いくらここまで来ても、そうやって作った本を1年に数冊しか出せませんというのでは困る。つまりプロの編集者というのは、あるレベルに達していて、そこそこに売れる原稿を作ったら、それを安定的に供給できなければならないのである。そしてこの(3)のレベルはある意味ではベストセラーを作るのよりも難しい。
誤解を恐れずに言えば、ベストセラーというのは運があればアマチュアでも作れるが、そこそこ売れる本の安定供給は実力がないとできない。ところが書籍のことを知らない経営者というのは、口を開けばベストセラーを出せという(光文社にもそういう経営者は多かった)。しかしベストセラーを狙うということは、100回空振りしても101回目にホームランを打てばいいというような話で、実は経営的には非常に危ない橋を渡ることになる。

話を戻すと、週刊誌における記者からプランを聞くシステムというのは、創刊時にはまだ良かったのだと思う。
記者と編集者の年齢も近かったから一緒に現場へ行っくことも多々あったはずで、それであればきしみも少なかっただろう。
しかし、編集者は年齢が上がるにつれて現場から離れ、代わって若い編集者が入ってくる。そしてこの若い編集者たちもやはり同じように記者からプランを聞いて指図をする。しかもぺーぺーであるにもかかわらず、彼らは下手をするとベテランの記者よりも給料が高い。
もちろん優秀な編集者もいるが、しかし一方でどう見ても入稿作業をやっているだけの編集者も中にはいた(もちろん入稿作業はそれはそれで大変だが)。しかも、そのわりに拘束時間は長いので残業代はたっぷりとつく。
私は書籍の時代に週刊誌の記者と一緒に仕事をしたことが何回かあったが、彼らは決まって「書籍の人はよく働くなあ」と言ったものだった。
しかし何よりも問題だなと思ったのは、結局、週刊誌の編集者の場合、そういう環境に置かれてしまうことで、編集者として必要不可欠な人脈ができにくいということだった。実際、週刊誌から途中で書籍に異動すると、今度は企画から含めてすべて自分一人でやらなければならないことに戸惑う人は少なくない。するとなかなか私が言うところの書籍の編集者としての(3)のレベルまでには達しないのである。
ま、ここらへんについては長く週刊誌をやっていた人から見ればいろいろと反論のあるところだろうし、あくまでこれは短期間だけ週刊誌の編集現場にいた者の見解であることをお断りしておく(ただしその後、週刊誌の広告営業をそこそこの期間やり、その時にも現場を見てきたが週刊宝石の時の印象が基本的に変わることはなかった)。

一方で、週刊誌というのはいいものだナと感じることも、もちろん多かった。
書籍の場合は著者に対して本一冊分の原稿を頼むわけだから、企画を進めるにしてもそれなりにおおごで時間もかかるものだが、週刊誌の場合だといろいろな人に気楽に声をかけることができる。
私が週刊宝石時代の思い出として強く残っているのは、梁石日氏のグラビア連載だ。梁氏の大ファンだった私は、氏と親しいカメラマンに頼んで食事をセットしてもらい、その席でグラビアの連載をもちかけた。これは梁氏が生まれ育った大阪を歩くという企画で、首尾よくOKをもらうとしばらく後に梁氏と私とカメラマンの3人で大阪への撮影に出かけたのだが、梁ファンにとってこれほどオイシイ旅行はない。
なにしろ『血と骨』の舞台となった朝鮮人長屋や(それがまだ当時は残っていた)、『夜の河を渡れ』の舞台で梁氏がアパッチ族の一人として大阪砲兵工廠跡(現在の大阪城公園)に忍び込んで鉄を掘りに行った時の出発点となった川の対岸などを、梁氏自身が案内してくれるのである。
このグラビア連載は「大阪曼陀羅」というタイトルで、週刊宝石の休刊直前まで十回ほど掲載され、その後、私が書籍の編集部に戻った時には、この時の写真や原稿、さらに梁氏の未発表原稿を付け足して『魂の流れゆく果て』というタイトルで書籍化することができた。この本の最後には初出一覧があり、そこに、

大阪曼陀羅 「週刊宝石」2000年11月30日号 ~ 2001年2月1日号

と記されている。そしてこれが私が週刊宝石に在籍した唯一の証なのだった。


※週刊宝石の項目はこれで終わります。

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コメント

週刊宝石シリーズ、面白かったです。
書籍に関する色々な経験ももっと書いていただければ。楽しみにしています。

投稿: えいはぶ | 2010/09/02 09:56

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