2013/03/12

丸2年、そしてあと3年?

3.11から丸2年が過ぎた。
思い起こせば2年前、私は大田区の仕事先で地震に遭遇。
その後、電車が動き出すまで待機し、深夜、動き出した地下鉄に乗って成増まで行き、そこから先の10キロほどの道のりを革靴のまま歩いた。
この間、私がずっと考えていたのは、「原発は大丈夫なのか」ということだった。なので、必死になってその情報をネットで探していた。

12日早朝、とりあえずクルマのガソリンを満タンにした。もし原発に何かがあった場合、水が問題になることはわかっていたのでディスカウントショップへ行くと、安いケースの水が山積みで売られていた。その水を買う人は誰もおらず、私はワゴン車の荷台に載せられるだけの水を買った。

帰宅すると、福島第一原発の状況を知るため、テレビ、ラジオをつけ、さらにネットを見続けた。
すると、午後3時半過ぎ、1号機が爆発をしたというニュースが入ってきて、「これはダメだ」と思った。
この時には「水素爆発」だということがわからなかったが、とにかく破局事故であることは間違いない。

私は書棚にあった『原発事故……その時、あなたは!』を取り出して、書かれていることを実行することにした。
現実問題として子供がいることもあり、即座に移動することは難しかったので、とにかく室内を気密にするため、シャッターのある窓はそれを閉め、そうでない窓には目張りをした。換気扇も濡れたタオルで塞いだ。
子供たちは親が頭がおかしくなったと思ったようだったが、緊張感は最高度に達していた。

【書誌情報】
書名:『原発事故……その時、あなたは!』
著者:瀬尾健
出版社:風媒社
初版情報:1995年6月10日 第1刷
底本情報:1995年8月15日 第2刷
ISBN-4-8331-1038-5

放射能から身を守るには

あれから2年。
昨日、少しだけ見たテレビでは被災地からの中継を各局ともしていたが、原発、放射能についての情報はあまりなかった気がする(あくまでもわずかな印象だが)。
そして、「大震災を忘れてはならない」というフレーズが定型のように使われていた。

たしかに大震災を忘れてはならない。地震、津波の被災地はまだ復興には程遠いのだから当たり前の話だ。
しかし一方で、原子力ムラやメディアは福島第一原発の破局事故を一刻も早く忘れて欲しいと願っている。
なぜなら、その深刻な現状を国民が知ってしまえば、「いったいこの責任を誰がとるのか?」「いま自分たちが住んでいる場所は大丈夫なのか?」「事故は収束していないではないか?」「この処理にどれだけのカネがかかるのか?」「福島第一原発の処理で出てくる放射性廃棄物はどうするのか?」「現在、ある使用済み核燃料はどうするのか?」、、、とありとあらゆる疑問が噴出するからだ。

こうなれば、原発の再稼働などもっての他という当たり前の結論しか出てこない。
そして、そうなれば電力会社はあっという間に経営危機になり、しかも社会的責任を問われることになる。
それだけはなんとしても避けたいたいがゆえに最大限の努力をしているのが、現在の原子力ムラだと思う。

だからテレビをつければ、まるで世の中には放射能の問題などなかったがごとくバカ番組が作られ、そしてPM2.5に大騒ぎをしている。曰く、「子どもや胎児への影響は?」「農産物への影響は?」
もちろんPM2.5も問題ではあろうが、現に福島を中心に東北から関東までの広い範囲に放射能の被害が及んでいるにもかかわらず、こちらについては「問題ない」という御用学者の見解以外はほとんどお目にかかることはない。

ここで注意が必要なのは、「大震災を忘れてはならない」「福島の現状を忘れてはならない」という言葉遣いそのものだ。なぜなら、そのもの言いがすでに「過去のこと」という認識に基いているのだから。

日本は過去にも地震による多くの災害に遭遇してきたが、そのたびに復興してきた。つまり地震国であるがゆえに、これを克服する能力が非常に高い。
ところがこのたびはそこに前代未聞の放射能災害が加わっており、しかもそれが現在も進行している。これが復興をとてつもなく難しいものにしている。
つまり福島第一原発事故は、何も終わっていないし、過去のことでもない。

過去、この状況に類似したケースは歴史上一件のみで、それは旧ソ連のチェルノブイリ原発事故だが、このソ連という国家はチェルノブイリ事故(1986年)から5年後の1991年に国家そのものが崩壊してしまった。
私はこの件について、昨年、小出裕章先生にお目にかかった時に質問をしてみた。すると先生は「ソ連の崩壊には複合的な要因があるだろうけもども、チェルノブイリの重荷は必ずあったはずだ」とおっしゃった。
つまり、原発の破局事故というのは、国家体制を壊すだけの破壊力があるのである。

もちろん、旧ソ連と日本では条件が異なるという意見もあるかもしれない。
が、とても似ている側面もある。

・誰も通らない裏道
北朝鮮についての続き(2006/10/27)

まして日本は1号機~3号機までがメルトスルーして、溶け落ちた核燃料がどこにあるのかもわからない。4号機には大量の使用済み核燃料が厳しい環境のなかで取り残されている。
日本政府は溶け落ちた核燃料も取り出すといっているが、おそらく50歳を超えた私が生きているうちに、それを見ることはないだろう。
そして放射能の影響は万年単位で残る。

これだけの事故が起きながら、福島第一原発の処理は万事うまくいき、放射能の影響など国民にはまるでなく、原発を再稼働してそこからさらに生み出される使用済み核燃料はずっとずっと永遠に安全に保管できてなんの問題もない。そしてこれからも力強い経済成長を続け、2020年には東京でオリンピック開催!

などというストーリーは、到底起こり得ない荒唐無稽なものだと私は思う。
そしてチェルノブイリ事故の事例に鑑みれば、日本にも必ずなにがしかの大きな変化が起きると思うのである。
では何が起きてどうなるのか? これは知る由もないが、厳しいなかでも少しはマシになるのか? あるいはさらに悪くなるのかは、残された時間の過ごし方にかかっていると思う。

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2012/11/28

早速、嘉田新党の小沢合流を揶揄する天声人語

いつも愛聴している「久米宏ラジオなんですけど」(TBS)には、一つだけ不愉快なことがある。
それは、スポンサーの一つである朝日新聞のCMが流れることだ。
私は放送を生で聴くのではなく、録音して夜、ウォーキングをしながら聴くので、そのCMをスキップできない。
天声人語の一部分のナレーションが流れた後に「朝日新聞の1面コラム天声人語」と言って締めくくられるこのCMはいくつかのパターンがあるのだが、その内容がどれもこれも陳腐である。
こんなくだらい駄文を書き写すためのノートまで販売している会社というのは、どれほどいかがわしいかと思う。
ということで本日の天声人語。

 電卓をたたいて、意外に小さいと思った。滋賀県の面積に対する琵琶湖の割合である。県地図に開(あ)く青い大穴は3割を占める趣なのに、実は17%弱。淀川流域1500万人の水を賄う存在感が大きく見せるのだろう▼水がめの番人、滋賀県知事の嘉田由紀子(かだゆきこ)さん(62)が、卒原発を掲げて「日本未来の党」をつくる。京大在学中から琵琶湖を愛する環境社会学者でもある。若狭湾の原発群で大事故があれば、水源が汚染されるとの危機感が原点にあるらしい▼脱原発を訴える各陣営で、発信力が高そうなのは日本維新の会の橋下徹氏だった。ところが、石原慎太郎氏を代表に迎えるにあたり、橋下氏の歯切れは悪くなる。「仲間を失った」という思いが、嘉田さんの背中を押したようだ▼新党の動きに早速、小沢一郎、亀井静香、河村たかしの各氏ら、ひと癖ある政治家が呼応し始めた。誰の仕掛けか、生臭くもある。衆院選公示まで1週間、どこも「政策より議席」の実戦モードに入った▼雨後の竹の子の第三極はこれで、「強い日本」を志す維新の会と、嘉田さんを顔に、脱原発で手を握るグループに大別される。彼女が言う通り、福島の事故を受けた初の国政選挙で、原子力の未来がとことん論議されないのはおかしい▼かなりの国民が原発からの卒業を望んでいる。しかし、このまま票が分散しては、思いが政治に伝わらない。関西発が続くが、永田町の力学を離れて選択肢が増えるのはいい。琵琶湖が結ぶ絆も、その一つである。
(※太字はブログ主)

