2011/10/08

電子書籍 新刊案内 〜『光文社争議団』

このたび、志木電子書籍では、『光文社争議団』を発売した。

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・光文社争議団 ~ 出版帝国の“無頼派”たち、2414日の記録

これは、私が昨年まで25年間勤務していた光文社で1970年に起きた労働争議の記録である。
解決までに6年半を要したこの争議は、かつての出版界ではちょっと知られた大争議だった。
私が光文社に入社したのは、争議終了から十年ほどしてからであったが、しかし当時はまだなんとなくその余韻が残っていた。
もっとも、それを私が感じることができたのは、配属先がカッパ・ブックスだったことも大きいかもしれない。光文社には第一組合(争議を起こした元々の組合)と争議時に分裂した第二組合(当然、労使協調)があり、カッパ・ブックスグループには、第一組合の人も少なからずいたからだ。
春闘になれば第一組合はそれなりの活動をして、役員室の前で座り込みをしたり、社内には組合のビラがペタペタと貼られていた。
しかし、組合員が高齢化し、定年者が続出するとともにその勢いは衰えていった。
一方、第二組合の執行委員長や書記長ポストは、出世コースを意味していた(もちろん全員が全員ではないが)。
たとえば、ある年の春闘のこと。執行委員会から妥結提案が出て、それに対する反対意見がいくつか出ると、執行委員長は「会社側の代弁をするわけではありませんが、、、」と前置きをして、えんえんと会社側の代弁をした。その委員長は、やがて総務部長(非組合員)になり役員となった……。
もちろん、だから悪いというわけではない。会社の経営がいい時代はそれで問題はなかった。
しかし、会社の経営がおかしくなりはじめた時、やはりその歪みが出てきた。

1970年の争議の原因は、当時の社長・神吉(かんき)晴夫(カッパ・ブックスの創刊者)のワンマン経営にあった。そして、それから四十年後に起きた経営危機の際も、やはり一人のワンマン経営者がいた。そのワンマン経営者は、第二組合誕生時の執行委員に名を連ねている人だった。
1970年当時、組合はワンマン経営者の経営責任を徹底的に追及し、退陣要求を突き付けた。それが原因のすべてではないが、結果として社長のみならず役員全員が退任した。
四十年後、御用組合と言われた第二組合の組合大会で、やはりワンマン経営者(当時は会長だった)に対して退陣を要求するべきだという声が上がり、議論の末に採決され、可決された(細かい経緯は忘れたが)。この時の第二組合は、かつての御用組合とは異なり、そこそこ真っ当な労働組合であった。つまりそれだけ組合員の危機感が強かったわけだが、しかし、それでも結果として会長以下の経営陣の経営責任はついに追及しきれないままにリストラだけが行なわれた。彼らは逃げ切ってしまったのである。
残念なことに、四十年を経て、労働側は連勝することができなかった。

『光文社争議団』に話を戻すと、この本はいろいろな読み方ができると思う。
たとえば、昨年、出版界の話題をさらった、たぬきち氏の「リストラなう!」の前史としても読める。出版業界やそれをとりまく書店、取次、印刷会社、そして広告業界の方にとっては、光文社という会社の興味深い一つの歴史を知ることになるだろう。ひょっとすると、本文中に知っている人の名前をいくつか発見するかもしれない。
以上は業界的な読み方だが、しかし本書にはもう一つの読み方があると思う。
光文社争議において、会社は親会社である総資本=講談社の命令一下、警察、暴力団と一体になって労働者に襲いかかってきた。多くの血が流され、不当逮捕者も続出した。こうした厳しい弾圧の末、それでも闘い続けた先に勝利はあった(支援労働者との連帯も重要なポイントになった)。
いま、日本では東京電力福島第一原発の事故がますます深刻化しているにもかかわらず、霞が関、電力会社を中心とした財界、政治、マスメディアの連合体は国民に対してウソをつきまくって国民を弾圧している。しかし、この暴挙を許していては、断じて日本に復興はない。では、この巨大な敵にどのように闘い挑むのか。
本書にはそのヒントがあると思うのである。

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2010/12/31

今年の○と×

今年もお世話になりました。
締めくくりとして、個人的な○と×をアップします。

まずは菅政権と民主党に過去最大の×。
年末にきて、この政権はついに国民総背番号制の導入を進めることを決めたという。

・低気温のエクスタシーbyはなゆー
年末のドサクサにまぎれて「共通番号制度(国民総背番号制)」導入決定

日本は霞が関による超管理独裁国家であるというのが私の持論だが、国民総背番号はその霞が関の悲願である。来年はこの制度導入のための大キャンペーンがマスメディアを中心に行われるのだろうが、どんなにメリットがあろうとも、現在の霞が関体制においては、独裁の効率化、つまりさらなる国民締め付けの道具でしかない。

・本のセンセのブログ
「日本一新の会」代表 平野貞夫氏による論説~@jaquie35さんの連続つぶやきより編集

マスメディアに×。
もともと日本の記者クラブ制度というのは、霞が関からの情報下げ渡し制度でしかないわけだが、それにしてもここ最近のマスメディアの劣化は凄まじい。おそらくそれは、広告収入の激減による経営悪化と無縁ではないだろう。マスメディアは、これまで濡れ手に粟の莫大な広告収入を得てきた。それが社員の高収入を支えてきたわけだが、もはやその原資がない。かつてのようにマスメディアに気前よく正規料金を払って広告を出してくれるクライアントは、非常に少ない。逆に言えば、いまでも正規料金を払って広告を出してくれるクライアントに対しては最上級のもてなしをする必要がある。ちなみに、政府広報や電力会社の広告というのは、いまでも正規料金である。

TBS(テレビ、ラジオとも)に×。
マスメディアの中でも、とくにTBSの劣化が著しい。テレビはともかく、私はラジオについては評価してきたのだが、今年はアクセスという非常に重要な番組が姿を消した。また、平日の帯の番組も、その内容については「?」がつくものが多い。その結果、録音をして聴く番組以外は、文化放送にダイヤルを合わせる日が多くなっている。ということで文化放送に○。
ただし「伊集院光 深夜の馬鹿力」、「久米宏 ラジオなんですけど」、「安住紳一郎の日曜天国」は今年も○。これまで伊集院、久米は名人だが、安住は実力のある真打だと思っていたが、今年は名人への道を歩み始めたと思う。
TBSに話を戻すと、この会社は横浜ベイスターズの売却にも失敗したことも含めて、経営陣に根本的な問題があるように見える。ちなみに今年、書こうと思って書けなかったエントリーの一つは「TBSの心ある社員のみなさん(とくに若い方)へ」というタイトルであった。これはまた来年に。

radikoに○。

USTREAM、twitter、ニコニコ生放送に○。マスメディアが劣化してもまったく困らないのは、ネットから正しい情報が入ってくるからである。この流れはもはや止めようがない。発言の場をネットに移した小沢一郎の戦略は正しい。

