2011/10/16

鉢呂吉雄が経産相に「起用された理由」を推測する

私は何かにつけてうがった見方をするタイプである。それは元来の性格でもあるわけだが、とくにマスメディアが報じるニュース(=権力による発表情報)については、つねに言論操作の疑いをもって見るように心がけている……。

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かくもさまざまな言論操作

そこで、まずはコメント欄にもいただいた前エントリーについての世田谷弦巻の件について追記しておくと(pc4beginner様、コメントありがとうございしまた)、これが福島由来のものではなかったことは大変良かったと思う(世田谷の区長が保坂展人氏だったことも幸いで、区長、あるいは市長選びの重要性を再確認する出来ごとだった)。
ただ、なんとも不思議な一件だとは思う。
横浜でストロンチウムが検出されたのとほぼ同時だったのは偶然だろうが、結果的に弦巻の放射能が福島とは関係なかったことで、なんとなく横浜のニュースも霞みつつあるように見えるのは気のせいか。また、この弦巻のお宅に住んでいる方が、高齢者であったことで、「放射線量が高くても健康被害にはつながらない」というイメージをそれとなく拡散させることができたようにも感じる(実際、世田谷区在住の知り合いがそう言っていた)。
つまり、今後、起きるであろう重大な健康被害について、福島との因果関係を否定できる材料が一つ増えたわけで、少なくとも政府や東京電力にとっては「悪くない」出来ごとだった。
もちろん、今回は偶然だったわけだが、しかし相手はどんな出来事も利用することばかり考えていることは間違いないわけで、このニュースの「使われ方」は今後、注意する必要があると私は思っている。
そして、今一度、改めて確認しなければならないことは、福島第一原発の破局事故を原因とする広範囲に及ぶ前代未聞の放射能汚染は現在進行形であるということだ。

・小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ
10月13日 どうにもならない現実を説明する責任が国にも東京電力にもマスコミにもある。 小出裕章(東京新聞こちら特報部)

さて、本日はうがった見方をもう一つ書きたいと思う。
ブログ「ざまあみやがれい!」さんのエントリーで知ったのだが、上杉隆氏の「ニュースの深層」という番組に鉢呂前経産相が出演していた。

これを見てわかるのは、鉢呂氏が原発に対して真っ当な考えを持っていることである。
それもそのはずで、この人は経産省の役人だった原発推進派の高橋はるみと2003年に北海道知事選で争い、原発に慎重な立場を表明して僅差で敗れているのだ。
そこで浮かぶ私の最大の疑問は、そんなことは百も承知のはずの野田佳彦が、何故に自らの政権の方針(それでも原発推進)と異なる人物を経産大臣に任命したのかということだ。
マスメディアの政局解説的には、それは鉢呂が旧社会党出身であって、組閣の際の派閥均衡の結果ということになるのだろう。あるいは、国民の反原発、脱原発への機運に一定の配慮をしたという解説もあり得るかもしれないが、それにしても経産省的にはあってはならない人事である。
とすると、何か他の意図があったのではないか?と私なんぞは思ってしまう。
そこで以下にうがった見方を書くと……

・野田の本心(=権力の総意)は枝野を経産相にすることだった。しかし、野田内閣発足時に枝野を起用すると、3・11後の経緯からして相当な非難、批判を浴びる。そこで、ワンクッションを入れることにした。

・その経産相は誰でも良かったが、あえて鉢呂を選んだ。それは対外的に原発に慎重な姿勢を示している人物を起用することで、野田政権の本心を多少なりとも糊塗できるということが一つ、もう一つはどうせすぐに交代させるのであれば面倒くさい反原発派を起用して失脚させると一石二鳥になる。

・経産相交代の機会は折を見て、、、と思っていたら、鉢呂が早速「総合資源エネルギー調査会」の人選に手を突っ込んできたため(反原発派の数の大幅増員)、あわてて失言騒動をでっち上げて引きずりおろし、予定通り枝野を後任に据えた。

もちろんこの推測に根拠などない。しかし、この国の権力というのは、そのぐらいのことはやると私は思っている。
実際、鉢呂の後任が枝野になった時に個人的には強い違和感があったが、マスメディアは何の批判もせず「安定感がある」などと解説していたと記憶している。
「それにしても、うがち過ぎだろ。現に、枝野は九州電力のやらせメール問題でも、退任しない九電社長を強く批判していたではないか」
とおっしゃる向きもいるだろう。それについて言えば、枝野は「批判しているフリをしているのではないか」と私は推測するのである。

・八木啓代のひとりごと
九州電力第三者委員会が突きつけたもの

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011/10/05

731部隊と山下俊一

以下に書くことは、すでにネットでは少なからぬ人が指摘していたが、私は迂闊にも気づいていなかったーー。

まずは信濃毎日新聞のこちらのニュースから。

*****
・10人の甲状腺機能に変化 福島の子130人健康調査
認定NPO法人日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)と信大病院(ともに松本市)が、福島県内の子ども130人を対象に今夏行った健康調査で、10人(7・7%)の甲状腺機能に変化がみられ、経過観察が必要と診断されたことが3日、分かった。福島第1原発事故との関連性は明確ではない。旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の被災地では事故から数年後に小児甲状腺がんが急増しており、JCFは今後も継続的に検査が受けられるよう支援していく方針だ。
 調査は原発事故から逃れて茅野市に短期滞在していた子どものうち希望者を対象に7月28日、8月4、18、25日に実施。130人は73家族で生後6カ月~16歳(平均年齢7・2歳)。医師の問診と血液検査、尿検査を受けた。
→記事の続きはこちら
*****