検察のシナリオに乗って3年以上にわたって小沢叩きを続ける、歴史的な政権交代における公約を破って正税増税を言い出した勢力を後押しし、この法案成立を「成果」と評し、挙句の果てに自分たちは消費税増税から除外しろと言う、福島で「放射能の影響はニコニコ笑っている人には来ない」などという大与太話をばらまいている人物に「がん大賞」を授与する“生臭い”会社の名物コラムがこれから選挙終了までどんな書きようをしてネタをくれるのか、実は私は結構楽しみにしている。

※昨日はTBSの杉尾秀哉も早速、面白い発言をやらかしたらしい。その話については、今晩会う友人ブロガーに聞く予定。

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2012/10/22

日本の国策は「国民があきらめて忘れる」こと

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 おれ、日本の政治と一緒だと思っているんだ、ここ数十年の球界というものは。政治家は、人から信任されて、政治家になる。だったら、この国家危急存亡のときに休んでいる暇なんてないだろうって思う。国会? 休会している場合じゃないだろう。この国をよくするために、変えるために、あんたら毎日働かなきゃいけないんじゃないのか。土日返上して、毎日会議やって、一日でも早く法案を通さないかんだろう。世の中が望んでいるのだから、しかるべく結論を出して実行実現させなきゃいかんじゃないかと。それがどうだい、一年のうち決められた日数しか、国会、やらないでしょう。それと野球界は、一緒だな。絶対変わらない。命がけで変えようと思っている者がいない。これは政治でもそうだと思う。それよりもっと野球界はひどいんだもん。変わるわけないよ。

(「新潮45」2012年5月号『オレ流「プロ野球改革論」落合博満vs.坂井保之』より落合の発言)
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10月20日の日経朝刊4面、『首相の「ビタミンC」 藤井氏の助言、効果いつまで』と題された「聞き耳そば耳」というコラムに以下のような箇所があった(下線部はブログ主)。

 消費増税関連法の成立後、次の政策目標を明確に打ち出せない現在の野田政権には停滞感が漂う。藤井氏が最近、首相に熱心に伝えているのは衆院の「1票の格差」の是正。「違憲状態」という最高裁の判断を踏まえ「憲法違反の首相にはなるな」と繰り返す。首相を支えてきた藤井氏の強気の助言は、今後も実を結ぶだろうか。

サラッと書いてあるけれども、この部分(とくに下線部)を読んでのけぞった。
いま、日本では未曾有の放射能災害が進行している。福島県を中心に広範な地域で高い放射線量が観測される一方、海洋汚染も激しく、一次産業は大変厳しい状況に陥っている。しかもこの状況は今後もずっと続く。
大震災からの東北地方の復興もままならず、一方では復興のための予算がまったく関係のないところで使われているという体たらくだ。
難問山積の上に国家の基本的なタガが緩みきっている。にもかかわらず野田政権は消費増税を成立させると次の政策目標がなく停滞している、つまりやることがなくて手持ち無沙汰だというのである。
なんという呆れた政権だろうか。

私は小出裕章先生同様、原子力発電に絶対反対の「反原発」だが(「脱原発」ではない)、この国では着々と原発再稼働が目論まれつつある(日経は19日の朝刊1面で「CO2排出 原発停止で増」、21日の朝刊1面では「電力5社 値上へ 原発停止で燃料費増加」と連日のごとく「再稼働脅迫」に必死だ)。
そこで百万歩譲って再稼働を認めたとしても、その前提として最低限、稼働した原発から出てくる放射性廃棄物の処理方法は国家として確立されていなければならない。
消費税増税の時に、あれだけ「後世にツケを残さない」と主張したのだから、同じように原発から出る放射性廃棄物の処理について、その方法、処分地の一切を後世に丸投げするなどということはあってはならないことだ。
現世代がそれを確立し、その責任の所在、つまり誰がそれを決定したのかを明確にしておく必要がある。
原発を再稼働したいのなら当たり前のことだが、野田政権はそれに取りかかる素振りすらない。
それどころかすべてをなし崩しで進めていく。

私は最近思うのだが、なぜ政府は瓦礫の拡散をしたがるのか。つまり彼らは放射能を全国にバラ撒きたいのだ。
では、なぜそんなことをしたいのか。つまるところ原発の破局事故とガンの増加という因果関係を消しにかかっているのではないだろうか。

福島で中川恵一という東大准教授が「現在の福島の放射線量は、世界的に見ても決して高くない。安心してほしい」「チェルノブイリでも、これ以外のがんは増えたというデータはない。それから考えると、福島でがんが増える理由はない。君たちは、安心して結婚して子どもを産んでいいんです。おかしな情報に惑わされないようにしてほしいと思います。」「けれども、それとは関係なく、すでに日本は2人に1人が、がんになる世界一のがん大国です。」と言い放ったそうだ。

ドクタービジット 放射線、正しい知識が味方

確かに元々日本というのはがん大国だ。これにはさまざまな複合的要因があるが、日本には国家の基本政策として企業の効率、収益を国民の安全、健康に優先するという思想がある。つまり、たとえば食品であれば安全基準を下げることによるコストダウン、企業の収益が国民の健康よりも優先されるのだ。
一企業だけがこれをやれば、食品と病気の間の因果関係がハッキリするが、なにしろ国を挙げてやっているからその因果関係を立証することは不可能である。

これと同様、瓦礫を拡散し、あるいは野菜や魚の安全基準もどんどん下げて流通させることで、放射能と健康の目に見える因果関係を砂にまぶすように消していく。そうして責任の所在をすべて曖昧にしてしまおうというのが、国と原子力ムラの基本戦略だと思う。
まったく恐ろしい国だが、これは次の選挙で政権が交代しても変わらず、むしろ自民党が中心となった政権ができれば、ますますその方向へドライブがかかっていく。かといって民主党でもお話にならない。

かつてソ連という国家は1986年に起きたチェルノブイリの事故から5年後の1991年に崩壊した。
先月、9月11日に小出裕章先生にお話をうかがった際、私は先生に「日本の5年後はどのようになっていると思われますか?」と訊いてみた。↓の動画はこの質問に対して小出先生が答える部分である。

小出先生は言う。
「(国家から見捨てられた人々は、放射能の)恐怖を持続できない」
私もそうだと思う。
だからこの国の権力者や原子力ムラは、国民が「あきらめて忘れる」のをひたすら待っている。

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2012/07/20

資本主義の精神がない日本の電力会社に、
原発を運転する資格はない

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 私はプロテスタンティズムの倫理のようなものがベースにないところで、経済活動が市場のメカニズムに任されると弊害があまりにも大きくなると思っている。

 というよりも、そもそもアダム・スミスが「神の見えざる手」による予定調和を考えたときに倫理が暗黙の前提にあったのではないか。

 その暗黙の前提に違反した人びとが大量に出始めたのが、今の日本の資本主義社会である。

 私はプロテスタンティズムの倫理のようなものがベースにあって、競争主義、成果主義というのは良いと思うが、そうしたベースのないところで競争主義や成果主義は、人の心を破壊する。
 もちろんあくまでもプロテスタンティズムの倫理のようなものであって、何もプロテスタンティズムである必要は全くない。
 仏教でも神道でもイスラム教でもヒンズー教でも、宗教でなくてもなんでもいいから「精神的なもの」という意味である。

加藤諦三 著 『誰も書かなかったアメリカ人の深層心理』 より


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 現代日本は、機能集団が同時に運命共同体としての性格を帯び、かかる共同体的機能集団の魔力が、日本人の行動を際限もなく呪縛することになる。

小室直樹著 『危機の構造』 より
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エネルギー政策意見聴取会で、電力会社の人間がノコノコと出てきて「会社の方針」を喋ったことが大問題となった。
この意見聴取会は、2030年時点での原発依存度を0%、15%、20~25%という3つの選択肢を示して、それぞれの選択肢から抽選で各3人づつが意見を述べた。そのうち20〜25%の選択肢を支持する発言者のなかに電力会社の人間がいたという。彼らは真顔で「選ばれた」と言い、しかも複数の会場で同じ有様だったというのだから、要するにそんな選択肢を支持しているのは、もはや原子力ムラの人間だけということなのだろう。

それにしてもこれが「やらせ」であることは間違いない。
そして、当然のごとくというか、さすがにというか、この「やらせ」に対してはメディアからも批判の声が出た。
私ももちろん腹は立ったが、しかし怒りが爆発するほどではなかった。
なぜなら、原子力ムラの連中であれば、このぐらいのことは朝飯前のこと、いつもやっていることに過ぎないからだ。
当ブログでもかねて電力会社こそは第一級のデタラメ企業であると主張してきたが、およそ原子力発電の歴史というのはウソとデタラメと差別の連続で、それをカネの力で隠蔽することだけで成り立ってきた業界である。

