ドキュメント出版社 その13
週刊宝石休刊(10)
通常、雑誌が休刊になるケースというのは、販売収入的にも広告収入的にもにっちもさっちも行かなくなった場合である。あるいは週刊サンケイがSPA!に、週刊読売が読売ウィークリーに全面リニューアルしたのも同様の理由だ。
それに比べると、週刊宝石の休刊というのは相当に余力を残してのものだったわけで、珍しいケースだったと言える(※注)。
もちろん部数が落ちていたことは事実で、社内の管理部門などの経費負担分までを入れれば赤字であっただろうが、今にして思えば十分な粗利は出ていたはずだ。つまりビジネスモデルとしては十分に存続の余地があったわけで、であれば通常は編集誌面の手直しをしながらコストの削減に努めるのがセオリーだろう。
実際、これは光文社に限らないことだが、上位に位置する出版社というのはどこも高コスト体質で、トヨタ自動車的な言い方をすれば“ずぶ濡れタオル”のようなものである。つまり合理化余力がふんだんにあるわけで、まずはタオルを絞ってコストダウンすることによって収益構造を見直すことは十分可能だったはずだ。
カルロス・ゴーンが日産の社長になってまずやったこともこれで、実はそれだけで日産は黒字化してしまう。つまり合理化余力というのは含み資産なのである。
しかし、週刊宝石の場合は並河新社長の強い指導力の下で含み資産のあるビジネスモデルを一旦、ご破算にして新たなビジネスモデルを立ち上げることを試みた。
以前にも書いたように、私はこの判断自体には正統性があると思う。ただし、その経営判断には経営責任が伴う。そして結果的に週刊宝石の後を受けて2001年6月に創刊されたDIASは2002年3月には休刊となってしまった。私はDIASに関しては語るべき材料は何もないが、紛れもない失敗であったことは事実である。
しかしながら、、、
このDIASの失敗で責任をとった人は誰もいなかった。
これは組合の団交報告で聞いたことだが、DIASについて問われた並河氏は「これは失敗ではなく投資だ」と言ったという。百歩譲ってそれが正論だとしても、であれば投資金額はいかほどでどのような回収計画を立てているのかが問われなければならないはずだ。なので私は一応その点を質問してみたが、組合としてもそれ以上の追及をすることはなかった。
そうしてDIASの編集長だった三橋氏は総務部長になる。これは明らかな出世コースで、実際、その後三橋氏は役員に昇進する(ただし任期内に退任してしまったが)。
私は三橋氏は優秀な人だったので総務部長になるのはとてもいいことだと思ったが、しかし何のペナライズもないままにいきなり総務部長という管理部門の長(人事評価をする側)になるのは、ガバナンスの点でいささか問題があるのではないかとも思った。
もっともそれは会津出身で非常に真面目な人だった三橋氏自身が一番、痛感していたはずで、その心情は社員を前にしての取締役就任挨拶の際、まずは冒頭で自分がかつて非常に大きな迷惑をかけたことを詫びることから始めたことからも見てとることができた。
もちろんここまでの経緯を見れば、三橋氏に新雑誌の失敗の責任をすべて負わせるのはあまりにも酷な話である。なにしろ「本来の社格にあった」「女性にも見せられ、家に持って帰ることができる雑誌」というコンセプトをたてて新雑誌を主導したのは並河氏なのだから。
世の中である事象が起きた場合、その原因は複合的であることが多いものだが、週刊宝石の休刊からDIASの失敗に至る経緯は、そういう意味では原因と結果の因果関係が非常に直線的につながっている。にもかかわらず最初の時点で並河氏が自分自身を免責してしまい、ゆえに失敗の総括がまったくなされなかったことは、以後の経営に非常に大きな禍根を残したと思う。
なかでもとくに問題ではないかと思ったのは、これ以降、並河氏の権力が弱くなるどころか強まったことで、会社全体が内部統制(インターナル・コントロール)の効きにくい組織となってしまったように感じられたことだ。
今から考えると並河氏が社長を務めた2000年からの8年間というのは出版業にとって非常に重要な時期で、来るべき本格的デジタル化時代やそれに伴う広告環境の変化に備えて筋肉質の組織を作る必要があった。だが、並河色が強まれば強まるほど、むしろ脆弱性が増してしまったのは事実だと思う。
つづく
※注
定期刊行物ではないが、FLASHの別冊として年に8回ほど出していたFLASHエキサイティングという雑誌がある。一時期は大変に売れて、その成功を見た同業他社が続々と参入してきた揚句、「EX市場」という言葉まで誕生した。その後、売れ行きが落ちたとはいえ、それでもEX市場の開拓者としてトップを走っていたこの雑誌は、しかし2008年秋、並河氏の次の高橋社長時代に入ってからのことだが、突如として休刊の決定が下された。
私はこの雑誌の広告営業を担当していたので、これにはビックリしたものだった。というのも、広告媒体としてはまったく期待されてはいなかったが、それでも特定のクライアントにはとても人気があり、数年前には広告料金の値上げにも成功した媒体だったし、何よりも依然としてある程度の部数があったからだ。
社内で赤字決算が発表された数カ月後というタイミングで、しかもリーマンショックの真っただ中、広告収入が激減しつつあるという環境で、珍しく広告収入に頼らなくても十分に余力があった雑誌をなぜやめなければならなかったのか、私はいまだにわからない。
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