このニュースは私が読んでいるいくつかのブログでも取り上げられていたし、また小出裕章氏も以下の放送のなかで、この検査結果を問われて感想を述べている(6分過ぎから)。

しかしながら、肝心の福島県は県民の血液検査をすることに、まったく積極でないという。そして、その中心にいるのが山下俊一である。

・低気温のエクスタシーbyはなゆー
〔子供の甲状腺悪化〕福島県は楽観論一色「血液検査やらない」

私が上記のエントリーを読んで強く思ったのは、これではまるで福島県の人々を人体実験しているようなものではないかということだった(もちろん、そういう意見は以前からあったが)。そして、そこに第二次大戦中の旧陸軍満州第七三一部隊(通称731部隊、あるいは石井部隊)と共通する感覚を感じたのである(731部隊については、ネット上で検索をすればいくらでも出てくるので、詳しくご存知ない方は調べてみていただきたいが、要するにこの部隊は中国人、ロシア人、朝鮮人、、、他多くの国の捕虜に対してまったくもって非人道的、かつ大々的な人体実験を行った。そして人体実験を行う際、捕虜は「マルタ(丸太)」と呼ばれた)。

・真実を知りたい
石井部隊-”マルタ”生体実験

しかも、この731部隊の人脈というのは戦後も少なからず生き残り、多くの機関、組織へと入り込んで戦後史の都度都度で顔を出す(その一つが薬害エイズ事件である)。

・誰も通らない裏道
偽装、ミドリ十字、、、(1)
偽装、ミドリ十字、、、(2)

山下俊一に話を戻すと、この男が福島でやろうとしていることは、繰り返しになるが731部隊がやった行為と非常に似ている。そこでためしにネットでいくつかのワードを入れて検索をかけてみた。すると、山下俊一は重松逸造なる人物の直弟子だということがわかった。
この重松逸造とは何者かというと、放射線影響研究所(放影研)の理事長をつとめた経歴があり、1991年にチェルノブイリ事故への安全宣言を出した人物であった(参考:ウィキペデア・重松逸造)。

・ざまあみやがれい!
1991年「チェルノブイリ安全宣言」発表した重松逸造氏(IAEA事故調査委員長)を糾弾したドキュメンタリー動画(一部文字おこし)

では、さらに放影研とはどのような組織か? ホームページの沿革にはこう書いてある。

「財団法人放射線影響研究所(放影研)は、日本国民法に基づき、日本の外務省および厚生省が所管し、また日米両国政府が共同で管理運営する公益法人として1975年4月1日に発足しました。
前身は1947年に米国原子力委員会の資金によって米国学士院(NAS)が設立した原爆傷害調査委員会(ABCC)であり、翌年には厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加して、共同で大規模な被爆者の健康調査に着手しました。(以下略)」(下線太字はブログ主によるもの)

ABCC-放影研の歴史

また、↓の資料の19ページも参照していただきたい。

「放影研ニューズレター」

ここには、こう書いてある。

「放影研の研究成果は、放影研の前身である原爆傷害調査委員会(ABCC)の研究成果と深く結びついています。ABCCは1947年に設立されましたが、当時は財政・運営ともにほとんどが米国によるものでした。日本側は主に、厚生省国立予防衛生研究所(予研)の人材を、広島・長崎のABCC内に設置された予研の支所に派遣することを通じてABCCにかかわることとなり、広島と長崎の予研支所長であった槙 弘博士と永井 勇博士は、ABCCの準所長も兼任することでABCCの方針決定に関与していました。」(下線太字はブログ主によるもの)

なるほど、これでわかった。
この国立予防衛生研究所(通称・予研。現在は国立感染症研究所)こそは厚生省の関連施設で、731部隊で生き残った人脈が深く入り込んでいる組織である
(ちなみに、今年に入ってからも↓のようなニュースがあった)

・47ニュース
新宿区戸山の人骨」発掘開始 731部隊との関連指摘も

つまり、山下俊一の経歴を少し手繰れば、即座に731部隊の人脈に突き当たるのだ。そして、その731部隊こそはありとあらる人体実験をやった悪魔の組織であった。
その組織の系譜に連なる人物が今、福島で壮大な人体実験をしようと張り切っている。
まさに「悪魔の飽食」の復活である。
私はその事実に、この国の底知れぬ闇の深さを見て慄然とした。

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2011/09/30

止まらない放射能汚染 ~ 2019年、ラグビーW杯は日本で開催できるのか?