いまになって志賀原発の真下に活断層がある可能性があるなどというニュースがメディアを賑わせているが、そんなことも以前からわかっていたことだし、それをいうなら伊方原発の目の前にだって活断層はある。はたまた東海地震の予想震源域の真上に位置しているのが浜岡原発だ(というかそんな例はまだまだ山のようにある)。

そういう事実に一切目をつむり、ひたすらにカネ儲けを優先した結果として起きたのが、福島第一原発の大破局事故である。にもかかわらず、それを推進してきた連中が、自らの体質を一つも反省するでもなく、戒めるでもなく、原発再稼働、再推進に猪突猛進している。

今週は大飯原発4号機が臨界に達したというニュースがあったが、3号機を再稼働する時、会見に臨んだ関西電力副社長の豊松秀己は、「アメリカでは(原発の運転年数は)60年がスタンダードとなっている」強調していた。つまり自分たちも同じように60年運転したいということなのだろう。

もともと原発というのはアメリカから輸入した技術であって、「アメリカがそうなのだから、日本でもそうしたい」というのが原子力ムラの連中の言い分だ。
私はアメリカという国は好きではない。まして原子力産業というのは、どこの国においてもそれ相応にいかがわしい。
したがってアメリカにおいても原発を60年も運転することはあってはならないと思うが、しかし少なくとも日本に比べればアメリカの原発が事故を起こす確率は相当に低いのではないかと思う(もちろん、過去にスリーマイルの事故を起こしてはいるが)。
なぜなら、かの国には原発を開発、運転する上で最低限の倫理、モラル、ルールを遵守する精神が宿っているであろうからで、少なくとも日本の原子力産業のように1から10までデタラメをすることはできないし、やるつもりもないだろう。

ここで話は少々脱線するが、戦後、日本が奇跡的な経済復興を果たした最大の原動力は、いわゆる「日本的経営」にある。国中が上から下まで経済第一主義一色に染まり、ひたすら効率が優先された。そのため歯車である社員は信じがたい量の残業(それも往々にしてタダ働き)をした挙句、過労死しても労災はめったに認められず、裁判に訴えても司法はどこまでいっても企業の味方である……。
この社会システムに支えられた「日本的経営」は一時、世界から注目を集めてずいぶんと研究された。しかし結局のところ、「日本的経営」とは特殊な先進性であり、世界の国々が真似できるような普遍性を持っていなかった。

その一例を挙げると──。
かつてトヨタ自動車は、土日の電気料金が安いということで、週末を出勤日にしたことがある。一銭でも製造コストを下げて利益を追求するという姿勢は資本主義の行動様式として間違いではない。だが、普通の国では週末は家族と共に過ごし、教会へ行くのであって、たとえモノを安く作れるからといってその大切な週末を会社に捧げるなどというのは、理解の範疇外にある。
ところが、そういう常識、暗黙の前提を一切無視して、ひたすら効率優先(=人権無視)でカネ儲けをしようという国が現れた。それが日本だったわけだ。

そこで原発に話を戻すと、アメリカが原子力発電の技術を開発していく上でも、やはり暗黙の前提はあったのだと思う。つまり、日本ほどデタラメ放題に、モラルも倫理もかなぐり捨てて原発を推進・運転するという想定は、原発を開発した当のアメリカにもさすがになかったのではないだろうか(もちろん、原発は核兵器開発と密接不可分な関係にあるわけで、その部分を含めた倫理についてはアメリカも日本も同じだが)。
そして、そういう暗黙の前提の上に、原発の技術が成立しているのだとすれば、そもそもその前提を持っていない日本では、アメリカと同じような原発の運転はできないことになる。
というよりも、資本主義の下での最低限必要なモラルやルール(いわゆる資本主義の精神)をまったく持ち合わせていない原子力ムラの人間には、こんな危険な技術を扱う資格はそもそもないと私は思う。

もう十年以上前のことだと思うが、慶大教授の金子勝と木村剛(その後、逮捕されたが)の対談を読んだことがある。新自由主義の信奉者と反新自由主義の学者の対決はさぞや激しい論争になったかと思いきや、意外にも意見が一致していた。
その一致点を突き詰めると、要するに「日本の企業は、せめてアメリカ並にルールを守れ」ということだったと記憶している。

私は京都大学の小出裕章助教と同じく、「すべての原発を一刻も早く廃炉にすべきである」という論者だが、それはそうとして、まず電力会社はあらゆる面で、せめてアメリカ並にルールを守るべきだと思う(おそらくそのルールを適用した段階で、日本の原発のほとんどは止めざるを得なくなると推測する)。

とここまで書いて思い出したのだが、、、
私が編集者として最後に作った本は田原総一朗と木村剛の共著で、タイトルは『退場宣告 居直り続ける経営者たちへ』であった。
そして表紙には、タイトルとともに以下の英文が入っていた。

Why Are They Still Here?

なんだか出版から十年を経て、時宜に合っているような、、、

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2012/06/22

小沢一郎が霞が関独裁の逆鱗に触れた理由

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 2011.1.21のことである。官僚に優越する政治という、当たり前のことが当たり前でなかった現状を批判して民主党が政権を取った基本姿勢、いわゆるマニフェストを菅直人首相は転換した。
 官僚に優越する政治という、従来の民主党の姿勢は行き過ぎだった、と公に表明したのである。むろん政権を取らせた国民への、いかなるエクスキューズさも含まない公然たる裏切りである。
 わたしもこの裏切りは、現在の政権が成り立った当初から実感していたが、先の八ツ場ダム建設中止の撤回とともに「恭順」はさらに推し進められたのだ。このあざといまでの「反省」は、その露骨な「正直さ」において辟易させられる。
 (中略)
 従来からの官僚独裁は蘇ったのである。鳩山―小沢の首を以て恭順を公にし、自民党と同じ体質の「官僚さまの素直な奴隷」として。もともとそれが、菅政権の本質ではないか。濃厚な疑いはまさに立証された。フェイクとしての一党独裁とは、最終的に政治を、ハンコをつくだけの存在に限定することだ。ナツメロ漢奸菅は、そこに戻った。いまや小沢一郎という「悪」を、自民党と民主党は一致して排外し、お役に立とうと雪崩を打っている。第二の55年体制の発足である。

(岡庭昇著『理不尽』「民主党の漢奸」より)
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 鳩山=小沢で出発した民主党政権は律義に、官僚独裁から政治家の手に政治を奪い返えそうとした。
 だが独裁者官僚が巻き返さないわけはなく、アメリカとも結んで反攻に出た。誰にでも予想がつく成り行きである。手っとり早く経済スキャンダルで、鳩山=小沢を追い落とした後、アメリカお気に入りの漢奸菅と岡田に引き継がせた。だがあまりにも漢奸菅がマスコミに人気がなく、さらにドジョウに首だけすげ変えたのだ。
 この事態でついにマニフェストは死んだ。「政治優先」の残滓もなくなったのを見越して、権力(官僚独裁)はグローバリズムの手先となり国家や民衆を売ったわけだ。そうこよなく明晰なジッチャマは、偏見と独断に満ちて断言する。一党独裁(本当は官僚独裁)は、さらに強力に再生したのである。

(岡庭昇著『理不尽』「売国奴!」より)
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どうやら民主党は分裂するらしい。しかも出て行くのは2009年の総選挙で圧倒的な支持を得た小沢一郎を中心としたグループで、残るのはこの総選挙で歴史的な大ウソをついた野田のグループだという。そして、この連中は、これまた先の総選挙で国民から圧倒的な不信任を突きつけられた自民党と手を組む。
ところが「造反」しているのは小沢グループだとマスメディアは書き立てている。
この光景を目の当たりにして思うのは、日本を長らく独裁支配してきた霞が関の凄まじい力で、私はその威力に慄然とせざるを得ない。

もとより今回の政局は、野田と小沢の対立ではない。
小沢一郎が民主党の代表就任以来、相手にしてきたのは、安倍でもなければ麻生でも菅でも野田でもないく、常にその背後いる霞が関(とそれを取り巻く利権集団)であった。
これに対して独裁権力を恣にしていた霞が関もまた、小沢一郎を最大の敵として認定した。
それはなぜか。
もちろん、小沢が独裁権力の本質を見破っていたことが第一の理由であるが、なによりも彼らの逆鱗に触れたのは、それを「国民の生活が第一」というキャッチフレーズに集約して、わかりやすく国民の前に提示したからではないかと私は思う。
これまで、完璧な言論操作で「日本はいい国だ」と信じ込まされてきた国民は、年金行政などを見るにつけ、薄々ながら「本当はこの国はひどいことになっているのではないか?」という疑念を募らせてきた。そこへ登場したこのキャッチフレーズは、デタラメの限りを尽くしてうまい汁を吸ってきた連中からすれば、世界一おとなしい(飼いならされた)国民に目覚めるきっかけを与えてしまうという意味で、正しく体制の危機だった。
しかも小沢は、せっかく前原が偽メール事件でボロボロにさせることに成功した民主党を瞬く間に立て直し、政権交代を可能にする勢力にまで復活させた。

