ドキュメント出版社 その12
週刊宝石休刊(9)
1月25日に発売された週刊宝石最終号(通巻928号)の締切は1月22日の月曜日だった。
通常は午後8時が最終の締切だったが、この日は夕方から私が所属する班の飲み会が行われている。つまり、最終号だったために誌面は事前に作られたメモリアル企画で埋め尽くされ、ニュース性のある記事はなかったということである。
翌火曜日はおそらく出社をしておらず、24日の午後に編集部に顔を出したが、ガランとしてほとんど人がいなくて薄暗かった印象がある
私がなぜこの日に出社したかというと、新雑誌企画室の室長である三橋和夫氏に会うためだった。実はその数日前、三橋氏から自宅に電話があり「新雑誌に来ないか?」と誘われたのである。これは自分にとっては思いもがけなかった話だった。
三橋氏はもともと週刊宝石創刊時のメンバーで活版ニュース班のエースだった。だから私はこの人がいずれは週刊宝石の編集長になるものだとばかり思っていた。もちろん当時の編集部内のことは知る由もなかったのだが、その三橋氏はしかしこれより数年前にカッパ・ブックスに異動してきたのである。当時、これにはビックリしたものだったが、実は三橋氏は入社時の配属がカッパだったために久々の復帰だった。
私は同じカッパグループでも隣の編集部に在籍していたのだが、以来、三橋氏とは面識があった(私が入社した時にはすでに三橋氏は週刊宝石の人だった)。とはいえ、まさか自分が新雑誌に誘われるとは思いもよらなかったのである。
三橋氏はどんな雑誌を作りたいかという話をしてくれて、他の創刊メンバーを教えてくれた。それは週刊宝石時代の三橋氏の部下だったメンバーが中心で、そこに女性ファッション誌経験者のラインが融合した形で、個人的には週刊宝石から移るメンバーがやや偏っている印象があった。
私は三橋氏に電話をもらって以来、相当に悩んだことは事実で、三橋氏と話をする時までどうしようかと考えていたのだが、最終的には書籍部門に戻ることにした。ただし結果的には古巣のカッパ・ブックスではなく、三橋氏が抜けた後の図書編集部に戻ることになり、この選択が今考えてみると少なからずその後の人生に影響を与えたと思う。
さて週刊宝石の最終号が発売された1月25日。14時からは班の会議があり、15時からは全体会議が行われた。この会議では、この後に行われるスタッフ説明会の内容が確認され、また編集部員に対する人事異動は翌週の役員会で決定することが伝えられた。
さらに膨大な量の写真整理の体制を整えること、伝票等の締切日、週刊宝石休刊の挨拶状を作ることについて、そして人事異動発令の日の午前中に全体会議、そして夕方から食事会が行われることもあわせて伝えられたのだった。
1月30日には金藤編集長から異動の内示があり、翌31日には総務部長から異動の通達がされている。
そして私の週刊宝石時代のノートの実質的な最終ページはこの1月31日の夕方に行われたデスク会議での記録となっている。
それによると、編集部員の人事異動の組合通達は2月6日で2月13日が発令日となる。スタッフとの面談は予定通り2月7日から9日まで行われる。そして2月13日は11時に全体会議(その前に荷物を新しい部署に移しておく)、18時半から解散食事会。挨拶状は2月7日に出来上がることが記され、また新雑誌へ移ることが決まった記者の名前が記されている。
この日から2月13日までは会社に行ったり行かなかったりで、もっぱら社外の友人や、これからのために著者関係の人たちと会いつつ2月13日を迎えている。
ノートには「2/13 全体会議 本社9F」と書いてあるが、その下には「スタッフ面談結果」とだけ書かれており、あとは空白である。そしてこれが週刊宝石時代の記録の本当の最後となった。だから会議の内容は覚えておらず、夜の解散食事会のこともあまり覚えていない。上野近辺で催された食事会は(たしか金藤編集長のいきつけの店だった)部員一人ひとりが挨拶をしたと思うのだが、私自身が何を話したかは記憶になく、ただその場の光景だけが頭に焼きついている。
そうして私の短い週刊宝石での生活が終わった。
つづく
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