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2011/09/30

昨日の資料映像 ~ ①後藤政志氏 格納容器の機能喪失 ②原発「やらせ」質問文を入手③石川知裕議員「一審判決下る 検察捜査の問題点」

①後藤政志氏 格納容器の機能喪失








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②原発「やらせ」質問文を入手

20110929 原発「やらせ」質問文を入手 投稿者 PMG5


③石川知裕議員「一審判決下る 検察捜査の問題点」


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止まらない放射能汚染 ~ 2019年、ラグビーW杯は日本で開催できるのか?

ニュージーランドで開催されているラグビーW杯で、日本代表は1分3敗とグループリーグの最下位に終わった。
このラグビーW杯というのは歴史が浅く、最初に開催されたのは1987年。したがって日本ではあまり馴染がないが、いまやスポーツイベントとしての規模は、サッカーのW杯、オリンピックに次ぐものだという。
このラグビーW杯に日本は第1回から連続出場をしており(ただし第1回は招待制だった)、その意味ではサッカーよりも立派だが、しかし成績の方は芳しくなく、過去7回の通算成績は1勝2分21敗と惨憺たるものである。
とくに1995年のニュージーランドとの対戦では145失点(得点は17点)という大失態を演じてしまい、ラグビーをよく知らない人でも「なんだか恥ずかしいぐらいに大敗した試合があったナ」とご記憶の方も多いかもしれない(映画「インビクタス」ではマンデラがニュージーランドの予選での成績をたずねるシーンで対日本戦の結果が「145-17」と聞いて、「145点!?」と驚くシーンがある)。

とまあ、なかなか結果を残せない日本代表なのだが、8年後の2019年には日本でこのラグビーW杯が開催されることになっている。
ラグビーファンの私としては今からとても楽しみであるが――
しかし一方で2019年の日本で果たして本当に世界規模のスポーツイベントを開くことができるのだろうか?という疑念、あるいは不安も捨てきれないのだ。
というのも、これだけの大会となれば、日本各地で試合をしなければならず、当然、首都圏を含む東日本でも少なからぬ試合をしなければならないだろう。しかし、それは可能なのか?
問題はその時の福島第一原発をめぐる状況にかかっているだろう。

いま、マスメディアでは福島第一原発の1~3号機の原子炉がすべて100度以下となったという東京電力の発表情報をしきりに流している。それだけを聞いていると、あたかも事態は収束へと向かっているかのようだ。
たとえば、読売新聞はこのような記事を書いており、あわせてそこにこのような図を掲載している。
が、一方で、京都大学の小出裕章氏は、もはや原子炉はそのような状態ではないと言う。


溶けた燃料が地下水を汚染する可能性 投稿者 HEAT2009

では、東京電力と小出氏のどちらの言っていることが正しいのだろうか? 
私には技術的なことはわからないが、しかしどちらが信用できるかと言えば、小出氏に軍配を上げざるを得ない。なにしろ、東電は3.11前まで「原発の破局事故など絶対に起きない」と言い、小出氏は「絶対に起きる」と言っていたのだから。
となると、これから先、事態はおそらくは小出氏の予想する方向へと進むだろう。しかも、小出氏が求めているような対策は遅々として進んでいない。であれば、事態はより悪化する他はない。
チェルノブイリの事例を見るまでもなく、放射能災害というのは広範囲に、しかも非常に長期間にわたって影響が残る。このことを海外の人は知っているから、当然のことながら、来日公演がキャンセルになる事例も出ている。

・セシウム飛散、250キロ以遠にも 群馬の汚染地図公表

セシウム汚染の帯、首都圏に 千葉・埼玉の汚染地図公表

※注「文部科学省による広域航空機モニタリング計画について 」によれば、この調査はその他の都県でも行なわれている。

そうしたなか、8年後、たとえ屈強なラガーマンたちといえども、彼らが喜んで日本にやって来るとは、現状では私にはどうしても思えないのである。

ところがそれほど深刻な状況であるにもかかわらず日本では……
たとえば昨晩のNHKニュースウォッチ9のニュースの並びは、

(1) チュートリアル福田摘発
(2) トイレに1000万円
(3) むち打ち刑撤回
(4) イチロー記録ストップ

だったそうだ(私は未見だったが、視聴していたテレビマンからの情報)。
おそらく、これこそが岡庭昇氏が言うところの最高度の言論操作なのであろう。
つまり、本当に重要なことは何一つ伝えないことで、原発には何の問題もないという洗脳をしているわけだ。
この大本営発表とは比べものにならないほど洗練された言論操作に、果たして日本人はいつになったら気づくのだろうか?