ニュージーランドで開催されているラグビーW杯で、日本代表は1分3敗とグループリーグの最下位に終わった。
このラグビーW杯というのは歴史が浅く、最初に開催されたのは1987年。したがって日本ではあまり馴染がないが、いまやスポーツイベントとしての規模は、サッカーのW杯、オリンピックに次ぐものだという。
このラグビーW杯に日本は第1回から連続出場をしており(ただし第1回は招待制だった)、その意味ではサッカーよりも立派だが、しかし成績の方は芳しくなく、過去7回の通算成績は1勝2分21敗と惨憺たるものである。
とくに1995年のニュージーランドとの対戦では145失点(得点は17点)という大失態を演じてしまい、ラグビーをよく知らない人でも「なんだか恥ずかしいぐらいに大敗した試合があったナ」とご記憶の方も多いかもしれない(映画「インビクタス」ではマンデラがニュージーランドの予選での成績をたずねるシーンで対日本戦の結果が「145-17」と聞いて、「145点!?」と驚くシーンがある)。

とまあ、なかなか結果を残せない日本代表なのだが、8年後の2019年には日本でこのラグビーW杯が開催されることになっている。
ラグビーファンの私としては今からとても楽しみであるが――
しかし一方で2019年の日本で果たして本当に世界規模のスポーツイベントを開くことができるのだろうか?という疑念、あるいは不安も捨てきれないのだ。
というのも、これだけの大会となれば、日本各地で試合をしなければならず、当然、首都圏を含む東日本でも少なからぬ試合をしなければならないだろう。しかし、それは可能なのか?
問題はその時の福島第一原発をめぐる状況にかかっているだろう。

いま、マスメディアでは福島第一原発の1~3号機の原子炉がすべて100度以下となったという東京電力の発表情報をしきりに流している。それだけを聞いていると、あたかも事態は収束へと向かっているかのようだ。
たとえば、読売新聞はこのような記事を書いており、あわせてそこにこのような図を掲載している。
が、一方で、京都大学の小出裕章氏は、もはや原子炉はそのような状態ではないと言う。


溶けた燃料が地下水を汚染する可能性 投稿者 HEAT2009

では、東京電力と小出氏のどちらの言っていることが正しいのだろうか? 
私には技術的なことはわからないが、しかしどちらが信用できるかと言えば、小出氏に軍配を上げざるを得ない。なにしろ、東電は3.11前まで「原発の破局事故など絶対に起きない」と言い、小出氏は「絶対に起きる」と言っていたのだから。
となると、これから先、事態はおそらくは小出氏の予想する方向へと進むだろう。しかも、小出氏が求めているような対策は遅々として進んでいない。であれば、事態はより悪化する他はない。
チェルノブイリの事例を見るまでもなく、放射能災害というのは広範囲に、しかも非常に長期間にわたって影響が残る。このことを海外の人は知っているから、当然のことながら、来日公演がキャンセルになる事例も出ている。

・セシウム飛散、250キロ以遠にも 群馬の汚染地図公表

セシウム汚染の帯、首都圏に 千葉・埼玉の汚染地図公表

※注「文部科学省による広域航空機モニタリング計画について 」によれば、この調査はその他の都県でも行なわれている。

そうしたなか、8年後、たとえ屈強なラガーマンたちといえども、彼らが喜んで日本にやって来るとは、現状では私にはどうしても思えないのである。

ところがそれほど深刻な状況であるにもかかわらず日本では……
たとえば昨晩のNHKニュースウォッチ9のニュースの並びは、

(1) チュートリアル福田摘発
(2) トイレに1000万円
(3) むち打ち刑撤回
(4) イチロー記録ストップ

だったそうだ(私は未見だったが、視聴していたテレビマンからの情報)。
おそらく、これこそが岡庭昇氏が言うところの最高度の言論操作なのであろう。
つまり、本当に重要なことは何一つ伝えないことで、原発には何の問題もないという洗脳をしているわけだ。
この大本営発表とは比べものにならないほど洗練された言論操作に、果たして日本人はいつになったら気づくのだろうか?

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2011/09/29

権力と闘うということ

1970年にとある大手資本の子会社(従業員数250人前後)で起きた労働争議の記録映像を見る機会があった。
争議のきっかけは独裁的な権力をふるっていたこの会社の社長の数々の不正の発覚で、組合員全員で無期限ストに突入する。
ところが、会社は親会社の指示のもと、争議ゴロを取締役に据えるという強硬策に出る。警備員という名の暴力団員が多数雇われ会社をロックアウト。その一方で、組合の懐柔策に出て、数カ月後には第二組合が誕生。当然、彼らは職場復帰をする。
映像では、警備員(暴力団員)が労働者に殴りかかるところが映っている。
しかも驚くのは、警察がこの警備員(暴力団員)と一体化して、労働者を弾圧していることである。
というのも、親会社は警察と密接な関係にあり、日頃から警察に協力しているばかりか、そもそも警察署が建っている土地自体が親会社のもので、そこを好意で警察が使わせてもらっているのだという。
したがって、警察は徹底して親会社とそれに連なる子会社経営、そして第二組合の側に立ち、第一組合の組合員は続々と逮捕されていく。
ところが、それでも労働者はめげなかった。同業他社の労組が次々に支援連帯スト権を確立。本体の労組は100人を切るまでの人数になってしまったにもかかわらず、その倍以上の支援労働者が会社や親会社の前に駆けつける。
映像には当時のデモの様子も記録されているが、スクラムを組んでのジグザグデモが行なわれ、警察や第二組合員の一部と衝突を繰り返す……。
普通に考えると、これだけ彼我の差があれば、第一組合側がアッサリ負けるはずなのだが、しかしこの争議は最終的に組合側の完勝に終わった。
なぜそのような結果を出すことができたのか?
その最大の要因を一つ挙げれば、争議の間に起こされた数々の裁判で組合が連戦連勝したからだ。
つまり、司法が最後の砦として真っ当な判断を下していた、機能していたのである。