有田芳生さんの参議院当選に○。ダメダメな民主党ではあるが、個々には素晴らしい議員がいる。ここ最近の有田さんの活動を見ていると、選挙を手伝って良かったと思う。

森ゆうこ議員に○。素晴らしいのひとこと。

小室直樹先生の訃報に×。
↓は会社のロッカーを整理していたら出てきた本。目次トビラには先生のサインが入っていた。
この本の中に練馬のアパート時代の小室先生の貴重写真が載っている。最初はスキャンしようかと思ったが、ちょっと考えてやめました(笑)。

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中日ドラゴンズのセリーグ優勝に○。日本シリーズ敗退に×。
昭和49年、巨人の10連覇を阻止して以来のドラゴンズファンである私にとって、この年の日本シリーズで敗れたロッテに再び負けてしまったのは残念で仕方がない。ただし、落合監督に対する信頼は微動だにしない。落合博満は平成の川上哲治である(関連エントリー→落合博満は“深い”)。

ワールドカップ日本代表に○。岡田監督、悪口を言ってごめんなさい。駒野のPK失敗は、ドーハの悲劇と同じく、サッカーの神様が下した「ベスト8はまだ早い」という裁きなのだと思う。

ザッケローニ新監督に○。ヨーロッパでは「終わった人」という評価もあったが、その風貌を見ていると、「日本もやっとサッカーの本場から監督を招へいできるようになったんだナ」という感じがする。もちろん、オシム監督も素晴らしかったが、ザッケローニにはテレビでよく見るヨーロッパの一流クラブの監督という雰囲気がある。そして、いかにもイタリア人しらいファッション。いずれ男性ファッション誌(「LEON」あたり)の表紙を飾るのではないだろうか。

浦和レッズに×。フィンケ監督の辞任は仕方がないと思う。

最後に自分のことについて。
25年間勤務した会社を辞めたことに△。この判断が正しかったのかどうかは、まだわからない。
ちなみに、すでに少々やっているのだが、来年からは本格的に電子書籍に関わる仕事をする予定です。
また、「ドキュメント出版社」のつづきも当ブログでは折をみて書いていこうと思う。とりあえず今考えているのは、私が創刊から休刊まで広告営業を担当した「VS.」(バーサス)というスポーツ雑誌についてである。

以上、今年の○と×、そして△でした。

ではみなまさ、良いお年をお迎えください。


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2010/09/01

ドキュメント出版社 その14

週刊宝石休刊(11)

先週、流れたニュースだが、集英社が初の赤字決算となったという。

・集英社、初の赤字決算に

光文社の場合、主たる収入源は書籍(小説、ノンフィクション)と雑誌の販売収入、そして広告収入の二つであるが、集英社の場合はコミック部門があり、さらにそれに付随したライツ収入がある。また、業界としては早くからネットに投資をしており、s-woman.netはこの分野で遅れている光文社にとってビジネスモデルの成功例として研究の対象にさえなっていた。
その集英社でさえもが赤字となり、しかもその額が41億8000万円だというのだから小さな数字ではない。

・集英社、最終赤字41億8000万円 10年5月期

上記の記事によれば、書籍と雑誌の販売収入は増えているが広告収入が24.8%減で、これが大きく響いているという。集英社のように収入の間口が広い会社でも広告収入減でこれだけのダメージを受けるということは、それだけ広告という商売がいかに利益率の高い、ボロい商売であったということの証明であると言えるだろう。

さて、週刊宝石について書くのは今回で最後にしたいと思うが、その最後は週刊誌というシステムについて私が短い期間ではあったが感じたことについて書こうと思う。

週刊宝石に異動してからしばらくして、古巣の書籍の編集部に立ち寄った時のこと。親しい同僚に「で、週刊宝石はどうなの?」と訊かれた。そこで私は真っ先に「新鮮な驚きとしては、プランを記者から聞くことだね」と答えた。「じゃあ編集者は何をするんだよ?」「そうだね、記者に指示を出して、後は入稿かな」という会話が続く。
実際、それは私にとっては最初の驚きだった。
私が入社後15年間在籍したカッパ・ブックスでは、まず最初はベテランの上司について原稿作成のノウハウを叩き込まれ、それが合格点に達するようになると自分で企画を出し、それが通れば著者のところへ自分で折衝に行く。ちょっと話はそれるが、私はノンフィクションの編集者に必要とされる能力として、

(1) 原稿作成能力
(2) 交渉能力、信用創造能力
(3) 安定供給能力

の三つが必要だと考えていた。まず(1)は著者から受け取った原稿に編集作業を入れることで整理する、あるいはテープ取材したデータを起こして、それをもとに原稿を作っていくといった実務能力だ。
それがクリアされると、次は実際に著者のところへ自分の考えた企画を持っていくことになる。といっても駈け出したの編集者がひとかどの著者のところへ行けば、相手は生意気な口をきく若造だとしか思わないだろう。そこで失敗(怒鳴られたりすることもある)を重ねながら交渉力を身につけ、著者の信用を勝ち得ていく。
私は20代の時に東京大学名誉教授のところに行って原稿を書いてもらったことがあるが、今考えると赤面もので、よくもまあこの先生が私ごときを相手をしてくれたものだと思う。しかし、そうやって少しずつ編集者としてのキャリアを積むと、やがて若い時には怒鳴られるだけで終わりってしまうような著者に対する提案も、「お前さんの言うとおりにやっていいよ」と言われる時がくる。この段階で(2)をクリアする。
しかし、いくらここまで来ても、そうやって作った本を1年に数冊しか出せませんというのでは困る。つまりプロの編集者というのは、あるレベルに達していて、そこそこに売れる原稿を作ったら、それを安定的に供給できなければならないのである。そしてこの(3)のレベルはある意味ではベストセラーを作るのよりも難しい。
誤解を恐れずに言えば、ベストセラーというのは運があればアマチュアでも作れるが、そこそこ売れる本の安定供給は実力がないとできない。ところが書籍のことを知らない経営者というのは、口を開けばベストセラーを出せという(光文社にもそういう経営者は多かった)。しかしベストセラーを狙うということは、100回空振りしても101回目にホームランを打てばいいというような話で、実は経営的には非常に危ない橋を渡ることになる。

