戦争体験を残す方法
日経新聞の「私の履歴書」は先週末からデザイナーの芦田淳が書いている。これがなかなか面白いのだが、8月6日の回は疎開先の山口県田布施での原爆体験のことが書かれていた。少々引用すると
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それまで空襲が少なかった田布施にも、灯火管制が敷かれるようになった。あの恐ろしい日はそんな状況下でやってくる。8月6日、午前8時15分--。その瞬間、自宅の庭にいた私はメリメリと腹に響くような地鳴りを感じた。「何が起きたのだろう」。皆目、見当もつかなかった。だが、とんでもないことが起きたことだけは理解できた。
米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが原子爆弾を広島に投下し、一瞬のうちに無数の人間の命を奪ったと知るのはしばらくたってからのことだ。田布施は広島から60㌔ほどの距離。その爆音が自宅の庭まで届いたという事実に背筋が凍り付いた。9日後の8月15日正午。ラジオで玉音放送を聞き、私は日本が戦争に負けたと教えられた。
体から力が抜けて、へたへたと地面に座り込んだ。一体、何のための戦いだったのか。涙も汗も枯れ果てた。「これで戦争による生命の危険は消えた。苦しみから解放される。やっと新しい時代が始まる」。それが終戦を迎えた私の偽らざる恩ねだった。空を見上げると、雲一つなく、澄み渡っていた。
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おそら芦田淳は連載中に8月6日が、それもスタートから早い時点で来ることを意識して、この日にあわせて原爆体験を書いたのだろう。
一方、現在発売中の週刊文春の小林信彦の連載コラム「本音を申せば」も、やはり今回は「敗戦をめぐる記憶」というタイトルがついている。
とはいえ、、、
私が子どもの頃に比べると、この時期の戦争に関する記事や番組は相当に少なくなったと思う。すでに敗戦から60年以上たっており、若い番組制作者や記者にしてみれば、「この厳しい視聴率競争の時代にそんな番組を作っても、数字はとれない」ということなのだろうが、しかし歴史の軸で見れば「たった60年しかたっていない」ともいえる。
しばらく前、親戚の法事があった時、数年ぶりに叔母と話す機会があった。叔母といっても父親の弟の奥さんなので、これまでもそう親しく話したことはなかった。が、その時は集まった年寄りたちの話が戦争体験になったこともあり、その叔母も問わず語りに自分のことを話し始めたのだが、当時6歳だった彼女は東京大空襲の時に下町の深川に住んでおり、命からがらに逃げたのだという。家は焼けてしまったのでそのまま疎開するために列車に乗ったのだそうだが、死体の山があったことはいまでもハッキリ記憶に残っているという。
で、なぜこんなことを書いているかというと、やはり戦争体験というのは残していかなければならないと思うのである。それもだきるだけ一般の人の声を残す必要がある。しかし戦争を知る世代というのはどんどん高齢化している。ではどうすればいいか?
そこで昨日のエントリーの最後に書いたことにつながるのだが、、、
田中康夫の「定額給付金を配るぐらいなら、それよりも一人に一台ずつパソコンを配った方がいい」という主張は大変に素晴らしい案だと思うのである。
最近のパソコンはノートにしろデスクトップにしろ、安くてしかもwebカメラがついているものが多い。これをブロードバンドにつなげれば、いまや簡単にテレビ電話となる。ソフトはskypeやgoogleのサービスを使えば無料である。
これを高齢者にも配れば、家族や親戚、友人、あるいは地域のボランティアの人でも、顔を見て通話をすることができる。となれば、これは孤独死対策にもなるし、外出が難しくなった高齢者もネットワークを通じて社会とコミットすることができる。
もちろん、パソコンなんてそんな難しいことはできないという人、あるいはやりたくても使い方がわからないという人はたくさんいるだろう。だったらそういう人に対するサポートを充実させればよく、そこには新たな雇用が生まれる。
そうして、そのパソコンを使って戦争体験のある方に、自分の体験を残してもらうことも可能となる。
もちろんキーボードを叩くというのはハードルが高いだろう。が、いまやパソコン相手に喋ってもらえれば、それを録音することはいとも簡単にできる。しかもそれはデジタルデータとして保存されるから、非常に整理や分類がしやすい。
そうやって市井の人々の戦争体験を集めて、さらに公開していくことも、国家としての重要なミッションだと思うのである。
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コメント
放映保存の会、という団体がありますよ。
投稿: ま。 | 2009/08/10 15:09