ここから小沢対霞が関独裁の闘いが始まった。
小沢の狙いは衆議院選挙と参議院選挙に勝ち、真の権力交代、つまり霞が関から国民の代表である政治への権力交代を実現させること。
これに対して霞が関は衆議院選挙を前に小沢を民主党代表の座から引きずり下ろすことに専念し、衆議院選挙の勝利は捨てた。ただし、民主党が衆議院選挙で圧勝したことから、生半可な切り崩しが不可能になったため、参議院はどうしても民主党が負けて「ねじれ」を起こさせる必要があった。
そこで、参議院選挙の前に小沢の代理である鳩山のクビを飛ばし、菅直人を首相にして「消費税」を口にさせることで見事に民主党を沈めることに成功した。

ところがここで予想外の事態が一つ起きた。
それが3.11であり、福島第一原発の破局事故である。
独裁権力にとって傀儡政権とは当然ながらコントローラブルでなければならない。ところが、市民運動上がりの菅は、原発という戦後日本が生んだ最大のデタラメ利権を国民の批判から守るには、あまりに危険な人物だった。
そこでさらに菅を引きずり下ろして登場したのが、100%コントローラブルな野田だ。
この男は松下政経塾という独裁権力の身内出身で、利権集団のためならどんな大嘘でも平然とつけるという人材である。
平時であれば、これほどあからさまな人間というのはかえって使い道がないものだが、原発が3機もメルトダウンして収束もままならず、さらに4号機が危機敵状況にあるというなかでは、徹底的に独裁権力&利権集団に忠誠を誓える人間を首相に据えないと、彼らがこの事態から無傷で脱出できることはできない。
そうして、この野田の一派と自民党の残滓(利権に戻りたくてうずうずしている集団)は結合する。
岡庭氏が指摘するところの第二の55年体制の発足である。
ただ、実は私はこの体制はそう長続きはしないと思っている。
それは、福島第一原発の破局事故が彼らの浅はかな思惑などぶち壊すほどの猛威を、これからも振るい続けることは間違いないからだ。

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2012/06/13

『プロメテウスの罠』の罠

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 日本の国連加盟が、昨年の十二月十八日の総会で決定された直後、重光前外相はとりまく記者団に向ってこう語った。
「満州事変以来の日本の混迷は今日この日をもって終った。これもついに国民の努力の結果である。この事実を基礎に謙虚な態度で過去のあやまちをふりかえり、二度と同じ間違いをしないようにしたいものである」(『朝日』31・12・19・夕刊)
「大日本帝国」最後の外務大臣、ミズーリ号調印式の政府代表、巣鴨のA級戦犯、そして国連加盟を承認された日本の外相と、このあわただしい十数年間それぞれの時期にそれぞれの歴史的な役目を負わされて来た人の言葉として、その中にはたしかに無量の感銘がこめられていたであろう。
 私はこの重光前外相の言葉を率直に受取りたい。しかし、「日本の混迷は今日のこの日をもって終った」という意味が、戦争以来こんにちまでの数々の過失と罪悪を、ここでやっと洗いおとしたというような、そんな生やさしい安堵感のあらわれだとすれば、私はこの言葉を全面的に否定する。それは、昨年あたりしきりとかつぎ出された「もう戦後ではない」という合言葉の裏にひそんでいる責任回避の意識、早く過去の現実からすりぬけたいというあのうしろめたそうな願望に通じるものが感じられるからである。
 とはいうものの、私はやはり重光氏の談話を額面どおり、善意に解したい。とすれば、むしろ今日この日から、「謙虚な態度で過去のあやまちをふりかえり、二度と同じ間違いをしないように……」という言葉にその重心をおかねばならぬ。それは、戦後十一年余の永きにわたって、まったく放置され、あるいは意識的に回避されて来た多くの問題を、この日からあらたな気持で直視し、検討するということであろう。けっして、いい加減に妥協したり、問題の焦点をズラしたりすることですりぬけられてはならない。そして、ここでとらえられたことは、過去がそのまま明日への架け橋としていかされるように提出されねばならないのだ。
 この日から、これだけは正しくはじめられねばならぬ過去の解明──国連加盟を私は、そのような日として明記したい。
    ☆
 私はその一つとして真っ先に戦争責任の問題を挙げる。
 昨年は知識人や文学者の戦争責任がさかんに論ぜられた。それは天皇から共産党まで、徹底的に追究せよという意見から、全くナンセンスだという総無責任論まで、まさに百家争鳴であった。しかし、折から巣鴨を出所した荒木貞夫、橋本欣五郎両氏を筆頭とするA級戦犯が、無謀な戦争指導者としての責任に全く無自覚だといわれたのと比較して、それはともかく真摯な意図によっておこなわれたことだけはたしかであろう。
 ただ私にはどうしても不思議でならなかったのは、知識人や文学者の戦争責任を、絶好の論争テーマとして取上げた新聞・雑誌・放送を含むジャーナリズムの態度である。正確にいうなら戦争責任論と、これを積極的に取上げたジャーナリストの関係についてである。
 ジャーナリストは一体、知識人であるのかないのか。すくなくとも職能的には知識人から除外される根拠は一つもないだろう。あるとすれば、それは次にのべる無責任の意識においてである。
 この一年間、知識人とくに文学者の責任がするどく追究されながら、ついにジャーナリストの責任については全くとりあげられなかった。戦争責任の問題で、文学者のみに追究の鋒先がむけられ、文学者よりはるかに政治に近接し、社会的影響力においても国民大衆と直結しているジャーナリスト(先に挙げた新聞・雑誌・放送関係者を含む)の責任が不問に附されているというバカげた法はない。文学者の戦争責任を“十大論争”などの一つにおさめているジャーナリズム自身は全く無風状態の中にある。つまり、このことは、戦争責任論がジャーナリストたちにとってはたんなる論争か特集記事のテーマにすぎず、しかもこの問題をとりあげている一部の新聞・雑誌編集者を除いて、大部分のジャーナリストにとっては、A級戦犯やパージ解除者にとってと同じように、すでに死語となっているという事実を示している。それは、十年前、各新聞社、雑誌社、放送局を襲った社内民主化と戦犯追放のあらしによって、片づいてしまったものと考えられているのである。
 間違いの出発点はここにあった。言論と報道に携わるジャーナリストの責任問題が、役人や財界人などと同じ目尺で行われた戦後の形式的な責任処理(職階によってきめられたパージ)によって解消されうるはずがない。
 私はジャーナリストなどという漠とした用語で表現したが、それは第一に新聞記者であり、第二に雑誌編集者であり、第三に放送関係者(とくに番組の企画・決定権をもつ者)であり、そして第四にマス・コミに登場する学者・評論家などである。
 横にならべるとこういうことになるが、これは大きく二つに分けられる。つまり、書く者と、書かせる者の立場である。戦争責任追究に則していうなら、新聞や雑誌の上で言論・報道に携わった新聞記者や評論家の責任、それと新聞・雑誌社というマス・コミ機構の内部にあって編集に携わった者、つまり編集者の責任ということであろう。
 ジャーナリストの戦争責任が、この一年間まったく取上げられていない、と私はいった。いや一年間だけではなかった。戦後ただの一度もジャーナリスト自身の問題として自主的に考えられたことはなかったのではないかと思う。
(以下略)

「ジャーナリズムと戦争責任」 丸山邦男 (1957年2月 「中央公論」掲載原稿より)
********************

しばらく滞っていた当ブログの更新を、なんとか元に戻したいと思っております。
この間、コメントをいただいたみなさま、公開もせずに申し訳ありませんでした。お詫びいたします。