ここのところ、「戦後」とは何だったんだろうということを少しく考えている。
「日本は官僚独裁という意味において、戦前も戦後もなく一貫している」というのが私の持論で、それは今でも変わることはない。
ただ、最近、一つ思うのは、それはそれとして、やはり敗戦というのは独裁権力にとって大きな痛手で、国民をコントロールする上でのいくつかの大切な手段を失ったのだろうということだ。
結果、独裁権力を行使するにしても、どうしても効率が悪くなる。
労働運動が燃え上がったり、国民の目が日米安保に向き、ジャーナリストがこれを書き立て、一旦、裁判が起きれば司法が真っ当な判断を下してしまう。
効率を何よりも好む独裁権力にとって、これほどの非効率、ムダはない。
そこで、この非効率をなんとしても改善するべく費やしてきた日々が、つまり戦後なのではないだろうか。

このたび判決が下された「陸山会事件」の公判では、当初、検察が証拠申請した少なからぬ供述調書が却下されたため、これまでデタラメの限りを尽くしてきた検察も、いよいよ年貢の納め時かと思った人が多かった。
ところが、実際に下った判決は、そんな危ない供述調書を申請しなくても、状況証拠を出してくれれば検察が立証(デッチ上げ)したくてもできなかったことまで含めて、ジャンジャン認定してあげるよという内容であった。
これについて、郷原信郎氏はtwitter上で、↓のように述べている。

http://twitter.com/#!/nobuogohara/status/118449794925604864
http://twitter.com/#!/nobuogohara/status/118450385504579584

つまり、「じゃあ、これまで検察官が必死になってやってきたことはなんだったのか? バカにするな」というわけだが、一方で郷原氏と同期の元検事、若狭勝氏はこのように述べている。こちらは「それで有罪にできちゃうんだ! なーんだ、検察ラッキーじゃん」ということだろう。

ところで、この判決が下りた後、石川知裕議員が会見をした。大変、疲れているということで、珍しく司法記者クラブと自由報道協会が呉越同舟での会見となった(主催は石川事務所ということらしい。そんなことはどうでもいいが、こういうことが司法記者クラブの連中にとってはもっとも大事なのだろう)。
私もネットでこの会見を見たのだが、最前列に座っているのは自由報道協会、つまりフリーランスの面々ばかりである。そして、質問をするのもすべて彼ら。大手メディアの記者はその後ろに座って、パシャパシャとノートパソコンのキーボードを打つだけである(それにしても、いつも思うのだが、あれはいったい何を打っているのかね。音声なんて録音すればいいんだから、パシャパシャ打っても意味ないじゃん。それより会見者を観察するとかはしないのかね。毎日新聞の主筆とやらは、相手の顔色を見て記事を書くらしいですぜ)。
要するに、司法クラブの記者はこの判決についての疑問を一切、持っていないのである(普段、記者クラブで下げ渡し情報をもらうだけの体質が染みついているということもあるだろうが)。
そして、案の定、マスメディアはアリバイ程度に、この判決の危険性を述べる識者のコメントを載せたが、基本的には裁判官が下した判断をそのまま大々的に垂れ流した(5000万円授受ビデオを捏造したTBSなんぞは嬉しかったでしょうなあ)。
なかには「法律的には議論の余地が残るが、国民の常識的な感覚には近い。積極的、挑戦的な判決だ」などという法律学者のコメントもあった(「くろねこの短語」参照)。
驚くべきコメントですね。法律よりも国民の感覚、つまりポピュリズムが優先するというのである。事実がどうであろうとも、マスメディアがうわーっと書きたてて印象操作をした結果として出来あがった「国民の感覚」に沿った判断の方が正しいというわけだ。
過去に冤罪で苦しんだ多くの人々は、捜査当局から情報をもらったマスメディアが書き立てる記事によって、周囲の人々から「犯罪者」という印象を与えられ苦しんできた。しかし、この法律学者は「国民の常識的な感覚」に沿うことを是とするのである。いやはや、私は法律など学んだことのない素人だが、こういう人が権威として存在する法律の世界というのはいったいなんなんだろうと思わずにはいられない。

しかしながら、、、
それもこれも、すべては独裁権力が戦後、コツコツと打ってきた布石の結果なのだろう。

最初に触れた争議の映像では、警察と資本の密着ぶりが余すところなく描かれているわけだが、いま東京電力もあれだけの破局事故を起こしながら、何一つ罪に問われることもなく、本社の周辺は警察によって守られている。
それもそのはずで、平岩外四、那須翔といった東電の歴代トップは国家公安委員をつとめている。つまり東電という会社は国家権力と直結しているのである。
いま、脱原発側はそういう企業を相手にしている。

先日の脱原発デモでは少なからぬ逮捕者が出た。また、佐賀県庁へ抗議に行った山本太郎が建造物侵入で告発されるということもあった。これに対してネット上では批判の声が上がっている。もちろん声を上げることは大切だが、しかしこのようなことはあちらからすれば序の口で、どんな手を使ってでも弾圧してやろうと手ぐすねを引いているはずである。
しかも、かつてのように最後の砦である司法にもまったく期待できない、どころか状況さえあればまったくの冤罪をでっち上げられる可能性がきわめて高い。
いま私たちはそのような状況の中にいるわけだ。
では、この権力の決意に対して、こちら側はどのように対抗すればいいのか。
最近、私は、ただ大人しく行儀のいいデモをやっているだけでは、もはやダメなのではないかと思い始めている。