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011/09/29

権力と闘うということ

1970年にとある大手資本の子会社(従業員数250人前後)で起きた労働争議の記録映像を見る機会があった。
争議のきっかけは独裁的な権力をふるっていたこの会社の社長の数々の不正の発覚で、組合員全員で無期限ストに突入する。
ところが、会社は親会社の指示のもと、争議ゴロを取締役に据えるという強硬策に出る。警備員という名の暴力団員が多数雇われ会社をロックアウト。その一方で、組合の懐柔策に出て、数カ月後には第二組合が誕生。当然、彼らは職場復帰をする。
映像では、警備員(暴力団員)が労働者に殴りかかるところが映っている。
しかも驚くのは、警察がこの警備員(暴力団員)と一体化して、労働者を弾圧していることである。
というのも、親会社は警察と密接な関係にあり、日頃から警察に協力しているばかりか、そもそも警察署が建っている土地自体が親会社のもので、そこを好意で警察が使わせてもらっているのだという。
したがって、警察は徹底して親会社とそれに連なる子会社経営、そして第二組合の側に立ち、第一組合の組合員は続々と逮捕されていく。
ところが、それでも労働者はめげなかった。同業他社の労組が次々に支援連帯スト権を確立。本体の労組は100人を切るまでの人数になってしまったにもかかわらず、その倍以上の支援労働者が会社や親会社の前に駆けつける。
映像には当時のデモの様子も記録されているが、スクラムを組んでのジグザグデモが行なわれ、警察や第二組合員の一部と衝突を繰り返す……。
普通に考えると、これだけ彼我の差があれば、第一組合側がアッサリ負けるはずなのだが、しかしこの争議は最終的に組合側の完勝に終わった。
なぜそのような結果を出すことができたのか?
その最大の要因を一つ挙げれば、争議の間に起こされた数々の裁判で組合が連戦連勝したからだ。
つまり、司法が最後の砦として真っ当な判断を下していた、機能していたのである。

ここのところ、「戦後」とは何だったんだろうということを少しく考えている。
「日本は官僚独裁という意味において、戦前も戦後もなく一貫している」というのが私の持論で、それは今でも変わることはない。
ただ、最近、一つ思うのは、それはそれとして、やはり敗戦というのは独裁権力にとって大きな痛手で、国民をコントロールする上でのいくつかの大切な手段を失ったのだろうということだ。
結果、独裁権力を行使するにしても、どうしても効率が悪くなる。
労働運動が燃え上がったり、国民の目が日米安保に向き、ジャーナリストがこれを書き立て、一旦、裁判が起きれば司法が真っ当な判断を下してしまう。
効率を何よりも好む独裁権力にとって、これほどの非効率、ムダはない。
そこで、この非効率をなんとしても改善するべく費やしてきた日々が、つまり戦後なのではないだろうか。

このたび判決が下された「陸山会事件」の公判では、当初、検察が証拠申請した少なからぬ供述調書が却下されたため、これまでデタラメの限りを尽くしてきた検察も、いよいよ年貢の納め時かと思った人が多かった。
ところが、実際に下った判決は、そんな危ない供述調書を申請しなくても、状況証拠を出してくれれば検察が立証(デッチ上げ)したくてもできなかったことまで含めて、ジャンジャン認定してあげるよという内容であった。
これについて、郷原信郎氏はtwitter上で、↓のように述べている。

http://twitter.com/#!/nobuogohara/status/118449794925604864
http://twitter.com/#!/nobuogohara/status/118450385504579584

つまり、「じゃあ、これまで検察官が必死になってやってきたことはなんだったのか? バカにするな」というわけだが、一方で郷原氏と同期の元検事、若狭勝氏はこのように述べている。こちらは「それで有罪にできちゃうんだ! なーんだ、検察ラッキーじゃん」ということだろう。

ところで、この判決が下りた後、石川知裕議員が会見をした。大変、疲れているということで、珍しく司法記者クラブと自由報道協会が呉越同舟での会見となった(主催は石川事務所ということらしい。そんなことはどうでもいいが、こういうことが司法記者クラブの連中にとってはもっとも大事なのだろう)。
私もネットでこの会見を見たのだが、最前列に座っているのは自由報道協会、つまりフリーランスの面々ばかりである。そして、質問をするのもすべて彼ら。大手メディアの記者はその後ろに座って、パシャパシャとノートパソコンのキーボードを打つだけである(それにしても、いつも思うのだが、あれはいったい何を打っているのかね。音声なんて録音すればいいんだから、パシャパシャ打っても意味ないじゃん。それより会見者を観察するとかはしないのかね。毎日新聞の主筆とやらは、相手の顔色を見て記事を書くらしいですぜ)。
要するに、司法クラブの記者はこの判決についての疑問を一切、持っていないのである(普段、記者クラブで下げ渡し情報をもらうだけの体質が染みついているということもあるだろうが)。
そして、案の定、マスメディアはアリバイ程度に、この判決の危険性を述べる識者のコメントを載せたが、基本的には裁判官が下した判断をそのまま大々的に垂れ流した(5000万円授受ビデオを捏造したTBSなんぞは嬉しかったでしょうなあ)。
なかには「法律的には議論の余地が残るが、国民の常識的な感覚には近い。積極的、挑戦的な判決だ」などという法律学者のコメントもあった(「くろねこの短語」参照)。
驚くべきコメントですね。法律よりも国民の感覚、つまりポピュリズムが優先するというのである。事実がどうであろうとも、マスメディアがうわーっと書きたてて印象操作をした結果として出来あがった「国民の感覚」に沿った判断の方が正しいというわけだ。
過去に冤罪で苦しんだ多くの人々は、捜査当局から情報をもらったマスメディアが書き立てる記事によって、周囲の人々から「犯罪者」という印象を与えられ苦しんできた。しかし、この法律学者は「国民の常識的な感覚」に沿うことを是とするのである。いやはや、私は法律など学んだことのない素人だが、こういう人が権威として存在する法律の世界というのはいったいなんなんだろうと思わずにはいられない。