それにしても、このひと月の間も世の中は順調に悪くなっている。
大飯原発を再稼働するという。「最終責任者は私だ」と総理大臣なる男はのたまった。
この男は、政権交代が実現した前回の歴史的な総選挙の際、「消費税増税をする前にやることがある。公約しないことはやらない」と大見得を切った。しかし、これは大嘘だった。
そして、福島第一原発の事故は収束したという、子どもでもわかる大嘘をついた。
歴史に残る二つの大嘘をついた男の言葉を信じるほど、私はお人好しではない。
福島第一原発の破局事故では、未だ誰一人として責任を取っていないわけだが、そういえばこの男は、「福島第一原発事故の個人の責任は問わない」旨の発言をしている。つまり、今後、再稼働した原発で事故が起きたとしても、端から責任をとるつもりなどないのだろう。

自分たちが起訴できなかった総理大臣の有力候補を何がなんでも法律には素人集団の検察審査会で起訴させようと捜査報告書を捏造し、目論見通りに起訴することに成功した集団がいる。マスメディアが「史上最強の捜査機関」と絶賛してきた東京地検特捜部だ。
検察審査会制度の良し悪しは別として、まったくもって市民をバカにした、コケにしきった話であり、法治国家の枠組みをぶち壊すおそるべき犯罪集団である。
ところが彼らの身内である東京地検特捜部の元部長によれば、こんなことは「小さなこと」なのそうだ。つまりこの程度のことは日常茶飯にやっていることで、もっと大きなことをいくらでもやっているということだろう。はからずもそれを告白してしまったわけだが、なるほどその結果がロッキードであり、リクルートであり、鈴木宗男であり、福島県知事、、、ということか。

とはいえ、当然のごとく疑問をもった市民団体が、この犯罪集団を告発した。ところが彼らは自分たちの手で捜査をして、近日中に不起訴の結論を出すという。近所の独裁世襲国家も腰を抜かし、尻尾を巻いて逃げ出すような話である。
さして有能とは思えない元検事の法務大臣が、さすがにこれではいかんという認識のもと、指揮権を発動するべく総理大臣相談したら、法務大臣はアッサリと更迭された。

・現代ビジネス
「指揮権発動について再び首相と会う前日に更迭された」、「小沢裁判の虚偽報告書問題は『検事の勘違い』などではない!!」小川敏夫前法務大臣に真相を聞いた

すでに少なからぬ人が忘れてしまったと思うが、菅内閣時代に柳田という法務大臣がいた。彼はマスメディアが言うところの「失言」で更迭されたが、実は至極真っ当な検察改革をしようとしていた。
ところが、さして問題とも思えない発言をメディアが針小棒大に取り上げて、あっという間に更迭されてしまった。

ついでに言えば──。
野田内閣発足時には鉢呂という経産大臣がいた。どうしようもない顔ぶれの内閣にあって、原発に対して比較的まともな認識を持つ人物であったが、この鉢呂もマスメディアが騒ぎたてた「失言」によってあっという間に更迭された。

・誰も通らない裏道
鉢呂辞任と柳田辞任の共通点

その後任には何の批判もなく、3.11当時の官房長官で、驚くほど多くの人びとに無用な被ばくをさせてしまった犯罪議員が就任した。この男は「ただちに影響はない」との詭弁を弄して国民を騙し続けていたが、先月末に行われた国会の事故調査委員会で「炉心も溶けているし、漏れているのはあまりにも大前提で、改めて申し上げる機会がなかった」とのたまった。

・痛いニュース
枝野官房長官(当時)「メルトダウンは分かり切ったことで言わなかった」

唖然とする発言で、即刻、経産大臣という役職を剥奪すべきだと私は思うが、先の内閣改造でも留任し、野田とともに大飯原発再稼働を推進する中心人物として居座っている。
思うに、野田、枝野、細野など、大飯原発再稼働を目論む連中は、しきりに大飯の安全性、健全性を強調するが、そもそも彼らの頭の健全性が失われているとしか言いようがない。

さて──
すっかりマクラが長くなってしまったが、、、(久しぶりのブログ更新であるとともに、先日、柳家小三治師匠の独演会を堪能したためか)。
本日、書きたかったのは朝日新聞が「好評連載」と胸を張る「プロメテウスの罠」についてだ。

私は朝日新聞の購読者ではないのでこの連載を読んでいなかったが、先日、単行本を読む機会があった。
連載直後から、ネットでも少しく話題になっていたので、期待して読み始めたのだが、冒頭部分からすでに大きな違和感を抱かざるを得なかった。
この本の「はじめに」にはこう書かれている。あえて全文を掲載してみよう。

********************
 はじめに

 2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故──いわゆる「3・11」は未曾有の衝撃を日本社会に与えました。
 物理的被害の甚大さだけではありません。私たちが長い間「安全」と信じようとしてきたものが一瞬にして崩れ去り、社会の大前提が根っこから揺らいでしまいました。言い古された言葉を使えば「安全神話は崩壊した」のです。とりわけ原発事故は衝撃的でした。放射能汚染が明らかになるにつれて、私たち一人ひとりの心に「何を信じればいいのか」という不安と「どうしてこんなことになったのか」という疑問を広げてきました。
 報道現場も例外ではありません。いや、より深刻でした。事故の実態をまず追わねばならなかった現場では、現に起きていることの情報すら希薄でした。不安におののく被災者、右往左往する政府や東電関係者を尻目に、汚染は福島県から県外にと広がり続けました。記者たちは「どうして」を自問しながらも、ただただ「何が起きたのか」を求めて走り回るほかありませんでした。それでも全貌をつかむことが到底できない、腹ふくるる日々だったのです。
 ひと月ほどして私たち朝日新聞は、あの時、福島で日本で何が起きていたのかにもう一度肉薄し、同時にどうしてそうなってしまったのかに迫る長期連載を構想し始めました。事実を丹念に追うなかで、この世界史的事故の意味を問いたいと考えたからです。
 原発は、戦後の日本が国策として決断し衆知を集めて作り上げ、万全の危機対策も誇ったはずの造営物です。電力は社会の近代化や成長の源であり、原発はまさに人々の生活を豊かにするために作られたはずです。
 だが事故は防げず対応はもたつき、原発は人と社会に刃を向けました。原発の意味と歴史を知る私たちは、単に「人知の限界」「想定外」として済ますことはできません。科学技術への姿勢、政策決定の仕組み、政治や世論のあり方など戦後の日本社会の体質にも切り込まねばならないだろうという予感に満ちて、取材は始まりました。
 原子力はときに、人間に「火」を与え文明をもたらしたとされるギリシャ神話のプロメテウスにちなみ「プロメテウスの第二の火」と形容されます。
 この火はしかし、人々の生活にいったい何をもたらしたのか――
 連載『プロメテウスの罠』は、2011年10月から朝日新聞紙上でスタートしました。分かりやすく事実をもって事態を語らしめようと、出来事の細部に徹底的にこだわりつつ、ほぼ連日の掲載を続けています。本書はその冒頭、第6シリーズまでの内容の書籍化です。
 本書を通じて私たちの思いが伝わり、読者の皆さんがまだまだ続く朝日新聞紙上での連載にも熱いご声援を送ってくださることを願ってやみません。

  二〇一二年二月
    朝日新聞社 編集担当 吉田慎一

※下線はブログ主
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ありていに言えば、この「はじめに」を読んだ時点で、私は「こりゃダメだ」と思った。
なぜなら、この記者がア・プリオリに信じていた前提にこそ、日本の原子力産業の本質的な問題が潜んでいるからだ。
『言い古された言葉を使えば「安全神話が崩壊した」のです。』だって?
そもそもそんなものは存在しなかったんだよ。
それは推進派を含めた原子力に関わるすべての人が知っていた。だからこそ原子力ムラの連中は莫大なカネをかけて「安全神話」をでっち上げたのである。そしてメディアはこの工作に深く関与していた。
にもかかわらずこの記者は、「安全だと思っていたらこんなことになってビックリ仰天した」という立場に立っている。
これは、戦争中にさんざん大本営発表を垂れ流していたメディアが、敗戦を迎えて「日本は勝つと信じていたのに、まさかこんなことになるとは思わなかった」と言っているようなものではないか。

ただ、ここで思うのは、この記者が本当に単純に「安全神話」を信じていのかもしれないということ。だとすると、つまり朝日新聞社という会社は、原発の安全神話を疑うようなタイプの人間は採用していないのかもしれない。
そう考えると、記者クラブに所属して発表情報を何の疑念もなく垂れ流し続けるこの会社の体質(検察にしても原発にしてもみんなそうだ)も理解できる。要は、朝日新聞記者たる者、本当の権力に対しては疑問なんて持ってはいけないということなのだろう。