※まったくの余談
かつて大日本愛国党の赤尾敏という右翼の大御所がいた。いつも銀座・数寄屋橋の交番の前で辻説法をしていたのだが、もしこの赤尾先生が生きていれば、私はきっと数寄屋橋から東京電力本社の前に街宣車を回していたと思う。今考えると、赤尾敏という人は、もちろん多くの面で私とは考え方が異なるが、しかし立派な人だった。

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2011/09/18

TBSに抗議した東京電力の意図

私が広告営業をしていた頃、主に担当していたのは週刊誌だったのだが、雑誌広告において最初にネット広告の影響を食らったのは、この週刊誌という媒体だった。つまり、少なからぬクライアントが週刊誌の予算をネットへ回したのである。
大きなクライアントが抜ける穴埋めというのは、それは大変で、新たなクライアントを見つけてくるというのは至難の業。それでも予算を作らなければならないので、結果、安売りするという方向へ走ってしまったものだった。
そんななかにあって、当時、ありがたかったのは消費者金融の広告だった。というのも、消費者金融というのは値引き率が低い、つまり高い金額で広告スペースを売ることができたからだ。各号の広告予算表といつも睨めっこしていた私は、消費者金融の広告が入っている週は、「あまり心配しなくていいナ」と思っていた。

ところが、ある時、そのうちの一つの大手消費者金融で大きなスキャンダルが出てきて、事件になる気配があった。
もし、事件になれば、週刊誌としては取材して伝えなければならない。それは当たり前のことだが、広告担当者としては、その消費者金融の広告と事件の記事が同じ号に載る、いわゆる「記事同載」だけはどうしても避けたかった。
広告掲載のある号は事前にわかっているので、もし事件が起きてしまったらその後の広告は差し替えればいいが、問題は広告掲載号の編集中に事件が起きてしまうことだった。
当時、この雑誌のカラー広告の校了は水曜日。しかし、モノクロ記事の最終締切は土曜の夜だった。つまり、カラーページの方が印刷が早い。そして、この広告はカラーだったので、木曜から土曜の間に事件が起きてしまうと、「記事同載」になってしまう。当時はこれに随分と気を揉んで、印刷所とも相談したりしつつ、いろいろとシミュレーションしたものだった。
ま、結局のところ、事件化は広告掲載号と関係のない週だったので、いらぬ心配だったのだが、ではなぜそれほど気を揉んだのか。正直に言えば、この事件が終わってほとぼりが冷めれば、また広告の出稿があるかもしれないという思いがあったからだった。

このように週刊誌の広告営業というのはニュースに敏感である(これはニュース部門のある媒体社ならどこも同じだろう)。
私のいた会社では、ファッション誌の広告の比率が高く、それに比べると男性週刊誌の広告売上げなどというのは大した金額でなかった(といっても書籍の売上げ、利益と比較するとそれなりに大きかったが)。したがって、多少、売上げを落としても咎められることはほとんどなかったのだが、ただ日々の営業活動とともに、週刊誌担当にはもう一つ大事な仕事があった。それは編集内容のチェックである。
これには2パターンあって、一つは大きなクライアントの「危ない記事」がないかの自主的なチェック。たとえその週刊誌に広告出稿がなくても、他の雑誌で大きな取引のあるクライアントというのはたくさんあるわけで、そのクライアントのネガティブな記事が出ていないかどうかのチェックは重要なのだ。
そして、もう一つは広告代理店から記事チェックの依頼が来るケース。
たとえば、このようなメールが来る。

**********
題名:〇〇社(←ここに企業名が入る)記事チェックのお願い

お世話になっております。
表題の件、〇〇社関連の記事チェックのお願いです。

本日の〇〇新聞 朝刊1面に、「×××」という記事が取り上げられています。

下記は既にWEBには出ており、雑誌でも掲載が確認されているものもあります。

来週売りで掲載予定がありましたらご連絡いただけますでしょうか?

お忙しい中お手数をお掛けいたしますが、
何とぞよろしくお願い申し上げます。
**********

では、上記のようなメールにどう対応するのか。
この「〇〇社」というのが自社とまったく関係ない場合は突っぱねる……と、もちろんそれが基本ではあるが、代理店に一つ恩を売っておこうということで、掲載がなければ「なし」と伝えることもある。ではあった場合は? これは難しいが、すべて校了してから発売までの間に「あるみたいだな」と伝えることもある。
その他、本当にケースバイケースであるが、つまりそういうやり取りを、媒体社の営業と広告代理店が頻繁にやっていることは事実だ。

さて、前ぶりを長々と書いてしまったが、、、
数日前、東京電力がTBSの放送したスペシャル番組に抗議をしたという。

・9月11日放送 TBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」における報道について

↓がその番組。


20110911 原発攻防180日の真実 故郷はなぜ奪われ... 投稿者 PMG5


20110911 原発攻防180日の真実(2) 投稿者 PMG5

私はこのニュースを見た時、もちろん「さすが東電、傲慢なことこの上ない、第一級の国賊会社だナ」と思ったが、同時に「これはTBSだけでなく他局や他媒体の広告担当者には意外に効果的かもしれないナ」とも思った。
つまり東電のこの抗議の隠された意図は、広告関係者へのプレッシャーであり、「こういう内容の放送をしていると、もう広告は出さないよ」というメッセージなのではないか、と。
もちろん、これは私の単なる推察であるが、現在のメディアの状況を見ていると、あながち的外れではないと思う。
少なくとも、東京電力が広告代理店を通じて、各メディアの報道を逐一チェックしていることは間違いないだろう。