話を戻すと、週刊誌における記者からプランを聞くシステムというのは、創刊時にはまだ良かったのだと思う。
記者と編集者の年齢も近かったから一緒に現場へ行っくことも多々あったはずで、それであればきしみも少なかっただろう。
しかし、編集者は年齢が上がるにつれて現場から離れ、代わって若い編集者が入ってくる。そしてこの若い編集者たちもやはり同じように記者からプランを聞いて指図をする。しかもぺーぺーであるにもかかわらず、彼らは下手をするとベテランの記者よりも給料が高い。
もちろん優秀な編集者もいるが、しかし一方でどう見ても入稿作業をやっているだけの編集者も中にはいた(もちろん入稿作業はそれはそれで大変だが)。しかも、そのわりに拘束時間は長いので残業代はたっぷりとつく。
私は書籍の時代に週刊誌の記者と一緒に仕事をしたことが何回かあったが、彼らは決まって「書籍の人はよく働くなあ」と言ったものだった。
しかし何よりも問題だなと思ったのは、結局、週刊誌の編集者の場合、そういう環境に置かれてしまうことで、編集者として必要不可欠な人脈ができにくいということだった。実際、週刊誌から途中で書籍に異動すると、今度は企画から含めてすべて自分一人でやらなければならないことに戸惑う人は少なくない。するとなかなか私が言うところの書籍の編集者としての(3)のレベルまでには達しないのである。
ま、ここらへんについては長く週刊誌をやっていた人から見ればいろいろと反論のあるところだろうし、あくまでこれは短期間だけ週刊誌の編集現場にいた者の見解であることをお断りしておく(ただしその後、週刊誌の広告営業をそこそこの期間やり、その時にも現場を見てきたが週刊宝石の時の印象が基本的に変わることはなかった)。

一方で、週刊誌というのはいいものだナと感じることも、もちろん多かった。
書籍の場合は著者に対して本一冊分の原稿を頼むわけだから、企画を進めるにしてもそれなりにおおごで時間もかかるものだが、週刊誌の場合だといろいろな人に気楽に声をかけることができる。
私が週刊宝石時代の思い出として強く残っているのは、梁石日氏のグラビア連載だ。梁氏の大ファンだった私は、氏と親しいカメラマンに頼んで食事をセットしてもらい、その席でグラビアの連載をもちかけた。これは梁氏が生まれ育った大阪を歩くという企画で、首尾よくOKをもらうとしばらく後に梁氏と私とカメラマンの3人で大阪への撮影に出かけたのだが、梁ファンにとってこれほどオイシイ旅行はない。
なにしろ『血と骨』の舞台となった朝鮮人長屋や(それがまだ当時は残っていた)、『夜の河を渡れ』の舞台で梁氏がアパッチ族の一人として大阪砲兵工廠跡(現在の大阪城公園)に忍び込んで鉄を掘りに行った時の出発点となった川の対岸などを、梁氏自身が案内してくれるのである。
このグラビア連載は「大阪曼陀羅」というタイトルで、週刊宝石の休刊直前まで十回ほど掲載され、その後、私が書籍の編集部に戻った時には、この時の写真や原稿、さらに梁氏の未発表原稿を付け足して『魂の流れゆく果て』というタイトルで書籍化することができた。この本の最後には初出一覧があり、そこに、

大阪曼陀羅 「週刊宝石」2000年11月30日号 ~ 2001年2月1日号

と記されている。そしてこれが私が週刊宝石に在籍した唯一の証なのだった。


※週刊宝石の項目はこれで終わります。

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2010/08/25

ドキュメント出版社 その13

週刊宝石休刊(10)

通常、雑誌が休刊になるケースというのは、販売収入的にも広告収入的にもにっちもさっちも行かなくなった場合である。あるいは週刊サンケイがSPA!に、週刊読売が読売ウィークリーに全面リニューアルしたのも同様の理由だ。
それに比べると、週刊宝石の休刊というのは相当に余力を残してのものだったわけで、珍しいケースだったと言える(※注)。
もちろん部数が落ちていたことは事実で、社内の管理部門などの経費負担分までを入れれば赤字であっただろうが、今にして思えば十分な粗利は出ていたはずだ。つまりビジネスモデルとしては十分に存続の余地があったわけで、であれば通常は編集誌面の手直しをしながらコストの削減に努めるのがセオリーだろう。

実際、これは光文社に限らないことだが、上位に位置する出版社というのはどこも高コスト体質で、トヨタ自動車的な言い方をすれば“ずぶ濡れタオル”のようなものである。つまり合理化余力がふんだんにあるわけで、まずはタオルを絞ってコストダウンすることによって収益構造を見直すことは十分可能だったはずだ。
カルロス・ゴーンが日産の社長になってまずやったこともこれで、実はそれだけで日産は黒字化してしまう。つまり合理化余力というのは含み資産なのである。
しかし、週刊宝石の場合は並河新社長の強い指導力の下で含み資産のあるビジネスモデルを一旦、ご破算にして新たなビジネスモデルを立ち上げることを試みた。
以前にも書いたように、私はこの判断自体には正統性があると思う。ただし、その経営判断には経営責任が伴う。そして結果的に週刊宝石の後を受けて2001年6月に創刊されたDIASは2002年3月には休刊となってしまった。私はDIASに関しては語るべき材料は何もないが、紛れもない失敗であったことは事実である。

しかしながら、、、
このDIASの失敗で責任をとった人は誰もいなかった。
これは組合の団交報告で聞いたことだが、DIASについて問われた並河氏は「これは失敗ではなく投資だ」と言ったという。百歩譲ってそれが正論だとしても、であれば投資金額はいかほどでどのような回収計画を立てているのかが問われなければならないはずだ。なので私は一応その点を質問してみたが、組合としてもそれ以上の追及をすることはなかった。
そうしてDIASの編集長だった三橋氏は総務部長になる。これは明らかな出世コースで、実際、その後三橋氏は役員に昇進する(ただし任期内に退任してしまったが)。
私は三橋氏は優秀な人だったので総務部長になるのはとてもいいことだと思ったが、しかし何のペナライズもないままにいきなり総務部長という管理部門の長(人事評価をする側)になるのは、ガバナンスの点でいささか問題があるのではないかとも思った。
もっともそれは会津出身で非常に真面目な人だった三橋氏自身が一番、痛感していたはずで、その心情は社員を前にしての取締役就任挨拶の際、まずは冒頭で自分がかつて非常に大きな迷惑をかけたことを詫びることから始めたことからも見てとることができた。