そして、この記者は「右往左往する政府や東電関係者を尻目に、」と書く。
確かに東電の現場は右往左往していただろう。しかし、では経営トップはどうだったのか。彼らはどのように動いていたのか。これを検証することこそ、福島第一原発の破局事故でもっとも重要な点であると私は思う。
なぜなら東京電力は史上稀に見る犯罪企業なのだから。
おそらく──
東京電力で経営責任を負う人々は、自分たちに火の粉が降りかからぬよう全力で情報を操作し、危ない証拠を隠滅し、あらゆる方面に圧力をかけただろう。東電の経営トップが事故後、どのように動いていたのか? そこに斬り込まなくて、何がジャーナリズムなのか。

「だが事故は防げず対応はもたつき、原発は人と社会に刃を向けました。」

たとえば、もしジャーナリズムが本来持っていると想定される使命をきちんと行使して、原子力産業を取材し、批判していれば、これほどまでの破局事故は起こらなかったと私は思う。ところが、実際には多くのメディアが、それも大きいメディアほどが、原子力産業とがっちりスクラムを組んで、「安全神話」の構築にせっせと汗を流してきた。そのジャーナリズムの責任を丸ごと抜け落とした上で、「原発は人と社会に刃を向けました」などと書くのは噴飯ものである。

「原発は、戦後の日本が国策として決断し衆知を集めて作り上げ、万全の危機対策も誇ったはずの造営物です。電力は社会の近代化や成長の源であり、原発はまさに人々の生活を豊かにするために作られたはずです。」

こういう文章を書く人間に、私はジャーナリストとしての資質があるとは到底思えない。
なにしろ、私のような素人でさえ、ちょっと調べれば原発の危機対策などほとんどなかったことなど知っている。この国では原子力災害は起きないことになっていたから、その対策など必要ないというのが基本スタンスだった。そして、コストアップの要因になる安全対策をどんどん切り捨て、そのかわりに「原子力は安全だ」という宣伝に莫大な予算を投入したのだ。

「科学技術への姿勢、政策決定の仕組み、政治や世論のあり方など戦後の日本社会の体質にも切り込まねばならないだろうという予感に満ちて、取材は始まりました。」

それほどの「予感に満ちて」いるのなら、まず自社の広告局へ行ってグループ全体で電力会社や電事連といった原子力関係のクライアントから過去から現在にいたるまで、どれだけの広告予算をもらっていたかを調べて発表するべきだろう。原子力産業を語る上で必要不可欠なのは、メディアとのつながりであり、それこそが「戦後の日本社会の体質」なのだから。

「本書を通じて私たちの思いが伝わり、読者の皆さんがまだまだ続く朝日新聞紙上での連載にも熱いご声援を送ってくださることを願ってやみません。」

繰り返して書くが、自分たちの責任をまったく棚上げどころか「ないもの」として、「熱いご声援を送ってくださることを願ってや」まないというこの認識は、見当違いもはなはだしい。
そして私は思うのである。この「プロメテウスの罠」という連載は、そもそも朝日新聞が自らの責任から目をそらすための「罠」なのではないか、と。
もっともこれは今に始まったことではなく、それが日本のマスメディアの体質であることは、最初に引用した丸山邦男氏の文章が、今読んでもまったく古びていないことが証明している。

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2012/05/25

戦争中より悪い時代

********************
 昭和19年、1944年も11月に入ると、毎日B29が一機ずつ東京上空に現れるようになった。ぼくは始めて飛行機雲というものを見た。高射砲が打ち出したが、米軍機のはるか下で砲弾が爆発するのか、白煙が綿のように浮かぶだけだった。
 授業中に空襲警報がなれば、授業は中止、そのまま下校ということになる。そして東京大空襲になる。ここでは、その詳しい経験は省くことにしよう。
 真夏の農村での麦刈り、田植えの動員から帰って間もなく、とうとう理科の学生も通年動員されることになった。その間に広島・長崎に新型爆弾が落ち、ソ連が参戦した。ぼく達は8月15日の午前8時か9時に立川の中島飛行機製作所に集合するはずだった。下宿が罹災したため、一時ぼくの家にいた友人と相談して、正午の天皇の放送を聞いてから立川に行こうということにして、天皇の放送を聞いた。聞き取りにくかったが、とにかく戦争が終わったことだけはわかったから、立川に行くことをやめた。一日二日して、友人は切符を手に入れて、郷里に帰っていった。
 ぼくはラジオから流れる天皇の声を聞いて、日本の敗戦を悔やむ、悲しむという気持ちはまったく起こらなかった。むしろ初めて聞く天皇の声、敗戦の弁のヘンなアクセントにびっくりした。まるで神主が祝詞を読むようだとおもった。天皇は神だと教えられてきたけど、ナーンダ、神主じゃないかとおもった。
 ぼくも King's English という言葉を知っていた。イギリスの王室は一番美しい英語を話すとを教えられていた。日本の天皇も一番美しい日本語を話すのかとおもっていた。ところが、そうではなかった。むしろ滑稽だった。その後の天皇の国内巡幸の際の国民と話す言葉をラジオで聞いても、その滑稽感はかわらなかった。そして、天皇という憑き物が落ちてしまった。
 戦後は大詔奉戴日もなくなったし、皇居や靖国神社の前を電車が通っても、黙祷はしなくてすんだ。ある政治学者が書いたように、ぼくも戦後は明るかったと実感している。それは天皇制の重しがとれたせいだろうと、ぼくは考えている。

京谷秀夫著 未公開未完原稿 「経験としての天皇制」より
********************

しばらく当ブログの更新が滞ったのは、父親が急逝したからである。
1925年(大正14年)生まれの86歳。
死去当日まで元気で、朝食を「食べ過ぎた」というぐらいに食べ、先月から始まった人工透析のために自宅である団地の一室を出て、9階からエレベーターに乗った直後に倒れ、7階から乗って来た人に発見された時には、すでに意識はなかったという。
なんともはや、急な出来事だったけれども、よくよく考えてみれば、見事な大往生。
ボケの「ボ」の字も、闘病の「と」の字も(透析は始まっていたが)、介護の「か」の字もなく、高い知性を維持し、亡くなる日まで難解な本を読み、ドイツ語の単語をノートに書き連ねてその意味を書き記していた。

大学を卒業したのは1950年で、その年に中央公論社に入社。
「君のお父さんが中公の入社試験を受けた時に渡辺恒雄も受けて落ちた」という話を少し前に聞いて、「まあ、年恰好は似てるけど、冗談だろう」と思っていたが、どうやらこれは本当らしい(ナベツネの読売入社も1950年なんですね)。
以後、13年間、中央公論社に在社。
第一回の中央公論新人賞を担当。この時の受賞者が『楢山節考』の深沢七郎氏だった。
当時の「中央公論」は今とは真逆のいわゆる戦後民主主義、進歩主義の牙城で、その編集部内の中心の一人だったらしいが、「風流夢譚」事件で編集部は瓦解。以後、中公は路線を大きく変更する。

と、まあそんな経歴の父親であったが、その彼が最晩年に言っていたのは、「今は戦争中より良くない」ということだった。

先日、瀬戸内寂聴さんが経産省前でハンストを行った時、彼女は以下のように言ったという。

「日本は原爆を2度受けてて、わたしが生きてきた90年でね、こんな悪い時代はなかった、って言っているの。戦争中の方がね、まだ、ましでしたよね。恐ろしい国ですよ、滅びつつありますよ、これから生きていくね、若い人とかね、子どもたち、生まれてくる子はどうするんですか?と、どうやってそれをね、平気で恐ろしい国に渡せるんですか?
だから、それはとてもね、今悪い状態ですね。それをどうして政治家が感じないのかがね、本当に鈍いと思いますね。だって今の政府が再稼働をしようとしているんでしょ?
ドジョウはそんなことしませんよ。本当のドジョウは。もう、政府がけしからんと思っています。」

これに対して江川紹子氏は「兵士や軍属など約230万人が戦死し、80万人の一般市民が空襲などで命を失った戦争中の方がましだった、という発言は残念…というか、ダメだと思う」とツイートしたそうだ。

・日々坦々
「江川紹子 VS きっこ大バトル」のきっかけ・・・きっこ氏は100%理解でき、江川氏は1%も理解できなかったという上杉隆氏のツイート「ひばくなう」の真意!