つまり、、、
この会社は原発の危機管理についてはまったくもって無能だが、自社が存続するためならどんな手でも使う、そういう意味での危機管理は万全の会社なのである。

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011/09/15

『週刊岡庭昇 29』 ~ 「一億総懺悔体制が確認された」

順不同ですが、「週刊岡庭昇29」、「一憶総懺悔体制が確認された」を転載します。

**********
週刊岡庭昇 29 ~ 一億総懺悔体制が確認された
(2011.7.2記) 

 2011年7月1日のNHKのニュースウォッチ9は、いざというときは体制維持のため、国民の感性操作に邁進する同局の本質を改めて確認させた。
 一般的に言ってNHKの内容が、民放と比べけしからんなどとはまったく思わない。それどころか、ここ十五年ほどの民放の呆れるはどの退廃は、かつてTBSのドキュメンタリディレクターであったわたしなど、そういう事実自体を隠したいほどだ。相対的に言ってこの民放の堕落と比べれば、もはや聴率料拒否の理論など成り立たないので、20年位前からちゃんと支払っているほどだ。
 報道以外では『ダーウィンが来た!』や『世界ふれあい街歩き』など立派な番組があるし、最近の東北大震災を題材にしたドキュメンタリにも良いものがあった。そのことは十分認めたうえで、ああ忘れていたが、NHKは第二次大戦以来、官僚独裁がいざというとき宣伝するメディアなんだな、と改めて確認させられたのである。
 戦時下の大本営発表は、事実と違うことをたれ流した点で批判される。それはまったくそうなのだが、それだけというところに、物を考えないこの国の怖さがある。問題はその点なので、考えること自体に対してわれわれが無気力に陥ることなのだ。
 事実と違う大本営発表は、そのことで、人間にはそれぞれの立場があって、その対立や融合の上に選ばれた結果として現実がある、という原則を無化する。これが大事なのだ。まるで季節のように検討を経ない現実が自明にやって来て、「選ぶ」のではなく「対応」だけが、行動として「自然」だと強制される。それが、この国である。抜き難いこの国の倒錯であり、この倒錯した本質に気付きようもない諸外国は、信じられないくらい紳士的な人々だと驚嘆する。
 いよいよ夏。われわれは節電に協力しなかればならんのだそうだ。でも、なぜ? いやなぜという問いすら、お目にかからぬのはなぜ?
 ごく常識的な問いを、二度、三度繰り返して置こう。①は、東京電力とわれわれ国民の関係は、説明するまでもなく加害者と被害者である。加害者が威張って被害者に電力供給に協力しろと命令している。なんでこんな横暴が、まかり通るのか? 常識的なわたしには理解出来ない。
 ②は故・高木仁三郎もつとに指摘しいていたことだが、原発がなければわれわれは停電生活を余儀なくされるという電力企業の脅しは、誰が、いつ、どういうデータに基いて客観化したと言うのか。高木は既存の火力発電を一部止めて、原発が必要な状況を電力自らが虚構していると明確に述べたが、いつ電力企業は客観的に高木を論破したのか。原発再開に当たってこの論議を棚上げするなんて、許されることか。
 2011年7月1日のニュースウォッチ9は、別に手間暇掛けた陰謀を仕込んだわけではない。さりげなく、夏が来たぞ、電力供給が大変だから、みんな協力しようと言っただけである。そして「だからこそ」それは、最高度の言論操作であった。
 わたしが言うところの、真の意味での大本営発表を実現した。自ら「考えること」を、現象に対置するのではなく、季節に対応するように「対応」することで、事態は糾弾されることなくやり過ごされ、悪はまんまと延命したのだ。
 かくて一時少しは揺らいだかに見えたメイファーズ日本は、また「動かぬ欺瞞の自然」にもどった。戦争に負けても「敗戦」とは言わず「終戦」とする政治が、結局は戦後史を征したのと同じである。雨が降り止んだのと同じように1945年8月15日に戦争は止んだのであり、誰も何処にも責任など取る必要はなかった。ただ国内外の運の悪い人が、ひどい目にあっただけだった。そう言えば谷川雁の詩に、「ギナノコルガフノヨカト(残った奴が運の良い奴)」というのがあったな。
 さあ一億総懺悔して、つまり誰も悪くはなかったと確認して、もとのメイファーズに戻ろうと、「自然」の家元であるNHKは宣告した。震災も原発のいかがわしさも、「節電」というコピーのもと初夏の風物詩と定められたようだ。めでたきかな無思想、無主体、無気力の集大成である「自然」! ああ恐ろしきかな、メフィストフェレスより暗黒のわが「自然」!
 自らの世界観に立脚した、自らの判断に基づく、自ら共働による社会など想像もつかないメイファーズ日本人は、おとなしい仮面の背後で、本当はエゴイズムの極なのかも知れない。かくて誰も責任を取らない、一億総懺悔体制はまたもや不滅である。震災以来1パーセントぐらいは、この国の人々も「考える」かと期待して来たが、またもやこのビッコの老人の挫折は必然だった。もう電力についても、核についても、語りたくはない。あんたの勝ちだよ。

