ドキュメント出版社 その4
※ドキュメント出版社を再開します。ちなみに過去のエントリーはこちら。
週刊宝石休刊(1)
2000年4月1日、私は1985年4月の入社時から15年間所属したカッパ・ブックスを離れて週刊宝石に異動した。
週刊宝石は1981年10月、森元順司編集長の下に創刊された男性週刊誌。出版社系の週刊誌としては最後発の雑誌で、創刊当初は部数が低迷していたが「処女さがし」や「あなたのおっぱい見せてください」といった柔らかい企画がヒットして部数をグングンと伸ばしていった。
おそらく私ぐらいの世代にとって、入社後の希望部署ナンバーワンではなかったかと思う。
森元編集長の下、編集部には活気、勢いがあり、雑誌とは縁遠い書籍の編集部にいても、その噂は常に耳に入ってきたものだった。
だが、私が異動した頃の週刊宝石は発行部数が下落傾向にあり、光文社の雑誌媒体のなかでは厳しい評価がされつつある時期であった。もっともこれはあくまで業界全体、そして光文社自体がまだまだ好調な当時の評価であって、今から考えてみると当時の週刊宝石は十分に利益を出している媒体だったのだが、、、
結果的に私が週刊宝石で過ごしたのは10カ月ほどの短い期間だった。そして週刊誌の編集者としての私は有能ではなかった。
というのもまったく雑誌編集の経験がないままにいきなり、しかもデスクの肩書で編集部に入ったため、最初のうちは書籍の編集とはあまりに異なる仕事の流れについていくのが精一杯だったからである。
だから、もう少しやってみたかったという気持ちが今でもある一方、あの時に週刊宝石に異動しなかったら、、、とも思う。実のところ私のこの異動は、入社以来、世話になったカッパ・ブックスに対してはずいぶん無理とわがままを言った末に実現したものだった。だからもし異動していなかったら、今でも光文社に残って書籍の編集部にいた可能性もあるかもしれない。
だが、やっぱりあの時に10カ月でも週刊宝石に在籍できたのは良かった。なぜならこの異動がなければ、その後、私が広告部へ異動することもなかっただろうからだ(その経緯については別の機会に)。そうして女性自身やFLASHの広告営業を担当した時、この週刊宝石での経験はとても役に立ったのである。
さて、私が週刊宝石に異動した時の編集長は折敷出慎治氏であった。が、ゴールデンウィークの合併号前後の仕上がりが悪く、それからしばらくして急きょ編集長が金藤健治氏に交代した。
ちなみにこのゴールデンウィークというのは西鉄バスジャック事件が発生した年であるが、確かにこの事件の記事の出来も悪かった。どうしてそんなことを覚えているのかというと、そのページの責任者が私だったからである。
そうして週刊宝石がなんとなくギクシャクする中で、ある日、当時の担当役員である鈴木紀夫氏も出席してのデスク会議が行われた。この日付については当時の手帳やノートを見てみたが特定できなかった。ただ、多分、7月の初旬ぐらいだったと思う。
というのも光文社の会計年度の区切りは6月-5月で、その後、決算があり株主総会がある。そして鈴木氏の話はその株主総会においての役員改選が中心だったからだ。
私がこの時の鈴木氏の話で記憶しているのは、光文社の株主総会が講談社の社長や経理担当役員出席の下で開かれたこと、その場で社長が平野武裕氏から並河良氏に交代することが決まったこと、また数人の役員の入れ替えがあることなどであった。そうして鈴木氏は、新社長は週刊宝石やフラッシュといった男性週刊誌に対して厳しい考えの持ち主だろうという危惧を付け加えた。
とはいえ、私としては並河氏のように実績を残した人が社長になるのは悪いことではないと思っていた。
話は少々ズレるが、私はこの前年、カッパ・ブックスで徳大寺有恒氏著による『日産自動車の逆襲』という本を作ったのだが、この時に徳大寺氏とともにずいぶんと日産自動車を取材した。
当時の日産は経営状態が悪化しダイムラーとの提携が取り沙汰されたがこれが破談となり、本当に危ないのではないか?というところでルノーとの提携を発表し、カルロス・ゴーンがやって来たところであった。
しかし、ルノーと日産の提携は本当に成功するのか? 多くの人はこれについて懐疑的で、実は徳大寺氏と企画をスタートした時の仮題も「日産自動車の蹉跌」だった。が、日産を取材し、徳大寺氏と話をしていく中で、この提携は成功するのではないか?という結論に至った。
なぜなら、カルロス・ゴーン以下ルノーから入ってきた役員たちの日産に対する現状認識がとても正確で、しかもこれまで日本人経営者ではいろいろなしがらみがあって手をつけられなかった部分にきちんと改革のメスを入れていたからだ。それに加えてもともと日産自動車には技術のポテンシャルがあった。つまり日産は経営さえしっかりしていれば、十分に競争力のある会社だったのである。つまりカルロス・ゴーンは、もともと「誰が見てもおかしいナ」部分に手をつけたに過ぎなかった。
そして私はこの取材をしながら日産自動車がうらやましかった。なぜなら規模はまったく違うけれども、光文社と同じように改革が必要な会社が良き経営者を得て立ち直っていく様子が手に取るようにわかったからだ。
話を戻すと、だから私は並河氏が社長に就任すると聞いた時には「実績を残した人が昇進して改革を実行していくれるのならば、むしろいいことなんじゃないか」と思ったのである。もちろん当時の光文社はまだまだ十分な余力があった。が、これまで光文社を支えてきた収益構造がそろそろ限界にさしかかっていたことは事実だったし、パソコン通信からインターネットの時代に移行していくなかで、非常に大きな時代の変わり目であったことも事実だったからだ。
が、一方で女性ファッション誌部門の実力者として強烈なキャラクターを発揮して君臨していた並河氏に対しては、社内の他の部門にいる者から見れば少なからぬ警戒心があった。
今、手帳を見ると、新社長の社員に対する挨拶は8月2日と記されている。
この時、並河氏の言葉で印象に残っているのは、「過去の成功体験にとらわれてはいけない」という言葉で、これは確かにその通りだと思った。ただ「光文社はデジタルよりも紙にこだわっていく」という言葉については、「これは後から考えてみると大変な経営判断の誤りになる可能性があるナ」とも思った。
そうして新社長が乗り込んできたのは、やはり週刊宝石だった。
つづく
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