もちろんここまでの経緯を見れば、三橋氏に新雑誌の失敗の責任をすべて負わせるのはあまりにも酷な話である。なにしろ「本来の社格にあった」「女性にも見せられ、家に持って帰ることができる雑誌」というコンセプトをたてて新雑誌を主導したのは並河氏なのだから。
世の中である事象が起きた場合、その原因は複合的であることが多いものだが、週刊宝石の休刊からDIASの失敗に至る経緯は、そういう意味では原因と結果の因果関係が非常に直線的につながっている。にもかかわらず最初の時点で並河氏が自分自身を免責してしまい、ゆえに失敗の総括がまったくなされなかったことは、以後の経営に非常に大きな禍根を残したと思う。
なかでもとくに問題ではないかと思ったのは、これ以降、並河氏の権力が弱くなるどころか強まったことで、会社全体が内部統制(インターナル・コントロール)の効きにくい組織となってしまったように感じられたことだ。
今から考えると並河氏が社長を務めた2000年からの8年間というのは出版業にとって非常に重要な時期で、来るべき本格的デジタル化時代やそれに伴う広告環境の変化に備えて筋肉質の組織を作る必要があった。だが、並河色が強まれば強まるほど、むしろ脆弱性が増してしまったのは事実だと思う。

つづく

※注
定期刊行物ではないが、FLASHの別冊として年に8回ほど出していたFLASHエキサイティングという雑誌がある。一時期は大変に売れて、その成功を見た同業他社が続々と参入してきた揚句、「EX市場」という言葉まで誕生した。その後、売れ行きが落ちたとはいえ、それでもEX市場の開拓者としてトップを走っていたこの雑誌は、しかし2008年秋、並河氏の次の高橋社長時代に入ってからのことだが、突如として休刊の決定が下された。
私はこの雑誌の広告営業を担当していたので、これにはビックリしたものだった。というのも、広告媒体としてはまったく期待されてはいなかったが、それでも特定のクライアントにはとても人気があり、数年前には広告料金の値上げにも成功した媒体だったし、何よりも依然としてある程度の部数があったからだ。
社内で赤字決算が発表された数カ月後というタイミングで、しかもリーマンショックの真っただ中、広告収入が激減しつつあるという環境で、珍しく広告収入に頼らなくても十分に余力があった雑誌をなぜやめなければならなかったのか、私はいまだにわからない。

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2010/08/24

ドキュメント出版社 その12

週刊宝石休刊(9)

1月25日に発売された週刊宝石最終号(通巻928号)の締切は1月22日の月曜日だった。
通常は午後8時が最終の締切だったが、この日は夕方から私が所属する班の飲み会が行われている。つまり、最終号だったために誌面は事前に作られたメモリアル企画で埋め尽くされ、ニュース性のある記事はなかったということである。

翌火曜日はおそらく出社をしておらず、24日の午後に編集部に顔を出したが、ガランとしてほとんど人がいなくて薄暗かった印象がある
私がなぜこの日に出社したかというと、新雑誌企画室の室長である三橋和夫氏に会うためだった。実はその数日前、三橋氏から自宅に電話があり「新雑誌に来ないか?」と誘われたのである。これは自分にとっては思いもがけなかった話だった。
三橋氏はもともと週刊宝石創刊時のメンバーで活版ニュース班のエースだった。だから私はこの人がいずれは週刊宝石の編集長になるものだとばかり思っていた。もちろん当時の編集部内のことは知る由もなかったのだが、その三橋氏はしかしこれより数年前にカッパ・ブックスに異動してきたのである。当時、これにはビックリしたものだったが、実は三橋氏は入社時の配属がカッパだったために久々の復帰だった。
私は同じカッパグループでも隣の編集部に在籍していたのだが、以来、三橋氏とは面識があった(私が入社した時にはすでに三橋氏は週刊宝石の人だった)。とはいえ、まさか自分が新雑誌に誘われるとは思いもよらなかったのである。
三橋氏はどんな雑誌を作りたいかという話をしてくれて、他の創刊メンバーを教えてくれた。それは週刊宝石時代の三橋氏の部下だったメンバーが中心で、そこに女性ファッション誌経験者のラインが融合した形で、個人的には週刊宝石から移るメンバーがやや偏っている印象があった。
私は三橋氏に電話をもらって以来、相当に悩んだことは事実で、三橋氏と話をする時までどうしようかと考えていたのだが、最終的には書籍部門に戻ることにした。ただし結果的には古巣のカッパ・ブックスではなく、三橋氏が抜けた後の図書編集部に戻ることになり、この選択が今考えてみると少なからずその後の人生に影響を与えたと思う。

さて週刊宝石の最終号が発売された1月25日。14時からは班の会議があり、15時からは全体会議が行われた。この会議では、この後に行われるスタッフ説明会の内容が確認され、また編集部員に対する人事異動は翌週の役員会で決定することが伝えられた。
さらに膨大な量の写真整理の体制を整えること、伝票等の締切日、週刊宝石休刊の挨拶状を作ることについて、そして人事異動発令の日の午前中に全体会議、そして夕方から食事会が行われることもあわせて伝えられたのだった。

1月30日には金藤編集長から異動の内示があり、翌31日には総務部長から異動の通達がされている。
そして私の週刊宝石時代のノートの実質的な最終ページはこの1月31日の夕方に行われたデスク会議での記録となっている。
それによると、編集部員の人事異動の組合通達は2月6日で2月13日が発令日となる。スタッフとの面談は予定通り2月7日から9日まで行われる。そして2月13日は11時に全体会議(その前に荷物を新しい部署に移しておく)、18時半から解散食事会。挨拶状は2月7日に出来上がることが記され、また新雑誌へ移ることが決まった記者の名前が記されている。
この日から2月13日までは会社に行ったり行かなかったりで、もっぱら社外の友人や、これからのために著者関係の人たちと会いつつ2月13日を迎えている。
ノートには「2/13 全体会議 本社9F」と書いてあるが、その下には「スタッフ面談結果」とだけ書かれており、あとは空白である。そしてこれが週刊宝石時代の記録の本当の最後となった。だから会議の内容は覚えておらず、夜の解散食事会のこともあまり覚えていない。上野近辺で催された食事会は(たしか金藤編集長のいきつけの店だった)部員一人ひとりが挨拶をしたと思うのだが、私自身が何を話したかは記憶になく、ただその場の光景だけが頭に焼きついている。
そうして私の短い週刊宝石での生活が終わった。

つづく

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2010/08/18

ドキュメント出版社 その11

週刊宝石休刊(8)