しかしながら、、、
それもこれも、すべては独裁権力が戦後、コツコツと打ってきた布石の結果なのだろう。

最初に触れた争議の映像では、警察と資本の密着ぶりが余すところなく描かれているわけだが、いま東京電力もあれだけの破局事故を起こしながら、何一つ罪に問われることもなく、本社の周辺は警察によって守られている。
それもそのはずで、平岩外四、那須翔といった東電の歴代トップは国家公安委員をつとめている。つまり東電という会社は国家権力と直結しているのである。
いま、脱原発側はそういう企業を相手にしている。

先日の脱原発デモでは少なからぬ逮捕者が出た。また、佐賀県庁へ抗議に行った山本太郎が建造物侵入で告発されるということもあった。これに対してネット上では批判の声が上がっている。もちろん声を上げることは大切だが、しかしこのようなことはあちらからすれば序の口で、どんな手を使ってでも弾圧してやろうと手ぐすねを引いているはずである。
しかも、かつてのように最後の砦である司法にもまったく期待できない、どころか状況さえあればまったくの冤罪をでっち上げられる可能性がきわめて高い。
いま私たちはそのような状況の中にいるわけだ。
では、この権力の決意に対して、こちら側はどのように対抗すればいいのか。
最近、私は、ただ大人しく行儀のいいデモをやっているだけでは、もはやダメなのではないかと思い始めている。

※まったくの余談
かつて大日本愛国党の赤尾敏という右翼の大御所がいた。いつも銀座・数寄屋橋の交番の前で辻説法をしていたのだが、もしこの赤尾先生が生きていれば、私はきっと数寄屋橋から東京電力本社の前に街宣車を回していたと思う。今考えると、赤尾敏という人は、もちろん多くの面で私とは考え方が異なるが、しかし立派な人だった。

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2011/09/26

「陸山会事件」判決 ~ マスメディアは「西松事件」に遡って総括すべきである(追記あり)

本日午後、「陸山会事件」の判決が出る。マスメディアは「陸山会事件」と表記し、主に石川知裕衆院議員を中心にした報道をしているように見受けられる(あくまでザックリした印象だが)。
しかし、この事件のそもそもの発端は「陸山会事件」ではなく、「西松事件」なのである。
2009年の3月、小沢一郎の秘書である大久保隆規氏が逮捕、起訴された。
時、あたかも政権交代を賭けた大一番の衆議院選挙前。
民主党代表は小沢一郎であり、何事もなければ総理大臣の座は確約されていた。
そこに起きたのが「西松事件」であった。
マスメディアはこれをきっかけに小沢の責任論を展開、総力をあげて「辞任すべき」という論陣を張った。
当時、有力とされる「政治記者」はこぞって「政治とカネの問題=小沢」とはいう印象操作に狂奔し、新聞記事のリードには、小沢という固有名詞の前にしばしば「西松事件で秘書が逮捕された……云々」という形容詞をつけていた。

たとえば、以下は2009年3月10日の日経の社説である。

*****
 政治の現状にあきれ果てた。これが大多数の国民の実感だろう。経済危機が一段と深刻になっているのに、政治は機能不全に陥っている。日経平均株価は終値ベースでバブル経済崩壊後の最安値を更新した。
 西松建設の巨額献金事件で公設第1秘書が逮捕された民主党の小沢一郎代表への批判が強まっている。先週末に共同通信など各報道機関が実施した世論調査では、辞任を求める声が5―6割に達した。8割前後の人が小沢氏の説明は「納得できない」と回答している。
 麻生政権への視線も厳しい。大きな「敵失」にもかかわらず、内閣支持率は10%台に低迷。世論から不信任を突きつけられたままだ。
 私たちは来年度予算成立後の衆院解散を求めてきた。世論調査の結果は、国民が自民、民主両軍にピッチャー(党首)を代えて決戦に挑む覚悟を求めているようにもみえる。民主党も自民党も危機管理能力を問われており、政治のリセットに向け早急に態勢を整える必要がある。
 民主党内では小沢氏の代表辞任は避けられないとの見方が広がっている。小沢氏は身の潔白を強調しているものの「個々の一つ一つの献金についてはわからない」と述べるなど、説明にはあいまいな点が多い。
 小沢氏は秘書が起訴されることはないとの見通しを示しているが、この前提が崩れれば政治的、道義的な責任は免れない。次期衆院選への影響も含め、民主党は小沢氏の進退問題で賢明な判断が求められる。
*****

あるいはこんな記事も。

・ザ・ジャーナル 岸井成格
小沢秘書逮捕と見るに堪えない政局

さて、ではこの「西松事件」はどこへ行ったのか? すでにこのブログでは何回も書いてきたことだが、なくなってしまったのである。
検察は大久保氏を逮捕、起訴して公判に持ち込んだが、その過程で、なんと検察側の証人が検察の描いた構図を否定する証言をし、結果、検察は窮地に追い込まれた。
そこで勃発したのが「陸山会事件」であり、石川議員とともに大久保氏も再び身柄を拘束された。そして、大久保氏の公判は「西松」から「陸山会」へと訴因が変更されたのである。
しかして、、、
本日の判決では、大久保氏は無罪と言われている。
また、石川議員についても、JNNの大スクープがあったにもかかわらず、それが公判に影響を与えたという話は一切ない(↓動画の3分50秒あたりから)。石川氏の場合は執行猶予付きの判決も予想されているが、実質的には無罪といっていいだろう。


asazuba3 投稿者 thinkingreed

つまりこの2年間の小沢をめぐる「政治とカネの問題」というのは、何の実態もない印象操作、言論操作だったのだ。にもかかわらず、検察審査会による強制起訴議決の末にこれから始まる小沢公判は、この「陸山会事件」の延長線上にある。
いったいこの状況はなんなのか?

