「こどもの日」に全原発停止
~ 嬉しいけれど、喜べない その2
(その1より続く)
1999年9月30日、東海村でJCOの臨界事故が起きた。
この日は中日ドラゴンズがセ・リーグ優勝を決めた日で、私は午後から会社の半休を取って神宮球場へ出かけていたので、事故のことを帰宅するまで知らなかった(当時は携帯でニュースなど見られなかった)。
早速、パソコン通信で情報を確認すると、大変な事故であることがわかったが、ここでもメディアの伝えるニュアンスとパソコン通信から入ってくる情報は相当に異なっていた。
2002年10月、私は勤務していた会社で編集部から広告部へ異動する。
それまで広告に関する知見はほとんどなかったが、営業の現場を経験するなかで、東京電力が想像以上に有力な広告主であることを知った。
私の勤務していた会社は女性誌を中心に発行していたが、たとえば30代以上の主婦向けファッション誌には「オール電化住宅」の広告が入る。しかも、雑誌広告の売上げが落ち込んでいくなかで、定価ベースの広告料金を払ってくれる貴重なクライアントの一つだった。
そして2006年から当ブログを書き始めた私は、以後、原発についてかねて思っていた懸念、あるいは電力会社とメディアの関係を時々、書くようになった。
そうして2011年3月11日に東日本大震災が起きて、福島第一原発は破局事故を起こした。
こんな私であるから、こどもの日に全原発が停止したしたのはもちろん嬉しい。良かったと思う。
だが、手放しで喜ぶ気持ちにもなれないのは、いつ収束するかまったく見当もつかない破局事故がすでに起きてしまったからだ。
福島第一原発1号機から3号機で原子炉から溶け落ちた燃料はいまだにどこにあるのかわからず、それが回収可能であるかどうかもわからない。4号機には莫大な数の使用済み燃料があり、これが強い余震で倒壊するかもしれない建屋の中にある(一応、補強工事はしたが)。
原発周辺に住んでいた住民はもはや帰宅することはできない。
そして──。
日本の法律をきちんと適用するならば、福島のみならず群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京の一部にも放射線管理区域にしなければならない場所、つまり住んではいけない場所がある。にもかかわらず、政府は法律をネジ曲げてしまったため、いまだにそこで多くの人が普通に暮らしている。
そうしたなか、原発推進勢力は産学官報一体となった恐るべき情報コントロールで、なお原発を再稼働させようと試みている。まったくもって原子力ムラの強大さには驚くばかりだが、しかしその彼らをもってしても全原発を停止せざるを得なかった。つまり、福島第一原発の事故はそれほど大きなものだったのだ。
ここで話は突然かわるが、消費税増税を目論む野田政権、そしてそれを後押しするメディアによれば、増税を必要とする最大の理由は後世にツケを回さないためだという。そのためには、消費税の負担増はやむを得ないのだそうだ。
ところで後世にツケを残すという意味では原発ほど莫大なツケを残すものはない。
なにしろ高レベルの放射性廃棄物は十万年、百万年の単位で管理しなければならないのである。
現在、原発各地の使用済燃料プールはすでに限界に近づいており、一方で核燃料サイクルはとっくの昔に破綻している。
今後、原発を稼働すれば、またまた使用済核燃料が出てくるわけで、その持って行き場はすでになくなりつつある。
しかも、これから福島第一原発の処理で膨大という言葉でもまだ足りないほどの想像を絶する放射性廃棄物が出てくるわけだが、これをどこでどうやって管理するのかも定かではない。
一昨日の朝、TBSの「サンデーモーニング」を見ていたら、原発推進派の寺島実郎が「泊は最新鋭の原発で耐震性もしっかりしており、古い原発とは安全性が比較にならない」とういうようなことを力説していた。しかし、たとえ少しばかり耐震性や性能が向上したとしても使用済核燃料は出るわけだし、耐用年数を過ぎた原発は解体しなければならない。つまり、ここでもまた膨大な放射性廃棄物が出てくるのである。
寺島実郎が生きているのはせいぜいがあと二十年ぐらいのものだろうが、問題はその後なのだ。
ただでさえ、現時点で後世に莫大な負債を作ってしまったのに、ここでまた原発を再稼働をすれば、負債がどんどん積み上がるのである。
私に言わせれば答えはすでにハッキリしている。
もはや原発の再稼働は絶対にしてはいけない。
それで電力不足が起きることはないが、百歩譲って電力会社が言うように電力不足で計画停電のような事態に陥ったとしても、それでも原発は稼働してはいけない。
結果、これまでのように経済成長一本槍の路線は変更せざるを得ないが、それでももちろん稼働をしてはいけない。ここまで大きなツケを後世に対して作ってしまったのだから、もはや原発が動かなくてもやっていけるだけの経済規模にするしかない。
もっともその方が社会は成熟すると私は思う。
エアコンの設定温度は上げて、できるだけ我慢すればいい。真夏にどうしても暑くて設定温度を下げたくなったら、テレビを消せばいいのだ。その方がよほど節電になる。だけど高校野球に関心があるというのなら、ラジオを聴けばいいいじゃないか。
スーパーにしてもコンビニにしても、煌々と照明をつける必要はない。昨年は節電で結構、照明を落としている店があったが、私はそういう店へ行くたびに「これで十分だナ」と思った。要はこれまでが明るすぎたのである。
何も電気のまったくない時代に戻るわけではない。ただ一人ひとりが少しずつ我慢をすればいいのであって、その間に新たなエネルギー源、あるいは電池の分野に国全体で投資をしていけば、今以上の成長分野になる可能性は十分にある。
昨日から今日にかけて、テレビは竜巻一色であった。たしかにこの竜巻は凄まじい被害をもたらしたし、死者、けが人が出た。
しかし、誤解を恐れずに言えば、自然災害というものは避けられない一方で、しかしそこから復興することも可能だ。しかし、原発事故による放射能災害というのは、一度起きてしまえば、容易に復興できない。
その災害がすでに日本で起きてしまったことを考えれば、繰り返しになるが原発は再稼働してはいけない。
全原発が停止したのは「こどもの日」。その意味をよくよく考えなければならないと私は思うのである。
誰も通らない裏道 蔵出しエントリー
・2007/01/16 「原発は高い」(アル・ゴア)
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