前回、書いたことに間違いがあった。それはスタッフ説明会についてである。確かに12月21日の手帳にはスタッフ説明会と記されている。だから説明会は行われたと思うのだが、金銭的な条件などはこの日に提示されたのではなく、1月25日に行われたスタッフ説明会(後述)の席上だった。とすると21日の説明会は、とりあえず休刊の経緯の説明ということなのだろう。ここらへんは曖昧で大変に申し訳ないのだがとりあえず訂正いたします。
さて、この翌日の22日、私は永田町の衆議院議員会館で飯島勲氏と会った。飯島氏は「(休刊は)驚いたねえ」と言いながら週刊宝石の親しい記者と私の身の振り方を尋ねたが、この時点ではまだ何も答えられなかった。
その後、会社に戻ると夕方には年内最後のデスク会議。その時のメモを見ると10月以降の週刊宝石の仕上がり部数が記されているが、今見るとそれほど悪くはない(まあ当時と現在とでは数字の見え方がまったく違うのだが)。
さらにこの会議では年明けから休刊までの3号の編集内容が議題になっている。各班がそれぞれメモリアル企画を作りつつ、最終号とその1号前はカラーページを増やし、定価を320円にすることになった。

年末の合併号の締切は12月24日。翌25日は自分で企画担当していた梁石日氏のグラビア連載の撮影を新宿でしたが、この時に撮影した写真が連載の最後に使う写真となった。そして26日は都内のホテルでやはり連載をしてもらっていた関西の芸人に週刊宝石休刊を伝えると、この芸人氏はとても残念がっていた。

こうして慌ただしく20世紀の最後の年が終わり、明けて2001年は1月4日が週刊宝石の仕事初めだったが会社の始業日は1月5日。この日は午前中に椿山荘で始業式が行われている。これは年頭に社長の挨拶を聞くというもので毎年行われているものだが、この時に並河氏がどんな内容の話をしたのかは残念ながら覚えていない。

1月6日にはデスク会議がありスタッフ問題と休刊前2号についての内容が話し合われている。1月9日には全体会議があったがこれに関するメモはほとんどなく、1月12日にデスク会議。ここでは週刊宝石の最終号(928号)発売日の16時30分からスタッフ説明会、そして18時から編集部内でビールパーティをすることが記されている。私が前回、書いたスタッフ会議はこちらのことだった。
また、さまざまな伝票の精算手続きについての注意事項があり、それともう一つ「異動の希望」と記されいる。編集部がなくなるということは、当たり前の話だが部員も異動しなければならない。これについては金藤編集長と個別に面談をして希望を出すようにということだった。
この個別面談は、私自身についていつ行われたのかは記されていないが、その内容についてはよく覚えている。私はカッパ・ブックスへ戻ることを希望した。すると編集長は「もう週刊誌はいいのか?」と言ったのだが、もとより私が新雑誌へ行く可能性はないだろうと思っていたし、もともと無理を言ってカッパを出た経緯があった。その古巣もいろいろと大変だという話が耳に入ってきていたので、できることならカッパ・ブックスに戻りたいという希望を述べたのだった(ただし最終的に私が戻ったのは書籍の編集部ではあったがカッパ・ブックスではなかった)。

1月19日。最終号を作っている最中に行われたデスク会議では、新雑誌の創刊が6月にずれ込むことが伝えられた。その他に記されているのはスタッフの個別面談が2月7日から9日まで行われること、編集部員は1月31日までに荷物を整理しておくこと、人事異動は2月初旬に発令すされる予定だがとりあえず2月2日までは出社すること。そして人事異動の発令日に全体会議をするというようなことであった。

つづく

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2010/08/17

ドキュメント出版社 その10

週刊宝石休刊(7)

後年、広告営業に転じてから、ある大手広告代理店の雑誌局長と席を同じくする機会があった。私がとりあえず挨拶がてら自分の社内での経歴を話すと、この局長は週刊宝石に関して自分が手がけた広告の話を楽しげにしてくれたあと、「それにしてももったいなかったな、週刊宝石は、、、」とつぶやいた。
確かに当時の週刊宝石は部数の落ちがなかなか止まらず社内では問題になっていたが、しかし今から考えるとまだまだ相当に余力のある時点での休刊決定で、もちろん私ももったいなかったと考える一人である。
一方、2001年1月(日付がわからない)の東京新聞に「『週刊宝石』休刊は“攻め”の作戦立て直し 復活後は“脱風俗色”も」と題して掲載されたインタビュー記事で、並河氏はこんなことを言っている。

「『週刊宝石』も〈処女探し〉とか〈オッパイ見せて〉という企画がよかったといわれるけど、それはあの時代が良かった。ヘアヌードが時代にモノを言えた時はありました。ゲリラとして体制に反するものとして。今は何も意味がない。うちが水面下に潜るのが早かっただけで、ヨソの週刊誌も同じですよ」

現在、男性週刊誌はとくに広告面から見ると厳しい状況にある。
しかし一方で新聞、テレビといった記者クラブメディアが壊滅的状況にある今、週刊誌のメディアとしての重要性は上がっていると思うし、実際、昨年から今年にかけて週刊文春、週刊新潮、週刊現代、週刊ポストの部数はいずれも好調に推移しており、とくに週刊現代は部数を10万部も上げている。あるいは週刊ポストが続けている官房機密費追及は記者クラブメディアでは絶対にできない価値あるキャンペーンだ。
私は全体として紙媒体は厳しい状況に追い込まれていくと見ているが、この男性週刊誌の健闘を見るとまだまだやりようはあるし、なによりも週刊宝石が休刊になったのはまだまだ雑誌広告の状況が良かった十年前のことであることを考えると、休刊よりも他にもう少しやりようはあったと思う。

ただ、それはそれとして並河氏がこの時点で週刊宝石の休刊を決めて新たな媒体を模索したことについて、その判断には正当性がある。なにしろ最高経営者が下した経営判断なのだから。
ただしこの経営判断は当然ながら経営責任を伴うもので、したがってこの判断が間違いであった場合は相応の責任が生じることは当たり前のことだ。その意味では週刊宝石休刊とその後に並河氏の強力な主導の下で誕生した新雑誌(「DIAS」)はセットで考えなくてはならないわけだが、この点についての私の考えはもう少し後に述べる。