歴史に「たら、れば」は禁物だが、もし「西松事件」というでっち上げがなければ、小沢一郎は総理大臣になっていただろう。そして、おそらくは「国民の生活が第一」の公約を実行し、昨年の参議院選挙でも勝利をおさめ、政権は安定したものになっていたはずだ。
そしてまた、もし小沢が総理であったならば、3・11後の、とくに福島第一原発破局事故への対応もまったく違ったものになっていたものと思う。
その意味で、この2年間、政治を不必要に混乱させて国民生活を悪化させ、しかも原発事故での人災的側面を拡大させた張本人は、突き詰めれば検察とメディアだと私は断言する。
にもかかわらず、その張本人たちが↓のような与太話をしているのだから、呆れる他はない。

・おーい、とらちゃん出番だよ!
「対談」橋本五郎・星浩・飯尾潤 なぜ、「政権構想」はここまで空虚になったのか。(鍋常のゴミと、朝日のゴミに、言われたかぁ~ないってもんだ~♪)

いま、「西松事件」→「陸山会事件」の総括を求められているのはマスメディアである。

***************

以上、ここまでは本日、午前中に書いたものである。
そして午後、判決が出た。
結果は3人の秘書、全員が有罪。

これを受けて早速、朝日新聞は、小沢一郎についても「政治的責任」を問う姿勢を示している。

つまり、私の予想は外れたわけだ。
が、しかし、だからこそ私はこのニュースを聞いて慄然とせざるを得なかった。

そもそも、この公判の論告は↓のようなものであった。

・郷原信郎 TwitLonger

郷原氏のこの文章を読むと、氏は少なくとも司法はまともな判断を下すだろうという予想の下に特捜検察批判をしている。ところが、判決はそうではなかった。
私はここに、これまで一応、戦後の日本が装っていた法治国家やら民主主義国家といった素振り、建前をかなぐり捨てた独裁権力の意志を見るのである。
そして、この小沢一郎への弾圧から東京電力の救済まではすべてつながっている。
片や総理の座を目前に冤罪をでっち上げられ、片や人類史上最悪の放射能災害を引き起こし、それが今も続いているにもかかわらず、その会社から一人の逮捕者も出ることはない(しかもこの会社が発表はウソとデタラメだらけである)。これらすべては権力の意志によるものに他ならない。
検察批判のデモを主催すれば痴漢冤罪の罠が待ち受け、電力会社へ抗議に行けば逮捕される国。
しかも、ほとんどの国民がそれに対してさしたる疑問も持たず、わが身にも放射能が降りかかっても怒らない国。
ニヒリズムなのか、はたまた岡庭昇氏が指摘するようにエゴイズムの極なのか、、、
2011年9月26日は、かくも奇天烈な国に生きているということを再確認した日なのであった。

そしてもう一つ。
これから反原発や反検察の運動しようという人たちは、相手が恐るべき独裁権力であることを、まず心にしっかと刻み込み、根性を据えてから行動を起こしていただきたい。


参考リンク
小沢秘書逮捕報道~いま問われているのはメディア自身である

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2011/09/18

TBSに抗議した東京電力の意図

私が広告営業をしていた頃、主に担当していたのは週刊誌だったのだが、雑誌広告において最初にネット広告の影響を食らったのは、この週刊誌という媒体だった。つまり、少なからぬクライアントが週刊誌の予算をネットへ回したのである。
大きなクライアントが抜ける穴埋めというのは、それは大変で、新たなクライアントを見つけてくるというのは至難の業。それでも予算を作らなければならないので、結果、安売りするという方向へ走ってしまったものだった。
そんななかにあって、当時、ありがたかったのは消費者金融の広告だった。というのも、消費者金融というのは値引き率が低い、つまり高い金額で広告スペースを売ることができたからだ。各号の広告予算表といつも睨めっこしていた私は、消費者金融の広告が入っている週は、「あまり心配しなくていいナ」と思っていた。

ところが、ある時、そのうちの一つの大手消費者金融で大きなスキャンダルが出てきて、事件になる気配があった。
もし、事件になれば、週刊誌としては取材して伝えなければならない。それは当たり前のことだが、広告担当者としては、その消費者金融の広告と事件の記事が同じ号に載る、いわゆる「記事同載」だけはどうしても避けたかった。
広告掲載のある号は事前にわかっているので、もし事件が起きてしまったらその後の広告は差し替えればいいが、問題は広告掲載号の編集中に事件が起きてしまうことだった。
当時、この雑誌のカラー広告の校了は水曜日。しかし、モノクロ記事の最終締切は土曜の夜だった。つまり、カラーページの方が印刷が早い。そして、この広告はカラーだったので、木曜から土曜の間に事件が起きてしまうと、「記事同載」になってしまう。当時はこれに随分と気を揉んで、印刷所とも相談したりしつつ、いろいろとシミュレーションしたものだった。
ま、結局のところ、事件化は広告掲載号と関係のない週だったので、いらぬ心配だったのだが、ではなぜそれほど気を揉んだのか。正直に言えば、この事件が終わってほとぼりが冷めれば、また広告の出稿があるかもしれないという思いがあったからだった。

