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2010/06/07

ドキュメント出版社 その2

 1990年代の光文社

並河氏が取締役に昇進した当時の社長は小林武彦氏だった。光文社は出版界では有名な労働争議を経験している。その時の総務部長が小林武彦氏で、当時の社内では絶大な権力を持っていた。在任期間も長く、私が入社した時点ではすでに社長だった。
大争議の結果として、光文社は300人規模の会社であるにもかかわらず、第一組合と第二組合に分かれている(ただし第一組合は定年等でほとんど人がいなくなった)。
小林社長時代、第一組合は小林武彦氏の経営をずいぶんと批判していたが、今考えるとそれなりに堅実経営だったと思う。ただ、任期の後半で勲章亡者になってしまって引き際を誤った。
その小林氏の後、社長に就任したのが平野武裕氏(就任は1996年で2期4年社長を務めたと記憶している)。女性自身の編集長を務めて取締役に就任。その後、小林氏の次は平野氏という路線が敷かれていた。
平野氏は誰に対しても人当たりが良く、温厚な人物だった(私はあまり接点はなかったが)。ただ、1990年代半ばから出版不況が言われ出したなかで、社員をグイグイと引っ張って困難を切り拓いていくタイプではなく、どちらかというと平時の人だった。
さて、この1990年代を見ると、1995年にVERYが創刊されている。もちろん編集長は並河良氏。
JJで掘り当てた鉱脈はCLASSY.へとつながり、さらにVERYでも大成功をおさめる。創刊号が出た直後、販売部の前に販売担当役員の名前で完売御礼の張り紙が出ていたのを私は記憶している。もはや並河氏の手腕を疑う者は誰もいなかった。
ただ、冷静に考えてみると、JJ以下の雑誌が光文社の米びつになった原因は、雑誌が売れたことで広告収入が大幅にアップしたからでもあった。広告というのは、もちろん媒体あってのものである。が、同時に広告がないと雑誌(とくに女性ファッション誌)はやっていけない。そういう意味ではクルマの両輪なわけだが、しかし光文社は常に編集の力が圧倒的に強く、広告の発言力は弱かった。
ま、当時は雑誌が売れれば広告はついてくるもので、しかも純広告の利益率は圧倒的だった。ただ、このビジネスモデルは2000年代に入ってwebが登場するとともに徐々に変質し、そしていまは完全に壊れてしまっている(この件についてはこちらをご覧いただきたい)。そういう意味では、並河氏の成功というのは、いい時代に鉱脈を掘り当てたとも言えるわけで、「不思議の勝ち」の要素も十分にあったのだと思う。

 驚愕のキャッチコピーをつけた創刊雑誌

ここで話はそれるが、時系列的にはVERYの次の創刊雑誌なので、1997年に創刊したテレビザウルスというテレビ雑誌にも少しだけ触れておく。
当時はテレビ雑誌が好調で、「ではうちでも」ということで創刊されたのがテレビザウルスである。これは女性自身のグループから創刊された。
といっても、まったく売れずにあっという間に休刊になってしまったのだが、私がビックリしたのは創刊前に会社の1階ロビーに設置された創刊告知の大きな看板だった。そこにはこんなキャッチコピーがついていた。
「おもしろいことは、みーんなテレビから」
記憶で書いているために文字の閉じ開きなどは違っているかもしれないが、文句としては間違いなくこう書いてあった。私はこれを見た瞬間、「ををっ、会社の一番目立つ、お客様が入ってくる場所で社業を否定している」と思って愕然とした。が、そう思ったのは私ぐらいのものだったようで、この看板はしばらくそこに掲げられていた(一応記念に、当時持っていたカシオのデジカメで撮影したのだが、そのデータがない)。

 並河氏の女性自身「改革」

さて、平野氏の社長2期目に入った1998年夏。並河氏は自分が統括するファッション誌グループ以外に、女性自身の担当役員にもなった。
元々、並河氏は女性自身の出身で、JJという雑誌の名前は「女性自身」の二つのJをとってネーミングされたものである。
並河氏は女性自身担当役員になると、まず編集長にJJ創刊時からの子飼いの部下で、JJの二代目編集長、そして当時はGainerの編集長を務めていた小井貞夫氏を起用した(小井氏も入社時の配属は女性自身)。そして並河氏の大号令のもと、12月には女性自身の大リニューアルが敢行された。
そのリニューアルがどのようなものだったか。当時の日経デザイン(1999年3月号)の記事から少し引用してみる。

******
小井貞夫氏が「女性自身」(光文社)の編集長に就任したのは98年8月。12月には,ポスターキャンペーンとともに誌面リニューアルを敢行した。今の若い人に聞くと「女性自身」は何か触れてはいけない雑誌,電車の中では読みにくい雑誌というイメージがあるのだと言う。「そんなイメージを払しょくしたい」というのが,創刊40周年を機にした今回のリニューアルにかけた思いだった。