さて話を2000年の時点に戻すと、、、
新たに設置された新雑誌開発室には週刊宝石編集部からも2人の部員が異動した。
残された者は横田氏が言ったように「粛々と」週刊宝石を終わらせなければならなかったわけだが、とくに難しかったのは記者、カメラマン、デザイナーといった外部スタッフへの対応であった。
これも後で述べようと思っているが、雑誌というのは外部スタッフがいないと成り立たない。とくに週刊誌はその人数が多く、また依存率が高い。逆に言うと社員編集者の仕事というのはそのスタッフを動かすことで、一歩間違うとそれだけになってしまうこともある。私のような書籍出身者にとってこれは不思議なシステムに見えた。
その外部スタッフは1号あたりの原稿料が基本となっているので、新雑誌に移るにしても週刊宝石休刊から新雑誌創刊までの期間は無収入ということになってしまう。しかも全員が新雑誌へと移行できるわけではない。
12月20日のデスク会議ではそのスタッフについて、さらに最終号へ向けての内容について、連載についてという3点が話し合われている。
このうちスタッフについては、この翌日の21日に説明会を行うことになっており、そこで提示される条件がメモとして残っている。その内容は、雑誌の休止期間中(4カ月)についてはスタッフ全員の拘束料を保証し、その後のことはリニューアル誌の準備の段階で話をして新たに契約書を交わす。新雑誌へ移らなかったスタッフについては、さらに2カ月の拘束料を払うというものであった。
そして12月21日の午後、スタッフに対する説明会が行われた。これは編集部員の同席も許可されていたので、私も会議室の後部座席からこの説明会の行方を見守った。
今でも思い出すのだが、この時の金藤健治編集長の態度は立派だった。スタッフのみなさんへの配慮を十分にしつつも、会社として言えることと言えないことの区別をきちんとしてブレることがない。これに限らず、週刊宝石の幕引きがそれなりに上手くいった最大の理由は金藤編集長の手腕によるところが大きいと私は思う。
とはいえこれはやはり大変な仕事で、後にご自身の定年退職のパーティの席上、金藤氏は「週刊宝石の休刊は修羅場だった」と述懐されたものだった。

つづく

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2010/08/15

ドキュメント出版社 その9

週刊宝石休刊(6)

前回は2000年11月3日のデスク会議のことを書いたが、ここから週刊宝石の休刊が決まるまでの間、実は私の手元にはあまりメモが残っていない。
一方で、自分が属する班のプラン会議のメモはしっかりと残っているので、編集部内では不安の空気に包まれつつも日々の仕事をしていたことになる。ただし手帳を見ると、通常のデスク会議にはさまって全体会議が頻繁に行われている。
まずは11月7日。これはおそらく3日に金藤編集長が発表した二段階改革案を部員全員に知らせるものだったと思う。私の拙い記憶では、「これで社長は受け入れるのか?」といった疑問の声も出たような気がする。
さらに11月15日、16日にも全体会議は立て続けに行われている。これは手帳の記述ミスなわけではなく、13日のデスク会議の時点でこの両日に全体会議が行われることが記されている。
ということは15日が並河氏への改革提案前日、そして16日は提示後の報告であったと思われる。

さて、ここがもっとも肝心なヤマ場なわけだが、実はこの全体会議についてはメモも記憶もほとんどないのである。ただ今こうして書きながらぼんやりと思い出してくるのは、編集部の出した二段階改革案は却下されたということを伝える鈴木取締役の姿である。ただ、その時の会議の雰囲気がどんなものだったかは残念ながら記憶にない。
その後、17日のデスク会議では活版厚紙ページ(16ページ)の廃止と4C中質ページ(普通のカラーページよりも紙質は悪いが、この紙を使って特集記事を作るのが週刊宝石は得意でかつては人気があった)を増やすことが記されている。つまり誌面の体裁の手直しである。
またメモには記されていないが、表紙のデザイン変更も話し合われたはずで、これはグラビア班の表紙担当がデザイナーと早急に話し合うことになった。
とはいえ編集部からの改革提案は却下されたはずであるから、そうしたなかで誌面の手直しを進めていいくのはどうなるんだろう、、、と思ったことも事実である。

そうして私の手帳では二週間ちょっとが過ぎる。この間は編集部内では毎週の締切をこなしながら年末の合併号の企画を考え、さらに誌面の手直しについても動いていたと思う(どうも曖昧な話ばかりで恐縮だが)。
そして迎えた12月6日の夜。週刊宝石の忘年会が椿山荘で行われた。編集部員の他に記者、カメラマンといったスタッフ、さらに社外のスタッフ、印刷所関係者、社内の関連部署の担当者などを招いてのこの忘年会は、後にいくつかのメディアにもその時の様子を書かれるものとなった。
といっても、この忘年会も頭の中にイメージとしては残っているのだが、詳しい雰囲気などは覚えていない。ただ、とにかくこの難局を乗り切るべくみんなで頑張ろうというムードはあった。そして忘年会が進み、おそらくは最後だったと思うが、鈴木紀夫取締役が挨拶に立った。アルコールもずいぶん入っていたであろう鈴木氏は、話の脈絡のなかで「私は今、社長と闘っているんですよ!」と言った。
苦しい状況の中での忘年会で、しかも出席者は全員が週刊宝石の存続を願っている。そうしたなかで出たこの発言はその場の勢いというものもあったのだろう。が、この発言が並河氏の耳に届いた段階で週刊宝石の休刊が決まったと書いたメディアがあったことは事実である。
ただ今になって考えてみると、この鈴木発言があったにしろなかったにしろ、週刊宝石休刊の路線はすでに決まっていたのではないかとも思う。

ただ、ここから事態が風雲急を告げたのも確かで、この忘年会から5日後の12月11日月曜日に週刊宝石休刊が現場に伝えられた。
以下はこの日に行われたデスク会議のメモ。ちなみにこの会議は最初はデスク会議だったが、途中から編集部にいる部員全員も呼び込まれたと記憶している。

・12/18付で新雑誌開発室を設置する。室長は図書編集部(書籍部門)編集長の三橋和夫氏となる。これに伴い、三橋氏の後任の人事も行われる。
・この新雑誌開発室は週刊宝石の受け皿の研究をし、社長が直接担当となる。
・鈴木紀夫取締役の週刊宝石担当委嘱を解き、横田可也取締役(女性自身担当)が担当役員(発行人)になる。
・新雑誌は「AERA」的なものを考えており、発行人は横田氏、編集長は三橋氏となる。
・この件については並河社長と矢島介氏(当時の肩書は副社長であったと思う)の間で決定され取締役会で承認された。
・現編集部メンバーを母体として新編集部を組織する。
・新雑誌は広告が入り、家に持って帰れる雑誌を目指す。
・本来、社格にあうべき雑誌を模索する。
・社長、横田氏より部員への説明がある。
・週刊宝石は休刊ではなく、週刊サンケイがSPA!に、あるいは週刊読売が読売ウィークリーになったようなリニューアルである。

以上のことは鈴木取締役の口から伝えられたものであろう。

さらのこの1週間後の12月18日午後、鈴木氏が週刊宝石担当を退任し横田氏が着任するのに伴って全体会議が行われた。その時のメモ。

・以下は役員会で決定されたことである。
・週刊宝石は1月最終週の1月25日の発売をもってストップする。
・2月頭に新雑誌のコンセプトの発表会をする予定。
・リニューアル誌のスタートは5月最終週を予定。