確かに第二次大戦における国内の死者数、そして加害者として近隣諸国の人びとを殺害した、その死者数は現状、原発事故の比ではない。
だが、誤解を恐れず、かつ大幅に端折って言えば、しかしその後、日本も近隣諸国も復興することができた。
確かに戦争というのは根本的に誤りだが、しかしどこかの時点でそれは終らせることができる。
ところが、放射能による災害というのは、ほとんどエンドレスで末代にまで重大な影響を与えるのである。

私の父に言わせれば、当時、どんなに政府が大本営発表を垂れ流しても、実際には「これは負けるのではないか」と内心で思っていた人も少なくなかったはずだという。
これは以前にも当ブログで書いたことだが、彼は1945年8月15日は「終戦」でいいと言っていた。なぜなら、あの時はもうなんでもいいから終って欲しかったわけで、その気分に「終戦」という言葉は合っている。そして「敗戦」というと、もう一度やって今度は勝ちたいなどという連中が出て来るから「終戦」でいいというのだ。
そして戦後は「明るかった」。
日本は高度成長をして、経済白書には「もはや戦後ではない」という言葉が躍った。

では──
「もはやフクシマ後ではない」という日はいつ来るのか?
これはまったくわからない。
なにしろ、この事故はまったく収束していないのであって、1号機~3号機においては、溶けた燃料がどこにあるのかもわからない。ジャブジャブと水をかけているが、その水がたまる気配はなく、したがってどこかに流出している。
当然、海の汚染も凄まじく、福島を中心に近海の魚介類は壊滅的な打撃を受けている。
そればかりではない。
東京湾においても汚染は深刻化しており、これはまだまだ進行するという。
まさに「江戸前」の危機だ。
そして、日本が世界に誇る食文化を次世代の人びとにきちんと引き継げない可能性が高い。
しかもさらなる問題があって、ボロボロになった4号機には1500以上の使用済み核燃料がある。一応、応急措置はとられているが、もし強めの地震が再び4号機を襲い、建屋が崩壊した場合には、今度は世界を道連れにする可能性が高い。
そんなリスクが現に今、目の前にあるのだ。
そして、これだけひどい状況にありながら、多くの人はメディアが垂れ流す大本営発表を信じて、「もう原発事故は過去のもの」と思っている。
原発の再稼働は着々と進められ、日本の有史以来、最大の犯罪者集団である東京電力は誰一人逮捕者を出すでもなく、電力料金を値上げすると言って国民を恐喝中だが、なにしろ大人しいことにかけては世界一の日本人はさして抵抗することもなく、この値上げを受け入れるのだろう。

この状況をして、90歳の瀬戸内寂聴、そして86歳の私の父親は、「戦争中よりも悪い」という感想を漏らしたわけだ。
私はこの人生の先達による言葉は、誠にもって傾聴に値するものだと思うし、深刻に受け止めなければならないと思う。
にもかかわらず、それを頭から否定してしまう江川紹子という人は、はっきり言ってダメだと思うのである。


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京谷秀夫 著『一九六一年冬「風流夢譚」事件』
著者紹介&立読み版!

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2012/05/08

「こどもの日」に全原発停止
~ 嬉しいけれど、喜べない その2

その1より続く)

1999年9月30日、東海村でJCOの臨界事故が起きた。
この日は中日ドラゴンズがセ・リーグ優勝を決めた日で、私は午後から会社の半休を取って神宮球場へ出かけていたので、事故のことを帰宅するまで知らなかった(当時は携帯でニュースなど見られなかった)。
早速、パソコン通信で情報を確認すると、大変な事故であることがわかったが、ここでもメディアの伝えるニュアンスとパソコン通信から入ってくる情報は相当に異なっていた。

2002年10月、私は勤務していた会社で編集部から広告部へ異動する。
それまで広告に関する知見はほとんどなかったが、営業の現場を経験するなかで、東京電力が想像以上に有力な広告主であることを知った。
私の勤務していた会社は女性誌を中心に発行していたが、たとえば30代以上の主婦向けファッション誌には「オール電化住宅」の広告が入る。しかも、雑誌広告の売上げが落ち込んでいくなかで、定価ベースの広告料金を払ってくれる貴重なクライアントの一つだった。
そして2006年から当ブログを書き始めた私は、以後、原発についてかねて思っていた懸念、あるいは電力会社とメディアの関係を時々、書くようになった。
そうして2011年3月11日に東日本大震災が起きて、福島第一原発は破局事故を起こした。

こんな私であるから、こどもの日に全原発が停止したしたのはもちろん嬉しい。良かったと思う。
だが、手放しで喜ぶ気持ちにもなれないのは、いつ収束するかまったく見当もつかない破局事故がすでに起きてしまったからだ。
福島第一原発1号機から3号機で原子炉から溶け落ちた燃料はいまだにどこにあるのかわからず、それが回収可能であるかどうかもわからない。4号機には莫大な数の使用済み燃料があり、これが強い余震で倒壊するかもしれない建屋の中にある(一応、補強工事はしたが)。
原発周辺に住んでいた住民はもはや帰宅することはできない。
そして──。
日本の法律をきちんと適用するならば、福島のみならず群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京の一部にも放射線管理区域にしなければならない場所、つまり住んではいけない場所がある。にもかかわらず、政府は法律をネジ曲げてしまったため、いまだにそこで多くの人が普通に暮らしている。

そうしたなか、原発推進勢力は産学官報一体となった恐るべき情報コントロールで、なお原発を再稼働させようと試みている。まったくもって原子力ムラの強大さには驚くばかりだが、しかしその彼らをもってしても全原発を停止せざるを得なかった。つまり、福島第一原発の事故はそれほど大きなものだったのだ。

ここで話は突然かわるが、消費税増税を目論む野田政権、そしてそれを後押しするメディアによれば、増税を必要とする最大の理由は後世にツケを回さないためだという。そのためには、消費税の負担増はやむを得ないのだそうだ。

ところで後世にツケを残すという意味では原発ほど莫大なツケを残すものはない。
なにしろ高レベルの放射性廃棄物は十万年、百万年の単位で管理しなければならないのである。
現在、原発各地の使用済燃料プールはすでに限界に近づいており、一方で核燃料サイクルはとっくの昔に破綻している。
今後、原発を稼働すれば、またまた使用済核燃料が出てくるわけで、その持って行き場はすでになくなりつつある。
しかも、これから福島第一原発の処理で膨大という言葉でもまだ足りないほどの想像を絶する放射性廃棄物が出てくるわけだが、これをどこでどうやって管理するのかも定かではない。

一昨日の朝、TBSの「サンデーモーニング」を見ていたら、原発推進派の寺島実郎が「泊は最新鋭の原発で耐震性もしっかりしており、古い原発とは安全性が比較にならない」とういうようなことを力説していた。しかし、たとえ少しばかり耐震性や性能が向上したとしても使用済核燃料は出るわけだし、耐用年数を過ぎた原発は解体しなければならない。つまり、ここでもまた膨大な放射性廃棄物が出てくるのである。
寺島実郎が生きているのはせいぜいがあと二十年ぐらいのものだろうが、問題はその後なのだ。
ただでさえ、現時点で後世に莫大な負債を作ってしまったのに、ここでまた原発を再稼働をすれば、負債がどんどん積み上がるのである。

私に言わせれば答えはすでにハッキリしている。
もはや原発の再稼働は絶対にしてはいけない。
それで電力不足が起きることはないが、百歩譲って電力会社が言うように電力不足で計画停電のような事態に陥ったとしても、それでも原発は稼働してはいけない。
結果、これまでのように経済成長一本槍の路線は変更せざるを得ないが、それでももちろん稼働をしてはいけない。ここまで大きなツケを後世に対して作ってしまったのだから、もはや原発が動かなくてもやっていけるだけの経済規模にするしかない。

もっともその方が社会は成熟すると私は思う。
エアコンの設定温度は上げて、できるだけ我慢すればいい。真夏にどうしても暑くて設定温度を下げたくなったら、テレビを消せばいいのだ。その方がよほど節電になる。だけど高校野球に関心があるというのなら、ラジオを聴けばいいいじゃないか。
スーパーにしてもコンビニにしても、煌々と照明をつける必要はない。昨年は節電で結構、照明を落としている店があったが、私はそういう店へ行くたびに「これで十分だナ」と思った。要はこれまでが明るすぎたのである。
何も電気のまったくない時代に戻るわけではない。ただ一人ひとりが少しずつ我慢をすればいいのであって、その間に新たなエネルギー源、あるいは電池の分野に国全体で投資をしていけば、今以上の成長分野になる可能性は十分にある。

昨日から今日にかけて、テレビは竜巻一色であった。たしかにこの竜巻は凄まじい被害をもたらしたし、死者、けが人が出た。
しかし、誤解を恐れずに言えば、自然災害というものは避けられない一方で、しかしそこから復興することも可能だ。しかし、原発事故による放射能災害というのは、一度起きてしまえば、容易に復興できない。
その災害がすでに日本で起きてしまったことを考えれば、繰り返しになるが原発は再稼働してはいけない。
全原発が停止したのは「こどもの日」。その意味をよくよく考えなければならないと私は思うのである。


誰も通らない裏道 蔵出しエントリー
2007/01/16 「原発は高い」(アル・ゴア)


Small
『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』


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2012/04/14

大飯原発再稼働問題
逼迫しているのはオール電化住宅用の
割引深夜電力ではないのか?