このように週刊誌の広告営業というのはニュースに敏感である(これはニュース部門のある媒体社ならどこも同じだろう)。
私のいた会社では、ファッション誌の広告の比率が高く、それに比べると男性週刊誌の広告売上げなどというのは大した金額でなかった(といっても書籍の売上げ、利益と比較するとそれなりに大きかったが)。したがって、多少、売上げを落としても咎められることはほとんどなかったのだが、ただ日々の営業活動とともに、週刊誌担当にはもう一つ大事な仕事があった。それは編集内容のチェックである。
これには2パターンあって、一つは大きなクライアントの「危ない記事」がないかの自主的なチェック。たとえその週刊誌に広告出稿がなくても、他の雑誌で大きな取引のあるクライアントというのはたくさんあるわけで、そのクライアントのネガティブな記事が出ていないかどうかのチェックは重要なのだ。
そして、もう一つは広告代理店から記事チェックの依頼が来るケース。
たとえば、このようなメールが来る。

**********
題名:〇〇社(←ここに企業名が入る)記事チェックのお願い

お世話になっております。
表題の件、〇〇社関連の記事チェックのお願いです。

本日の〇〇新聞 朝刊1面に、「×××」という記事が取り上げられています。

下記は既にWEBには出ており、雑誌でも掲載が確認されているものもあります。

来週売りで掲載予定がありましたらご連絡いただけますでしょうか?

お忙しい中お手数をお掛けいたしますが、
何とぞよろしくお願い申し上げます。
**********

では、上記のようなメールにどう対応するのか。
この「〇〇社」というのが自社とまったく関係ない場合は突っぱねる……と、もちろんそれが基本ではあるが、代理店に一つ恩を売っておこうということで、掲載がなければ「なし」と伝えることもある。ではあった場合は? これは難しいが、すべて校了してから発売までの間に「あるみたいだな」と伝えることもある。
その他、本当にケースバイケースであるが、つまりそういうやり取りを、媒体社の営業と広告代理店が頻繁にやっていることは事実だ。

さて、前ぶりを長々と書いてしまったが、、、
数日前、東京電力がTBSの放送したスペシャル番組に抗議をしたという。

・9月11日放送 TBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」における報道について

↓がその番組。


20110911 原発攻防180日の真実 故郷はなぜ奪われ... 投稿者 PMG5


20110911 原発攻防180日の真実(2) 投稿者 PMG5

私はこのニュースを見た時、もちろん「さすが東電、傲慢なことこの上ない、第一級の国賊会社だナ」と思ったが、同時に「これはTBSだけでなく他局や他媒体の広告担当者には意外に効果的かもしれないナ」とも思った。
つまり東電のこの抗議の隠された意図は、広告関係者へのプレッシャーであり、「こういう内容の放送をしていると、もう広告は出さないよ」というメッセージなのではないか、と。
もちろん、これは私の単なる推察であるが、現在のメディアの状況を見ていると、あながち的外れではないと思う。
少なくとも、東京電力が広告代理店を通じて、各メディアの報道を逐一チェックしていることは間違いないだろう。