Gwngos

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2011/09/13

『週刊岡庭昇 32』 ~ 「風評被害という呪文」

以下は岡庭昇氏が限定6部(!)で発行している『週刊岡庭昇』からの転載です。
『かくもさまざまな言論操作』の発売を記念して、これからいくつかの『週刊岡庭昇』を転載していきます。

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週刊岡庭昇 32 ~ 風評被害という呪文
(2011.7.18記)

 風評被害という言葉について考える。
 結論をはじめに言っておくが、風評被害とは体制が(つまり官僚独裁が)、隠し通して来た情報が明らかになろうとするとき、それを是非もなく(つまり根拠を示さず)打ち消す暴力的なムード言語である(というように、かねてわたしの邪推は定まっている)。
 わたしは、1980年代を中心に、ハマチ産業等の薬漬け養殖、無茶な減反が生んだ米不足、つまり年間に国民が消費する標準米が決定的に足りなくなった事実と官僚による隠蔽、隠蔽の延長上に、危険を含む飼料用米を学校給食に送り込むなどの国家犯罪の疑いや、学校建築にアスベストが多く使われている事実と、その対策はなし崩しになったのではないかという疑い、さらに原発にマルタン(炭鉱離職者)を送り込むシステムが、労働手配師と電力が組む陰謀としてあったと推断せざるを得ない事実等、制度としての情報とか報道とは、すぐれて「情報隠し」のためにあるのではないかと思いつつ、その証拠のようなTVドキュメントを世間に届けた。
 老人の手柄話をやりたいのではない。25年からの日月が経って、いったい何が改善したのかと溜め息を吐いている。この嘆きは、いま挙げた例からも、一見して明らかであろう。お前は結局、いまでも通用すると威張ってる? それは手柄ではなく、紛れもなく悲嘆なのだ。わたしのドキュメントは、ただわたしを虚無主義者にしてくれただけだった。おかげでわたしは、高級な虚無哲学者として、銭ゲバ日本の現実に興味を持たなくなった。
 ただ恐らくは官僚独裁からのカウンターパンチとして、90年代に「風評被害」という言葉が作られたことは鮮やかに覚えている。「TVと気分を重ねた」ムード言語に支配される日本では、これで独裁は完璧に勝利を納めるだろうと思ったのである。「意外な事実」がもし暴露されても、「風評被害」という言葉の名人芸によって、是非もなく粉砕するだろう、とわたしはつくづく感心して、さらに現実から虚無の方向へ去ったのである。
 東北関東大震災は、久し振りにこの「言葉の政治」を思いださせてくれた。まず「風評被害」という言葉は使わなかったが、原発爆発に対する、「諸外国の過剰反応」という言葉がいっせいに日本の隅々まで流布された。しかし諸外国といえども、特派員は多くの国が日本に置いているのである。奇妙な言い方をするものだと思っていたが、隠し切れずにいまやあきらかになったさまざまな、かつ一部の事実だけでも明らかなように、事実を伝えたのは諸外国のマスコミだけだった。
 この虚偽に乗っかって、「風評被害」という悪魔のキーワードが大活躍する。原発事故の現場の野菜や魚に放射能被害が出ても、安全なものもあるのだから、ひっくるめて言うのは風評被害であるというように。しかしわれわれはクイズをやっているのではない。正解が決まっている環境問題などというものはない。危険な「可能性」が現実に存在するとき、「風評被害」などという批判は原理的に存在しないのである。生命・身体にとって、悪魔はこの「悪しき可能性」なのだから。
 現に汚染の確認は、いまだ後から後から続く。「風評被害」などという魔法の呪いでは、現実は救済されないのである。農民や漁民のふってわいた不幸を断ち切ろうとする努力は心情として当然のことだ。しかし農民や漁民はただ被害者なのであり、事態に責任を取ろうなどと考えるべきではない。一億総懺悔路線を刷り込んで、独裁はまたごまかそうとしているが、これは紛れもなく東電の犯罪であり、徹底して加害者東電から損害を支払わせ、全部資産を吐き出させた後は(あくまでも後だよ)国家に引き継ぐべきである。「悪しき可能性」という事実を懸念する者に、「風評被害」という汚名を投げ付け、ちょとやそっとで回復しない土地での農漁業の回復を焦るなどは、真犯人をうやむやにすることにもなりかねない。
 風評被害という言い方がマスコミに登場したら、まず警戒することだ。独裁に都合の悪いどんな事実が、今回は隠されているのだろうかと。