その後、週刊宝石に在籍するスタッフの処遇にについての話があったあと、この日のメモの最後には一行「週刊宝石というタイトルは残らない」と記されている。
この日の会議であったか、別の機会のデスク会議であったかは覚えていないのだが、私の耳には横田氏の「週刊宝石を粛々と終わらせてください」という言葉が残った。

つづく

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2010/08/13

ドキュメント出版社 その8

週刊宝石休刊(5)

前エントリーについて誤解なきよう付け加えておくと、私は「JJだってダメな雑誌じゃないか」といっているわけではない。JJは販売収入的にも広告収入的にも超がつくほど第一級の雑誌であって、それは光文社の収益、そして従業員の給与体系の向上にも莫大な貢献をした。
ただ、所詮は大衆誌だったと私は思うのである。
そもそも光文社というのは書籍ではカッパ・ブックス、カッパ・ノベルス、週刊誌では女性自身が原点にあることからもわかるように、非常に大衆に根差した本や雑誌を作ることが得意で、またそのための独特のノウハウを持った会社だった。
しかし、私が見るところ並河氏にはそれが我慢ならなかったようで、だからたとえば氏の時代には光文社新書が創刊される一方、ダサくて大衆的なカッパ・ブックスは消滅させられてしまった。

かつて日産自動車は北米市場において「DATSUN」というブランド名でフェアレディを売りに売った。ところがその「DATSUN」をある時から「NISSAN」に変えてしまう。それとともに日産は北米で苦戦に転じてしまうのだが、これについてアメリカの著名な自動車アナリストであるマリアン・ケラー女史は「なぜあれだけのステータスを確立したDATSUNをやめてNISSANにしたのか、その理由がわからない。これだけで何億ドルかの損だった」と語ったという。
その話を見聞していた私はカッパ・ブックスのブランドがなくなった時、会社の先人たちが長年にわたって築き上げてきたブランドをいとも簡単に捨てたことは、目には見えない、数字には表れないけれども莫大な損失なのではないかと思ったものだった(光文社新書の創刊が間違いだったというのではない。カッパ・ブックスをやめる必要はなかったというだけで、これについてはいずれ稿を改めて述べる)。

話が相当に脱線してしまったので週刊宝石のことに戻そう。
2000年10月19日に行われた並河氏が出席しての全体会議は、その後、各部員が一人一人名前を名乗って個人的な意見を言わされたと記憶している。
この時に自分がどんな発言をしたかは記憶がなく、また他の部員が喋った内容もメモされていない。
したがって、この会議については実はこれ以上に書くことはないのだが、ただ一つ明らかなことは、これまで鈴木取締役や金藤編集長を通じてしか知ることのできなかった並河氏の考えを編集部員が直に聞いたことだった。

この会議が行われた週は2週合併号を作っており、翌週から1週間、編集部は休みに入ることになっていた。最終校了は23日の月曜日だったが、これは一番締切が遅い活版のニュース班で、それより進行の早い班は自分たちの担当する折が校了になるとともに休んでいく(活版の週刊誌というのは、折によって校了日が異なり、基本的に外側の活版ページが一番遅い)。
当時の手帳を見ると、並河氏出席の会議が行われた翌20日金曜日の午後、再び全体会議が行われ、それに続いてデスク会議が行われている。これまた詳細なメモもなければ記憶もないのだが、この会議は前日の会議を受けて再び全部員が意見交換をしたことは想像に難くない。
その後、編集部は休みに入ったのだが、明けて11月1日にデスク会議が行われている。これは定例のものだったと思うが、その時のメモには「10/23の役員会で週刊宝石問題が話し合われ、継続か?リニューアルか?が議論されたが後者の方が強い」と書いてある。
これは鈴木取締役の報告だろう。「リニューアル派の方が強い」と書いてあるが、就任したばかりの、それもただ一人代表権を持った社長がリニューアルを強硬に主張しているのだから、それに反対するにはかなりの勇気が必要なはずで、おそらく現状維持派は実質的に鈴木氏一人、あといるとすればあくまで想像だが、女性自身の担当役員ぐらいだったのではないかと思う。

そして11月3日、文化の日の午後に行われたデスク会議で金藤編集長から並河氏に提示する週刊宝石の今後の方針案が示された。
それによれば版型は現行のままで変更はしない。表紙のデザインや企画の柱は抜本的に変更する。読者の対象をもう一度見直しつつ、発売日の変更も検討するというようなものだった。ただしこれは期限付きとして、もしこれが成功しなかった場合は全面リニューアルをするという、言ってみれば二段階改革案である。
この時の会議の際であったかどうかはわからないが、私は金藤編集長が「女性自身の失敗を考えると全面リニューアルをするのはこわい」と言ったのが今でも耳に残っている。
そう、確かに全面リニューアルはこわい。減ったとはいえ30万人近くはいた読者を一気に失う可能性がある。かといって、週刊ポスト、週刊現代には水をあけられ、しかも週刊大衆に実売部数で抜かれてしまった(実はこれが相当に大きな問題だった)現状を考えると、表紙や企画の見直しだけで読者を再び増やすことができるのかどうか、、、正直なところ私にはよくわからなかった。
ただ、ある意味で編集部にとっては虫のいい「とりあえず現状の形の中での見直し→ダメだったら版型、紙質も含めた抜本的な見直し」という提案を、果たしてあの並河社長が受け入れるのだろうか?という点についてはきわめて疑問だった。

つづく

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2010/08/11

ドキュメント出版社 その7

週刊宝石休刊(4)

週刊宝石はとにかく何がしかの誌面刷新をしなければ生き残れない状況になっていた。しかしどのように変えるのか? それを編集部員が考えるのはなかなか大変だ。というのも週刊誌の編集部には当たり前の話だが毎週必ず締切がやって来る。したがって、まずは目の前の仕事をこなしていかなければならない。その上で現在の流れをまったく否定して別のことを考えるというのはなかなかに難しことだった。
まして2000年9月というとシドニー五輪というビッグイベントがあり、さらに10月は創刊記念月間でその記念号のその企画も考えなければならなかった。
当時のデスク会議の記録を見てみると、この頃はとりあえず一部の折の紙質を変えたり企画を手直ししたりといった微調整をしている。
また、売れ行きについては合併号の仕上がりはそこそこにいいが、通常号の仕上がりは芳しい状況ではない。ただしそれは当時としては芳しくないのであって、今になってこの数字を見ると「それでもまだこんなに売れていたんだ」と私なんぞは思ってしまう。