大飯原発再稼働の方針が決定された。
TPP、消費税、原発再稼働、、、
これほどまでに国民に対して挑戦的な政権(=霞が関が扱いやすい)があったろうか。
枝野はこれまで2010年参議院選挙の敗北でも、3.11後の「ただちに問題はない」発言による被ばく者の拡大についても一切、責任を取ることはなかった。
その男が口にする「責任」という言葉は空疎という以外にない。

原発再稼働は、もちろん電力会社の意向である。野田政権はそのためにせっせと汗をかいている。
しかし、いま原発を再稼働すれば、またぞろ使用済み核燃料が大量に出てくる。
核燃料サイクルなんてとっくの昔に破綻しているなか、いったいそれをどこで保管するのか?
まして、これから福島第一原発の処理のために想像を絶する放射性廃棄物が出てくる。それだってどこかに厳重に保管しなければならないのだ。しかも、この処理がいつまでかかるかは誰にもわからない。

そんななか、「たかが電気のため」(京都大学・小出助教の言葉)に、なぜ電力会社はこれほどまでに原発再稼働に固執するのか?
これについては、今年1月に書いたエントリー(電力会社が電気料金を値上げしたい本当の理由)と似た内容になるが、私の見解を書いておく。

電力会社が原発再稼働を持ち出す最大の理由は、このままだと夏の電力需要に対応できないという論理だ。政府もこれをまんま同じ理屈で持ち出す。が、実際のところ、その詳しい数字についてきちんと検証していないことは東京新聞が報じているところだ。
実際、小出助教も供給不足が起きることはないと断言している。
つまり夏の電力不足などという理由はウソなのである。
では、本当の理由は何か?

私はこれは割引された深夜電力を利用する、オール電化住宅対策だと思う。
そもそも、深夜電力はなぜ安いのか? これは何度も当ブログで書いてきたが、もう一度書くと、原発が生み出す電気が深夜に余っていたからだ。
原発は出力調整をできないため、いったん稼働すればマックスで運転せざるを得ない。その原発の比率を上げていったため、深夜の時間帯に電力は余ってしまったのである。その対策としてひねな出されたのがオール電化住宅だ。
もともと余っているのだから、料金の割引はできる。それを餌にオール電化を普及させて、電気余り状態を解消しようとしたのである(そのお先棒を担いでいた雑誌の一つが「ソトコト」)。

(※もともと原子炉で生み出される熱のうち発電に使われるのは3分の1で、排熱として海に捨てている。また、原発は発電所から利用地域までの距離があるから、その間に送電ロスが出てしまう。さらにそうまでして作り出した電気が深夜には余るというのだから、目を覆いたくなるほどの非効率である)

ところが、原発が停止したことで余剰電力がなくなった。しかし、オール電化住宅を利用している人はいるわけで(なにしろ電力会社がその市場を掘り起こしたのだから)、その人たちのために電力を作らなければならず、しかもその電力は割引しなければならない

私は少し前に、東京電力にオール電化住宅利用者を装って電話をして、電気料金の値上げについての質問をしてみた。電話口の男性は、こちらがオール電化住宅利用者だと名乗ると恐縮しきって、「申し訳ありません」を連発する。
私が「まさか深夜電力の割引制度自体がなくなるということはないでしょうね?」と訊くと、相手は「まだ決まったわけではないが、すべてを一律に上げる予定なので、深夜電力の割引制度はなくなりませんが、他の時間帯と同じパーセンテージで上がるはずです」と答えた。
「しかし、深夜電力は安いというから導入したんですよ」と突っ込むと、「申し訳ありません」を再び連発しながら、「割引制度自体はなくならないから、他の時間帯よりは安いです」の一点張りであった。

と、こう見ていくと、、、
実は電力会社にとって逼迫しているのは、真夏や真冬の電力需給ではなく、オール電化住宅用の割引深夜電力である可能性が高いと私は思う。
ここを火力で補い、さらに値段を割引くという、まあ言ってみれば逆ざやのような状態、コストアップ分を解消するためにどうしても原発を再稼働し、さらにそれでも間に合わない分を電気料金の引き上げで乗り切りたいというのが、電力会社のホンネ中のホンネなのではないだろうか?

つまり、現状、電力会社は自らが撒いた種でどんどん首を締められている。そこからなんとか脱出するために政治家を使っている。
呆れ果てた話だが、これを認めてしまったら、本当にこの国は終わるのではないだろうか。

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2012/04/01

ネットに掲載された「震災瓦礫PR記事」を考える
〜 【補足】広告とジャーナルは別のもの
(はてなのセールスシートを読む)

前エントリーで書いた「環境省が推進するがれき広域処理の意味――前編:大量のがれき」というはてなブックマークニュースに掲載された「PR記事」は、ライターが津田大介氏であったため、ネット上で少しばかり物議を醸したようだ。そのせいもあってか、昨日の当ブログのアクセス数は通常より多めに推移した。
そこで、私としては前エントリーに少々補足しておきたいと思う。

まず指摘しておきたいのは、はてなが普段からこのブックマークニュースの枠で広告タイアップ企画をセールスしていること。

株式会社はてな タイアップ事例集
(※はてなが公開しているこの事例集は、もっとページ数が多いのですが、ココログにアップできるPDFのファイルサイズが1Mまでなので、その範囲内になるようページを削除しています。すべてを見たい方は→こちらへ

↑はクライアントや広告代理店に配布する広告媒体資料(セールスシート)で、内容を見れば一目瞭然、この広告企画の効果が列記されている。
つまり、今回の場合も、純然たるタイアップ広告なのだ。

ところが、はてなが「PR記事」という言葉を使っているために、話がややこしくなる。
少なからぬ人が「PR」と入っているけど、これはきちんと取材された「記事」なんだなと誤解してしまうのではないだろうか。

しかし、そうではない。単純に事を整理すれば、

「はてなはブックマークニュースの枠で広告タイアップを売っている」→「そこへ環境省が出稿した」→「津田大介氏がライターとして起用され、クライアントのニーズを満たした広告原稿を書いた」

という、ただそれだけのことだ。
それ以上でも以下でもない。

ちなみに私は、自分も広告営業マンとして雑誌媒体でこのようなタイアップ広告をせっせと売っていた。
広告には純広告とタイアップ広告がある。純広告とはクライアント自身が制作するもので、訴求したいことを許される表現の範囲内ですべて出すことができるが、原稿は広告そのものである。
対してタイアップ広告は各媒体に合わせて一回一回作るもので、手間はかかるが媒体になじんだ構成となるため、純広告に比べるとスキップされにくいという特徴がある。
したがって、近年、クライアントのタイアップ広告志向は強いのだが、今回の環境省の場合で言えば、朝日新聞の2面見開きで純広告をドカンと打つ一方で、このようなタイアップ広告も仕込んでいるわけで、ここらへんはおそらく広告会社のブラニングなのだろう(朝日とはてなの扱いが同じ広告会社かどうかは不明だが、この流れは多分同一ではないかと私は推測する)。

付け加えておけば、私は別に広告原稿を書くことが悪いとは思わない。誰が何を書こうと、それはライター個人の判断だ。したがって今回の場合も、津田氏に対してどうのこうのと言うつもりはまったくない。
ただ、今回の「記事」は広告だということだけは、ハッキリさせておくべきだと思う。

そして広告であるから、取材費(顎足、宿泊があれば枕も)はクライアントから出て、コーディネート、資料もクライアントから提供される。掲載前にクライアントからの原稿チェックがある。これが当たり前のことだ。
そのこと自体にはなんの問題もない。ただしこれはジャーナルではない。それもまた当然のことである。

はてなのセールスシートのファイル名を見ると、「(2012年4-6月版)」と書かれているので、いずれ今回の広告事例も追加掲載されるのだろう(はてなが目的や効果をどのように書くのかは興味がある)。
広告会社やクライアントはそのセールスシートを見て、「なるほど、はてなではこういうタイアップができるのか」と思うわけである。

Johoi

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