きわめて私事の話
このブログでかつて書いたこともあるが、私の本職はとある媒体の広告営業である。
といってもキャリアは8年ほど。したがって、さほどキャリアがあるわけではない。
しかし、この8年というのは広告業界が劇的に変化した時期と軌を一にしており、その意味ではいい時代から厳しい時代へ、ビフォー・アフターを営業現場でリアルに体験することができた貴重な時でもあった。
すでに多くの方がご存じのごとく、既存メディアは生き残りを賭けた厳しい戦いに突入している。
そういう状況になると、どんな経営者でもまずやることは経費削減である。ま、これについては多くの既存メディアというのはずぶ濡れタオルのようなもので、絞れば相当な水が出る。かつての日産自動車がそうであったように、合理化余力は見方を変えれば含み資産でもあるわけだ。
しかし、一方でこれまたよく知られている通り、賃金には下方硬直性がある。
となると、、、
次に経営者が考えるのは退職者を募ることである。
ということで、私の所属する会社にもその波がやって来た。そして当然のごとく50歳を目前にした営業職の私はその対象者であった。
さてどうしたものか、、、
と悩んだ時間は実はそれほど長くはなく、意外に簡単に「辞める」という結論を導き出した。
といって次の就職先のアテは何もない。同じように対象者となった同僚からは、「次のアテはあるんですか?」と聞かれるが、私は胸を張って「な~んもないっ!」と答えている(爆笑)。
現在、私にあるのは広告営業の経験と、それ以前にやっていた仕事の経験、さらにそれに伴う少しばかりの人的ネットワークだけだ。
ということで、しばらくは私の知り得る限りの人たちに会いに行ってみようと思っている。
が、一方で、カネはほとんどないが時間はいくらでもできるので、なけなしの退職金のなかから、このブログをもう少し発展させるための機器を購入してみようとも思っている。
折しもついに鳩山由紀夫が記者会見をフリーランスにも開放した。
といっても、これにもいろいろと条件があるわけで、どこのゴロツキだかわからない人間がそうそう簡単に入ることはできないだろう。
だったら、どうやったら入れるのか、入れないのか。一応、チャレンジしてみて、その結果を当ブログで書いてみるのも面白いかもしれないと思っている。
また、今はまだ書けないが、フリーになったら書けるかもしれないことも少しならある。
実は頭の中には「こんなことをやってみたい」という具体的なイメージはあるのだが、果たしてそれがどれほどまでに実現可能性があるのか、あるいは実現したとしてもマネタイズすることができるのかはさっぱりわからない。
しかしまあ、そのすべてを自虐ネタのようにさらけ出すのも悪くはない。
半年後には野垂れ死にしているかもしれないし、どこかのコンビニか何かでとりあえず一時しのぎのアルバイトをしているかもしれない。
世は大不況の真っただ中、素っ裸で会社から放り出されたオッサンがどうなるのか? 興味があったら時々、当ブログをのぞいてみていただきたいと思う。
告白してしまえば、私は大変な怖がりである。
とくに怖いのが「死」なわけで、これについては子供の頃から相当に恐れおののいてきた(最初にその恐怖を刷り込んだのは、遠藤周作の「ぐうたら」シリーズの一編だったように思う)。
ところが、最近、「久米宏 ラジオなんですけど」のゲストコーナーに出演した女性の本を読んで、少しだけ気が楽になったのである(彼女以外にも、この番組に登場するさまざまなゲストの話を聴いていると、人間、意外になんとかなるものかもしれないと思ったりする)。
それはノンフィクション作家の中村安希さんの本で、その中にこう書かれていた(久米宏も紹介していた部分)。ちなみにこの本は、中村さんが26歳の時に日本を旅立ち、ユーラシアとアフリカの47カ国を2年間に渡って旅したドキュメントである。ちょっと長いが引用してみる。
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その言葉を聞いたのは、旅を始めて間もないモンゴルにいたときで、同じ宿には、カナダ国籍の世界中を旅した経験を持つ初老の男性が一緒だった。彼は私にこう言った。
「昔、ヒマラヤを通ったときにね、断崖絶壁の岩肌を切り崩してつくった、とても細い山道をバスで抜けたことがあった。ガードレールもなくて、バスのタイヤは道の端ぎりぎりにどうにか乗っかっている、いや引っかかっているような状態だった。そこへ対向車がやってきてね、信じられるかい? 僕の乗ったバスは後方へ向かって走り始めたんだ。車体はぐらぐら揺れてね、窓からは真下に向かって深い谷底が見えていたよ。同じ道はもう二度と通りたくないと思ったね」
私は後に、それとよく似た道を最低でも三回は通過する予定になっていたが、だからといって、死ぬのなんてごめんだと思っていた。
「そのような難所を無事に抜けていくために、私は何をすべきでしょうか?」
危険を回避し、死を逃れるための具体的な方策を、私は男性から聞き出そうとした。あらゆる情報の詳細を、戦略ノートのど真ん中に赤い太字のマーカーで箇条書きにして保管したい--そのような心境で言葉を待った。男性は首を横に振り、それから短く答えた。
「自分の中にフェイス(信念)を持つこと。自分は絶対に死なない、と、信じることぐらいかな」
そのような抽象的な対策が、どれほどの助けになるかは不明だった。死なないと信じてみたところで、あるいはペンダントを首から下げても、バスは谷底へ転落し、心臓は動きを止めるかもしれない。この世界の物理的な法則に、フェイスが介入する余地はないのだ。
しかし裏を返せば、科学的根拠を持った現象の、その圧倒的な正確さに対して、その経験を受け入れる人間の存在はあまりにも不正確な出来栄えと言えた。そしてその不整合を埋められるものがあるとしたら、フェイスを除いて他に思い当たらない。それは何かにすがることでも、救いを求めることでもなかった。ただ、現実と私の間に横たわる理不尽な溝に、小さなペンダントをあてがうことで、死へ向かおうとする思考の流れを食い止めておくことに成功したのだ。
それでもバスが谷底へ落ちたら? 死んだだろう。しかしそれは生きることしか考えないまま、ある時ポロリと命を落っことす、そのような出来事となったはずだ。少なくとも、死ぬことばかり考えながら生き延びているのとは、遠く離れた対極の場所で。
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twitterで私が「会社の早期退職に応募なう」とつぶやいたあと、何人かの方、それもまったく面識のない方から励ましやアドバイスのツイートやDMをいただきました。この場を借りて、そのみなさまに御礼申し上げます。
Googleが登場し、Appleが飛躍し、You Tubeが脚光を浴び、そしていままたtwitterやUSTREAMがどんどん世の中を変えていく中で自分が何をできるのか? とりあえず命を落っことす最後まで生きることを考えてみましょう。
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