匿名性の問題~「THE JOURNAL」への疑問Ⅱ
「THE JOURNAL」のコメント欄には以下のようなお願いが冒頭に書き込まれている。
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■コメント投稿について編集部からのお願い
いつも《THE JOURNAL》にご参加いただき、ありがとうございます。
他のサイトでは見られない質の高い真剣なコメントに、ブロガーや編集部はもちろん、ジャーナリストを含む多くの方が参考にしているとの声が寄せられています。
今後もこの意義ある場を維持してゆくため、コメント投稿者の方々には、以下のことを厳守いただくようお願いいたします。
投稿は原則として本名で行ってください。本名での投稿が難しい場合は、名前として不自然でない名称でお願いします。これは、理由のない安易な偽名・匿名の乱用は、《THE JOURNAL》のコメンテーターと読者が本当の意味で責任ある議論の場を育てていくことにマイナスであるとの高野孟の信念に基づく考え方です。
(中略)
投稿者: 《THE JOURNAL》編集部
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「原則として本名で」と書き込んでいる当事者が「 《THE JOURNAL》編集部 」という匿名なのには笑ってしまうが、そもそも「理由のない安易な偽名・匿名の乱用は、《THE JOURNAL》のコメンテーターと読者が本当の意味で責任ある議論の場を育てていくことにマイナス」なのだろうか?
私はこれまでパソコン通信の時代も含めると15年ぐらいネットワークというものに接してきた。
この間、幾度となくさまざまな議論を見てきたけれども、偽名や匿名であっても質の高い議論というのはたくさんあったし、そこに本名で参入してきたプロのライターが大ズッコしたのも見たことがある。要は妙ちくりんな名前を使おうがなんだろうが立派な論旨展開をする人はいくらでもいるわけで、もちろんその逆もある。
「ぽんぽこたぬきさんのおっしゃることも一理ありますが、私はこう思います」
「いやいやそれは違うと思いますよ、すってんころりんさん」
などという展開をずっと見てきた私としては、名前はどうあれその人の主張が問題なのであって匿名、偽名は問題ではない。そうして本名であろうが匿名であろうが、ネットの書き込みというのは荒れるときには荒れる。
しかし私が何よりも「高野孟の信念」とやらで疑問に感じるのは、ジャーナリズムを生業とはしていない一般の人たちが本名で書き込むことのリスクだ。ここは議論の分かれるところだろうが、これだけ個人情報の管理が難しくなっている時代に、普通の人間がネット上で本名を出すのは相当にリスキーな行為だと私は思う。名前といっても人さまざまで、よくある名前の人もいれば珍しい名前の人もいる。とくに後者の場合、この名前を検索エンジンにかければなにがしかのヒットをする可能性は決して低くはない。そしてその結果を追いかけていけば相当な個人情報を特定できるだろう。とすれば本名か匿名かはあくまで本人の判断に依拠するべきだと私は思う。
そもそも現状、「THE JOURNAL」では「コメンテーターと読者が本当の意味で責任ある議論」をしているわけではない。これは前回のエントリーでも書いたが、コメンテーターは一方的に原稿を書くだけで、あとは読者のコメントにまかせているだけ。読者からのコメンテーターに対する疑問や要請に対しては一切答えていない。
うがった見方だがこれは「相手が本名ではない」という理由で避けているのかナ?とも思う。
なぜそんなふうに見てしまうかというと、そうやって微妙に参入障壁を設けておけば、コメンテーターとしてはラクだから。
私は岸井成格はこの原稿に寄せられた読者からの疑義に対する反論を書くべきだと今でも思っている。が、もし岸井がそれを書いたとしてもおそらくは「燃料投下」にしかならないだろう。結果、大炎上することは目に見えている。だから書かないだけなのだと思う。
小沢一郎秘書逮捕騒動の際、私がもっもと感銘を受けた文章の一つは白川勝彦の永田町徒然草に平成海援隊のBBSから転載された「政権交代への正念場です~民主党内の、腰の据わらぬ諸氏へ~」であった。これを書いたのは「どなんとぅ」さんという方で、いったいぜんたいどういう方なのかはわからない。しかしこの文章は少なからぬブログに転載され、大きな反響と議論を呼んだと記憶している。
つまり「責任ある議論」に本名も匿名もないのであって、要は書かれた内容がすべてなのである。
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