Gwngos

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2011/09/09

1997年3月11日

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 事態が教えるものは、あまりにもはっきりしている。この程度の基本的、初歩的な事故を起こしうる設備がそもそも原子力発電所なのだ、ということだ。これにつけ加える、どんな理屈も不要だろう。
 この場合も、あたりまえのことをあたりまえといい切ること、すなわち常識こそが大事なのではないだろうか。危ないものを危ないと感じて、危ないものはやめようと提案し、危ないものに執着する論理は成り立たないと、ごくごくまっとうに考える市民の発想以外に、本来「原発論議」は存在しないなずなのだ。
 なぜそれなのに、あまりにも事態は「ほんらい」ではなく、「あたりまえ」ではないものがまことしやかに存在してしまうのか。むしろ「あたりまえ」を、そのにぎやかさで圧倒してしまうのか。むろん、それこそが情報帝国主義の、情報帝国主義である証拠なのだ、といってしまえばそれまでなのだが。
 原発は、いわば「国是」である。「国策」なのである。そして、それが国策であるかぎり、それについての情報はまったく市民に知らされず、それに対するあらゆる疑念自体が認められない。それは、まさに国策であるゆえに存在理由を持つのであり、そこに懐疑も、検証もあってはならないのである。それこそが一党独裁の強いる現実にほかならない。国策であるならなおのこと、十分な検証が必要なはずなのだが、むろんそういう「まとも」は、そこでは通用しないのである。
 危ないものを危ないと感じて、危ないものをやめようと提案して、危ないものに執着する論理はあり得ないとするところの、「まっとうな」市民感覚は、原発をめぐって存在を許されなかった。情報帝国主義は、さまざまな手だてをもって、それを押さえ込んできたのである。
 そのひとつに、原発を危険だなどというのは、科学的な無知のしからしむるものにすぎない、という「理屈」がある。これはけっこう有効な詭弁だった。この「理屈」は、「危険性などはない」という結論を、「無知」呼ばわりと引き換えにきめつけるけれども、その「無知」が納得するようには説明してくれるわけではなく、ただ懐疑は無知の結果であると、決めつけるだけなのだから。
 たとえわれわれ市民が、科学的な専門性を持たないのは事実だとしても、そしてそのかぎりでは「無知」であるのが事実であるにしても、それを「無知」呼ばわりすることで懐疑を嘲笑し、否定した論議は、ついに懐疑のなかにある無知を、懐疑を超えたところの「納得して安心した知的認識」に転じさせることができなかった。そんなにも、説得力のない専門性などというものがあるだろうか。
 はっきりいって、このきめつけにあったのは、論理でも専門性でもなく、ただ「無知」という高飛車な罵倒で、懐疑自体を封じ込める「政治」なのであり、そうである限り「無知」が正当に感じている懐疑や危惧に対して、「無知」よりはるかに非論理的であることははっきりしているのだ。
 さて、だからこそわたしは、さきの指摘にこそここでもどらなければならない。すなわち、この程度の基本的、初歩的な事故の可能性を持つのが、原子力発電所というものなのである、という指摘に。
 科学的な知識が、それだけで認識の優越性を保証するという考え方自体が意味を持たないが、それ以上にここでの皮肉な結論は判然としている。懐疑や危惧を無知呼ばわりした、科学的に優越している立場が、少なくとも専門家としては、この程度に基本的で、初歩的な事故を起こしてしまったのだ。つまりは、非専門家の「無知」が感じた懐疑や危惧こそが、じつは正当に事態を認識していたわけなのだから。
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株式会社志木電子書籍より岡庭昇著『かくもさまざまな言論操作』を発売した。
上記の引用は同書の『「国策」はどのような「許容」をも許容しない』という項の一節である。

Gwngos

かくもさまざまな言論操作

この引用の冒頭で指摘されている「事態」とは1997年に茨城県東海村にある旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)の再処理工場で起きた爆発事故のこと(ちなみに「もんじゅ」を開発したのもこの旧動燃である)。
今回、こちらのブログのエントリーを書くにあたって、この事故のことを検索して驚いた(つまりは気づいていなかったということでもあるのだが)。
その日付というのが3月11日なのである。つまり本年3月11日から遡ること14年前の同じ日に東海村で重大な事故が起きていたわけだ。
驚くことは、この事態に対する岡庭氏の指摘が、今日の福島第一原発事故と寸分の狂いもなく符号することである。
つまり――
日本の原子力政策というのは、どのような事故が起きても一つも反省することなく継続されてきたということだ。
後世の人たちが、この歴史を振り返った時、「もしもあの時に原子力政策を見直していれば……」という、その「もしも」のタイミングは一つや二つではなかったろう。しかし、そのすべてのタイミングにおいて、「事故」は「事象」と言い換えられて、何一つ変わらぬまま日本の原子力政策は官民一体となって暴走してきた。
そして行きついた果てが2011年の3・11だったわけだ。

「原発をやめろというならば、その前にクルマの利用をやめろと言え。原発事故の死者はいないが、交通事故の死者は年間5000人だ」というような与太を言う人間が今でもいるそうだが、そういう輩はずっと昔から存在していた。
つまり、原発というのは事故を起こしても大したことはないのだから、どんどんやれということなのだろう。
そもそも、今回の福島第一原発事故の死者がいないというのもまた言論操作の一環だと私は考えているが、一万歩譲ってそれが事実だとしても、それは事故を起こした原発周辺に普段着の人間が近づいていないからというに過ぎないのである。
交通事故を処理する警官が防護服を着て作業をしているか? 現場に長時間いると危険だから入れ替わり立ち替わりの人海戦術をしているか? その事故現場には百年単位で人が近づけないなどということがあるか?
つまり、もう比較の仕方がまったく異なるのである。
にもかかわらず、原発を再開しろ社説でわめきたてている新聞社もあるそうだが、だまされてはいけない。すべては「言論操作」なのである。

※以下も好評発売中です。

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