つまり、、、
この会社は原発の危機管理についてはまったくもって無能だが、自社が存続するためならどんな手でも使う、そういう意味での危機管理は万全の会社なのである。

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2011/09/15

『週刊岡庭昇 29』 ~ 「一億総懺悔体制が確認された」

順不同ですが、「週刊岡庭昇29」、「一憶総懺悔体制が確認された」を転載します。

**********
週刊岡庭昇 29 ~ 一億総懺悔体制が確認された
(2011.7.2記) 

 2011年7月1日のNHKのニュースウォッチ9は、いざというときは体制維持のため、国民の感性操作に邁進する同局の本質を改めて確認させた。
 一般的に言ってNHKの内容が、民放と比べけしからんなどとはまったく思わない。それどころか、ここ十五年ほどの民放の呆れるはどの退廃は、かつてTBSのドキュメンタリディレクターであったわたしなど、そういう事実自体を隠したいほどだ。相対的に言ってこの民放の堕落と比べれば、もはや聴率料拒否の理論など成り立たないので、20年位前からちゃんと支払っているほどだ。
 報道以外では『ダーウィンが来た!』や『世界ふれあい街歩き』など立派な番組があるし、最近の東北大震災を題材にしたドキュメンタリにも良いものがあった。そのことは十分認めたうえで、ああ忘れていたが、NHKは第二次大戦以来、官僚独裁がいざというとき宣伝するメディアなんだな、と改めて確認させられたのである。
 戦時下の大本営発表は、事実と違うことをたれ流した点で批判される。それはまったくそうなのだが、それだけというところに、物を考えないこの国の怖さがある。問題はその点なので、考えること自体に対してわれわれが無気力に陥ることなのだ。
 事実と違う大本営発表は、そのことで、人間にはそれぞれの立場があって、その対立や融合の上に選ばれた結果として現実がある、という原則を無化する。これが大事なのだ。まるで季節のように検討を経ない現実が自明にやって来て、「選ぶ」のではなく「対応」だけが、行動として「自然」だと強制される。それが、この国である。抜き難いこの国の倒錯であり、この倒錯した本質に気付きようもない諸外国は、信じられないくらい紳士的な人々だと驚嘆する。
 いよいよ夏。われわれは節電に協力しなかればならんのだそうだ。でも、なぜ? いやなぜという問いすら、お目にかからぬのはなぜ?
 ごく常識的な問いを、二度、三度繰り返して置こう。①は、東京電力とわれわれ国民の関係は、説明するまでもなく加害者と被害者である。加害者が威張って被害者に電力供給に協力しろと命令している。なんでこんな横暴が、まかり通るのか? 常識的なわたしには理解出来ない。
 ②は故・高木仁三郎もつとに指摘しいていたことだが、原発がなければわれわれは停電生活を余儀なくされるという電力企業の脅しは、誰が、いつ、どういうデータに基いて客観化したと言うのか。高木は既存の火力発電を一部止めて、原発が必要な状況を電力自らが虚構していると明確に述べたが、いつ電力企業は客観的に高木を論破したのか。原発再開に当たってこの論議を棚上げするなんて、許されることか。
 2011年7月1日のニュースウォッチ9は、別に手間暇掛けた陰謀を仕込んだわけではない。さりげなく、夏が来たぞ、電力供給が大変だから、みんな協力しようと言っただけである。そして「だからこそ」それは、最高度の言論操作であった。
 わたしが言うところの、真の意味での大本営発表を実現した。自ら「考えること」を、現象に対置するのではなく、季節に対応するように「対応」することで、事態は糾弾されることなくやり過ごされ、悪はまんまと延命したのだ。
 かくて一時少しは揺らいだかに見えたメイファーズ日本は、また「動かぬ欺瞞の自然」にもどった。戦争に負けても「敗戦」とは言わず「終戦」とする政治が、結局は戦後史を征したのと同じである。雨が降り止んだのと同じように1945年8月15日に戦争は止んだのであり、誰も何処にも責任など取る必要はなかった。ただ国内外の運の悪い人が、ひどい目にあっただけだった。そう言えば谷川雁の詩に、「ギナノコルガフノヨカト(残った奴が運の良い奴)」というのがあったな。
 さあ一億総懺悔して、つまり誰も悪くはなかったと確認して、もとのメイファーズに戻ろうと、「自然」の家元であるNHKは宣告した。震災も原発のいかがわしさも、「節電」というコピーのもと初夏の風物詩と定められたようだ。めでたきかな無思想、無主体、無気力の集大成である「自然」! ああ恐ろしきかな、メフィストフェレスより暗黒のわが「自然」!
 自らの世界観に立脚した、自らの判断に基づく、自ら共働による社会など想像もつかないメイファーズ日本人は、おとなしい仮面の背後で、本当はエゴイズムの極なのかも知れない。かくて誰も責任を取らない、一億総懺悔体制はまたもや不滅である。震災以来1パーセントぐらいは、この国の人々も「考える」かと期待して来たが、またもやこのビッコの老人の挫折は必然だった。もう電力についても、核についても、語りたくはない。あんたの勝ちだよ。

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2011/09/13

『週刊岡庭昇 32』 ~ 「風評被害という呪文」

以下は岡庭昇氏が限定6部(!)で発行している『週刊岡庭昇』からの転載です。
『かくもさまざまな言論操作』の発売を記念して、これからいくつかの『週刊岡庭昇』を転載していきます。