さて、そうしたなかで10月16日月曜日に行われたデスク会議のメモを見ると、夏の合併号以降の売れ行きの数字とともに、「10/19 並河社長登場」という文字がトップに書いてある。つまりこの日に並河氏が出席しての全部員会議が開かれることになったことが伝えられたのである。

迎えた10月19日。会議は朝の10時からスタートしているのだが、実は私の手元には前年度の週刊宝石の決算の数字と新年度の第一四半期の数字、さらに当時のの実売率以外、あまり詳しいメモは残っていない。
したがってこの会議の詳しい内容は思い出せないのだが、いまでもその時の光景は頭の中に残っている。並河氏、鈴木取締役、金藤編集長をコの字型に全部員が囲んだ中で、もちろん口火を切ったのは並河氏だ。その中で私が覚えているのは、「今のままではダメだ」という話とともに「週刊宝石が絶好調の頃は編集部員がみんな肩で風を切って歩いていたじゃないか。(自分は)バカだなと思ったが、あの時の勢いはどこへ行った」というフレーズである(細部の記憶は曖昧だが、だいたいこのような内容だった)。
これには「なるほどな」と私も思った。また、他にも並河氏の話には首肯し得る箇所あった。

さてしかし、、、
一方で並河氏の話で大変に引っ掛かったこともある。それはこの会議で出てきたのかどうかは覚えていないのだが、以後、並河氏がよく口にしたフレーズで、私はそれに対してとても違和感というか抵抗感があった。そのフレーズとは、

「家に持って帰ることができる雑誌を作れ」

つまり週刊宝石は「家に持って帰ることができない雑誌」だからダメだというのである。
確かに週刊宝石は「処女探し」とか「あなたのおっぱい見せてください」といった企画で部数を伸ばした雑誌ではある。私が異動した時にはすでにそういった企画はなかったが、しかし柔らかめの企画がウリであったことは間違いない。「だから週刊宝石を買ったサラリーマンは妻や子供がいる家には持って帰れない、そういう雑誌はダメだ」と並河氏は言うのである。

まずもって私は「家に持って帰れない雑誌がダメだ」とは思わない。ヌードグラビアがあってもそれが読者のニーズを満たすものならいいではないか。ただし他の部分(たとえば活版ページ)で柔らかい記事に交じってきちんとジャーナリズムの役割を果たすページがあればいい。ついでに誤解を恐れずに言えば、チト古い考え方ではあるが「反権力はエロに宿る」とさえ私は思っている。
読売新聞の主筆を名乗る老人は、ことあるごとに雑誌を侮蔑する言葉を投げつけるが、ジャーナリズムとしては既得権益者に対する世論誘導装置でしかない新聞よりも雑誌の方がはるかに真っ当だ。

しかし並河発言に対する違和感、抵抗感というのはそういうことではない。私が言いたいのは、では並河氏が創刊したJJは「家に持って帰ることができる雑誌なのか?」ということなのだ。
1990年代の半ばぐらいだったろうか、アダルトビデオに対する規制が議論されていた時にあるAV監督が「自分たちを規制するよりもJJのようなファッション誌を規制するべきではないのか?」と発言しているのを目にしたことがある。どういうことかというと、つまり自分たちのようなエロを有害だということで規制するよりも、世の中の若い女の子の価値観をカネやモノ一色に染め上げるファッション誌の方がよほどに有害だというのだ。私はこれはこれでなかなか傾聴に値する議論だと思った。
確かに当時は女子高生などの援助交際などが社会問題となっていた時期だが、彼女たちはそうして手にしたカネで何を買うかといえばファッション誌で見た高級ブランドのバッグなのである。
私は日本という国は世界で唯一成功した社会主義国家だというような主張には与しない。なぜならこれまた誤解を恐れずに言えば、真っ当な社会主義というのはもう少しいいものだと思うから(キューバとかね)。
だが、一方で日本が不思議なクラスレス社会であることは事実だと思う。
欧米にはそれがいいか悪いかは別にして階級というものが存在する。そうして高級ブランドというのは上流階級に向けて作られ売られるものとして存在している。ところが日本ではある時期から普通の庶民の、それも若い女性が高級ブランドに殺到するようになった(今はまた時代が変わってきたが)。
これに何より驚いたのは欧米の高級ブランド自身だろう。なにしろ自分たちが相手にしてきたクラス(マーケット)とはまったく違うのだから。しかも彼らの心の底には厳然と日本人に対する差別意識があるから、最初はこの現象を苦々しく思っていたはずだ(実際、私はそういう話を聞いたことがある)。
ところが、このマーケットがどんどん拡大していって、全体の売上げに占める日本市場の割合が無視できないまでに大きくなってしまった(今は中国の成長がものすごいが)。こうなると欧米の高級ブランドも本気になって日本市場を開拓せざるを得ず、それとともに宣伝予算を投下していく。それがまた女性ファッション誌全体の成長を促していった。そのスタートから先頭を切って走っていたのがJJという雑誌である。

だが、話は戻るが、ではJJは本当に家に持って帰ることができる雑誌なのか。実は私にも現在大学生の娘がいるのだが、この当時、つまり十年前に私が思ったのは「たとえ娘が大学生になってもJJは持ち帰らないし持ち帰れない」ということだった。
なぜなら娘がカネとモノという尺度だけで人間の価値を測るようになって欲しくなかったから。少なくとも、それよりももっと大事なことがたくさんあることがわかる人間になって欲しいと思った。
ま、それがいま実現しているかどうかはかなり微妙なところではあるのだが、、、
とにかくこの「家に持って帰ることができる雑誌」という考え方は、「見た目」というきわめて表面上の問題を一皮めくるとなかなかに深いテーマである。
しかし、私の印象では並河氏というのはとかく「見た目」という浅い部分にこだわる人で、これはおいおい書いていくつもりだが、それは対週刊宝石以外のあらゆる媒体(書籍も含めて)に対しても同様だった。

つづく

おまけ
今朝、部屋を整理していたら河内孝著「新聞社 破綻したビジネスモデル」(新潮新書)という本が出てきた。これをパラパラと再読してみると面白い。そのなかにこんな一節があった。
これは新聞社だけでなく、あらゆる出版社、放送局に言えることだと思う。

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 今後の新聞経営で大事なのは、社長を編集局出身以外から選ぶことです。個人の能力や資質を言っているのではありません。新聞記者は、人の弱みや落ち度を探って書くのが商売。自分で何かをやり遂げたり、企業の経営責任を取ったりするようには育てられていないのです。これだけ経済活動が複雑化している時代に、五〇歳を過ぎて初めて損益計算書を見る人(私もそうでしたが)に経営は任せられません。(184ページ)
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