変化を印象付けるデザイン作戦

 65年に光文社に入社して,最初に配属されたのが女性自身編集部だったという小井編集長。「当時はOLをサポートする雑誌としての性格を明確に打ち出していた」と振り返る。新人時代の数年を女性自身編集部で過ごした後,「ジェイジェイ」の創刊に携わり,「ゲイナー」の編集長を経て久し振りに古巣に戻ってみると,「女性自身」はすっかり変わっていた。年齢の高い読者が増え,幅広い層の興味をカバーしようとした結果,だれのための雑誌か分からなくなっていたのである。
 創刊時のコンセプトに立ち返り,20代半ばのOLにターゲットを絞り込むことにした。まず,若い女性がコンビニやキオスク,書店で手に取りたくなるような,すっきりとした外観が不可欠と判断した。

(中略)

外見を変えて促す記者の意識改革

 変身宣言をし,雑誌の外見は変わった。しかし「一番難しいのは記者の意識改革だ」と小井編集長は語る。編集部員は現在31人。外部も含めて,その約3倍のライターが記事を書く。1人1人に変化の意図を浸透させるのは大仕事だ。まず外見を変えることによって,目に見える形で示し,記者の意識改革につなげようという意図がある。記事内容も,興味本位のゴシップ中心から,OLが必要としている仕事や生活にまつわる情報にシフトしていく方向で構成している。主婦向けの記事を排除して,代わりに20代女性の不満足感をフォローするような内容も多くした。
 誌面リニューアルから2カ月余りが過ぎた。まだ数字として結果が出るには早すぎる。が,プレゼント企画に応募してくる読者は20代,30代が増え,若返りの兆候が見えてきた。ただ,人間だれしも「のぞき見たい」という煩悩があるのも否定できない。「女性自身」がファッション誌のように洗練されてしまったら,逆にこの雑誌の持つ強さが薄まってしまう危険性もある。「強さ」と「美しさ」のかじ取りがリニューアルの成否を決めるかぎとなるだろう。
 美容院や銀行に置いてあるから読む雑誌から,指名購入する固定読者が付く雑誌に変身できるかどうか。「半年くらいかけて結果が出れば」と小井編集長はつぶやく。
******

この記事を読むと、当時、並河氏と小井氏の女性自身に対する危機感もわからないではない。だが、現に成功して大きな利益を出しているビジネスモデルに手をつける、読者のターゲットをまったく変える(つまりは「週刊JJ」を作りたかったのだろう)のは、あまりにも危険だった。
で、この大リニューアル敢行の結果、女性自身はどうなったか。
部数は激減し、それまで女性週刊誌のトップを独走していたにもかかわらず、あっという間に女性セブンに抜かれ、さらに断トツ3位だった週刊女性にまで抜かれてしまったのである。
私は広告部に異動してから、当時のことを同僚から聞く機会が何度かあったが、週刊女性に抜かれた時には慌てたという。
そしてこの直後、並河氏も小井氏も女性自身から外れることになり、女性自身はリニューアル前の姿に戻された。
そもそも女性自身は光文社の稼ぎ頭であったし、当時の社長は女性自身出身の平野氏である。他にも女性自身の関係者は社内にたくさんいたわけで、さすがにこの部数激減に黙って指をくわえて見ているわけにはいかず、女性自身のビジネスモデルはすんでのところで守られた。
そして、今日まで女性自身は光文社を支える媒体として生き残っているわけだが、しかしこの大リニューアル後、女性セブンに奪われた部数トップの座を取り戻すことはできていない(瞬間風速で抜くことはあるが)。
それにしても、、、
今、こうして書いていると、並河氏というのは同じ失敗をその後も繰り返しているんだなあとつくづく思う。しかし社長になった並河氏に対しては、女性自身リニューアルの時のように歯止めをかける勢力がおらず、結果、傷口がどんどん広がっていってしまう。

当時のことに話を戻すと、並河氏、小井氏とも、女性自身を外れはしたが、それでも並河氏の権威が失墜することはなく、責任を問う声もそれ以上はなかった。
そしてその後、並河氏は社長に昇格するわけだが、小井氏はGainer編集長に戻り、取締役に昇進することはなかった。
ただし小井氏は監査役に就任する。監査役というのは取締役に比べると一段、落ちるように思われがちだが、実は株式会社においては非常に重要な役職で、本来は取締役の業務執行を監査しなければならない。つまり会社を経営している取締役をチェックできるポジションにある。そこに子飼いの小井氏を充てるということは、監査機能が働かないことを意味していた(もう一人、社外の監査役がいるが)。これは社内では見落とされがちだったが意外に重要なことだったと私は思う。
で、私が時々、親しい人にそんなことを言ってみると、「それはお前さんの言う通りだが、小井さんにそれを望むのは無理でしょう」という答えが例外なくかえってくる。このように、「本来であれば、あの役職ではこういう仕事をしなければならないけど、あの人にそんなことを望むのは無理だよね、、、」ということで許されてしまう、あるいはあきらめてしまうケースが光文社には多かった。

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コメント

リストラは2年前のことなのに、今読んでもライブ感あって面白いですね(^-^)

投稿: ドライもん | 2012/05/31 22:21

並河さんには、クラッシー編集部の際に大変お世話になりました。定期的にご挨拶をしているつもりだったのですが、昨年社長を退かれたことは存じ上げませんでした。残念です。またお目にかかる機会があれば、と思います。きっと今頃美食と洗練された日々を満喫されていることと思います。お体をご自愛くだください。そして再度、私たちに喜びと微笑みを届けてくださることを期待しております。このコメントが並河さんに届きますように。

投稿: | 2011/05/31 01:36

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