**********
週刊岡庭昇 32 ~ 風評被害という呪文
(2011.7.18記)

 風評被害という言葉について考える。
 結論をはじめに言っておくが、風評被害とは体制が(つまり官僚独裁が)、隠し通して来た情報が明らかになろうとするとき、それを是非もなく(つまり根拠を示さず)打ち消す暴力的なムード言語である(というように、かねてわたしの邪推は定まっている)。
 わたしは、1980年代を中心に、ハマチ産業等の薬漬け養殖、無茶な減反が生んだ米不足、つまり年間に国民が消費する標準米が決定的に足りなくなった事実と官僚による隠蔽、隠蔽の延長上に、危険を含む飼料用米を学校給食に送り込むなどの国家犯罪の疑いや、学校建築にアスベストが多く使われている事実と、その対策はなし崩しになったのではないかという疑い、さらに原発にマルタン(炭鉱離職者)を送り込むシステムが、労働手配師と電力が組む陰謀としてあったと推断せざるを得ない事実等、制度としての情報とか報道とは、すぐれて「情報隠し」のためにあるのではないかと思いつつ、その証拠のようなTVドキュメントを世間に届けた。
 老人の手柄話をやりたいのではない。25年からの日月が経って、いったい何が改善したのかと溜め息を吐いている。この嘆きは、いま挙げた例からも、一見して明らかであろう。お前は結局、いまでも通用すると威張ってる? それは手柄ではなく、紛れもなく悲嘆なのだ。わたしのドキュメントは、ただわたしを虚無主義者にしてくれただけだった。おかげでわたしは、高級な虚無哲学者として、銭ゲバ日本の現実に興味を持たなくなった。
 ただ恐らくは官僚独裁からのカウンターパンチとして、90年代に「風評被害」という言葉が作られたことは鮮やかに覚えている。「TVと気分を重ねた」ムード言語に支配される日本では、これで独裁は完璧に勝利を納めるだろうと思ったのである。「意外な事実」がもし暴露されても、「風評被害」という言葉の名人芸によって、是非もなく粉砕するだろう、とわたしはつくづく感心して、さらに現実から虚無の方向へ去ったのである。
 東北関東大震災は、久し振りにこの「言葉の政治」を思いださせてくれた。まず「風評被害」という言葉は使わなかったが、原発爆発に対する、「諸外国の過剰反応」という言葉がいっせいに日本の隅々まで流布された。しかし諸外国といえども、特派員は多くの国が日本に置いているのである。奇妙な言い方をするものだと思っていたが、隠し切れずにいまやあきらかになったさまざまな、かつ一部の事実だけでも明らかなように、事実を伝えたのは諸外国のマスコミだけだった。
 この虚偽に乗っかって、「風評被害」という悪魔のキーワードが大活躍する。原発事故の現場の野菜や魚に放射能被害が出ても、安全なものもあるのだから、ひっくるめて言うのは風評被害であるというように。しかしわれわれはクイズをやっているのではない。正解が決まっている環境問題などというものはない。危険な「可能性」が現実に存在するとき、「風評被害」などという批判は原理的に存在しないのである。生命・身体にとって、悪魔はこの「悪しき可能性」なのだから。
 現に汚染の確認は、いまだ後から後から続く。「風評被害」などという魔法の呪いでは、現実は救済されないのである。農民や漁民のふってわいた不幸を断ち切ろうとする努力は心情として当然のことだ。しかし農民や漁民はただ被害者なのであり、事態に責任を取ろうなどと考えるべきではない。一億総懺悔路線を刷り込んで、独裁はまたごまかそうとしているが、これは紛れもなく東電の犯罪であり、徹底して加害者東電から損害を支払わせ、全部資産を吐き出させた後は(あくまでも後だよ)国家に引き継ぐべきである。「悪しき可能性」という事実を懸念する者に、「風評被害」という汚名を投げ付け、ちょとやそっとで回復しない土地での農漁業の回復を焦るなどは、真犯人をうやむやにすることにもなりかねない。
 風評被害という言い方がマスコミに登場したら、まず警戒することだ。独裁に都合の悪いどんな事実が、今回は隠されているのだろうかと。

Gwngos

かくもさまざまな言論操作
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戦後日本の思想

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011/09/12

鉢呂辞任と柳田辞任の共通点

今回の鉢呂経産相の辞任騒動を見ての私の第一印象は、柳田稔が法務大臣を辞めた時に酷似しているナということだった。

といってもすでに忘れかけている方々も多いだろうが、菅内閣の法務大臣だった柳田は、第一次菅内閣の法務大臣に就任したが、それからわずか2カ月ほど後に行なわれた地元での大臣就任祝いのパーティの席上での発言をマスメディアが失言として大々的に報道したことで辞任に至った。

その柳田は法務行政については確かにまったく素人だった。だが、それを言うなら歴代の法務大臣にも素人はたくさんいたし、たとえ玄人でも官僚の軍門にあっさりと下る人間もいる(たとえば千葉景子)。そもそも、大臣に求められるのは知識よりも見識であろう。

・千葉景子、死刑を執行 ~ 霞が関の高笑いが聴こえる

そこで柳田であるが、彼は当時、村木厚子氏の冤罪事件でその威信が地に堕ちた検察を立て直すべく、「検察のあり方検討会議」を立ち上げて、そこに郷原信郎、江川紹子といったメンバーを入れた。つまり、それなりの見識で検察改革に「やる気」を見せていたわけだが、その途端に「法相は国会答弁では二つ覚えておけばいい。『個別の事案については答えを差し控える』と『法と証拠にもとづいて適切にやっている』だ」という、どこが悪いのかさっぱりわからない発言をマスメディアにピックアップされて辞任に追い込まれたのであった。

・柳田失言騒動に対する違和感の正体

そこで鉢呂に話を戻す。
私は「死の街」発言にしろ、本当はどのような表現をしたのかいまだに曖昧な「放射能をつける云々」の発言にしろ、そんなことで辞める必要はまったくないと思っていたが、辞任の記者会見を見ていた人のツイートの中には、「こんなことで辞めるということは、所詮、その程度の人物だったということ」という主旨のものも少なくなかった。そして、その気持ちも私は非常にわかる。
鉢呂は社会党出身ということだが、辞任会見を見ている限り、確かに政治家として信じた道を貫こうという胆力が不足していることは否めない。
しかし一方で、柳田の時と同様、鉢呂もまた原発に対して、現職の国会議員のなかではかなり真っ当な部類に属する見識を持っていたこともまた間違いない。
(↓ブログで紹介されているツイートも是非、参照されたい)

・晴れのち曇り、時々パリ
マスコミ独裁暗黒国家『ニッポン』。閣僚を怒鳴りつけるチンピラ記者が支配する国。もはや戦争だ。

・スロウ忍ブログ
鉢呂経産相が不適切発言の責任を取り辞任。マスゴミによる揚げ足取りに負けた脱原発派議員。

・河野太郎ブログ
無念の経産相、辞任

そして鉢呂は経産相に乗り込んで、その見識を披露した瞬間に、マスメディアによって大バッシングを受けて辞任したわけだ。まさに柳田辞任にソックリである。

それにしても、↓の会見映像での記者連中の傲慢さは呆れるしかない。とくに15分あたりからは田中龍作氏のブログにも書かれている通りである。

・田中龍作ジャーナル
鉢呂経産相辞任 記者クラブに言葉狩りされて









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この会見を見てわかるのは、3・11の地震直後、福島第一原発の原子炉がおかしくなり始めた時点で現場からの全面撤退をしようとした、つまり後のことは知ったこっちゃないということで逃げ出そうとし、それができないとわかると、今度は自分たちに責任ができるだけ降りかからないように、これまで以上にウソとデタラメをまくしたて、出さざるを得ない資料は黒で塗りつぶすという、そういう大犯罪企業に対しては何ら責任追及をしない連中が、その大犯罪企業を真っ当に監督しようとしている大臣の首をとって喜々としていることだ。
ということは、つまりマスメディアも大犯罪者側の紛れもない一員なのであろう。

さて、そして――。
後任の経産相は、原子炉がメルトダウンしているにもかかわらず、「ただちに影響はない」と言い続けて電力会社を泣いて喜ばせた“あの枝野”だという。
柳田の後の法務大臣が“あの仙谷”だったことを考えると、今回もまったく同じパターンだと言えるが、それだったら最初から枝野を経産相にしておけよとも言いたくなる。
実はそうせずに、なぜ野田がわざわざ最初に原発に慎重な人間を経産相に据えたのか、その真意が私には測りかねたのだが、ひょっとして内閣発足の頭から前官房長官の枝野を起用すると叩かれるということで、反原発でうるさい鉢呂を潰してから枝野を起用しようというシナリオが最初からあったのかもしれない。
とこれは自分で書いていても相当にうがった見方だナと思うが、もしこれが当たっていたら、霞が関をバックにした野田という男は相当に手強い。

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2011/09/10

「鉢呂叩き」という情報操作

鉢呂経産相に進退問題が浮上しているらしい。

経産相発言 民主党内に進退論議

野田内閣という、ほとんど期待していない政権にあって、「基本的に原発はゼロになる」と述べるなど、珍しく原発に対してまともなスタンスをもった経産相が起用されたと思ったら、案の定のバッシングが早速始まったということは、野田が組閣の際にバランスを気にするあまり起きてしまった手違いということなのかもしれない。

【新閣僚に聞く】鉢呂吉雄経済産業相 原発、基本的にはゼロになる

こちらの記事で、広島県知事が「見通しもなく言っているのは問題だ。普天間問題を思い出す。何を学んでいるのか」とわざわざ「普天間問題」を出してくるあたりは、権力の露骨な真意のあらわれといっていいだろう。

そもそも――
福島第一原発を視察後に「市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形だった」という感想を述べたことのどこが問題だというのか?
自民党の大森理森は「被災者の気持ちを傷つける言葉を吐くことは許されない。閣僚として、失格に値する」と述べたそうだが、福島第一原発の破局事故によって周辺の地域が「死の町」になってしまったことは事実であって、つまり原発とはそういうものなのである。
ところが、そのように原発周辺の市町村を人災によって「死の町」にしてしまった東京電力の責任を一切追及することなく、原発が破局事故を起こした際の印象を率直に述べた人間を糾弾しているのだから、本末転倒も甚だしい……というよりも、大島という男がそもそも誰の代理人なのかをあからさまに示していると言えるだろう。

また「放射能をうつしてやる」発言についても、注意が必要である。
たとえば読売新聞は↓のように書いている。

鉢呂経産相「ほら放射能」…党内に進退論

しかし一方で、本日の東京新聞によれば、この発言をしたかどうかを問われた際、鉢呂は「さだかではない」と言っている。
もちろん、マスメディアはこれをして、「ごまかし」とバッシングするわけだが、おそらくそれに近い行為をしたことは事実なのだろう。
しかし、事実と真実は異なる。つまり、そう発言した一片の事実が全体の真意であるとは限らない。どころか、往々にして異なっている場合が多い。ところが、その事実をあたかも真意のごとく騒ぎ立てるのがマスメディアの常套手段である。
したがって、おそらくこのケースも、いつもの通り、マスメディアにとって「使える」ワンシーンを切り取って騒ぎ立てているのではないか?というのが私の推測なのである。

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2011/09/09

1997年3月11日

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 事態が教えるものは、あまりにもはっきりしている。この程度の基本的、初歩的な事故を起こしうる設備がそもそも原子力発電所なのだ、ということだ。これにつけ加える、どんな理屈も不要だろう。
 この場合も、あたりまえのことをあたりまえといい切ること、すなわち常識こそが大事なのではないだろうか。危ないものを危ないと感じて、危ないものはやめようと提案し、危ないものに執着する論理は成り立たないと、ごくごくまっとうに考える市民の発想以外に、本来「原発論議」は存在しないなずなのだ。
 なぜそれなのに、あまりにも事態は「ほんらい」ではなく、「あたりまえ」ではないものがまことしやかに存在してしまうのか。むしろ「あたりまえ」を、そのにぎやかさで圧倒してしまうのか。むろん、それこそが情報帝国主義の、情報帝国主義である証拠なのだ、といってしまえばそれまでなのだが。
 原発は、いわば「国是」である。「国策」なのである。そして、それが国策であるかぎり、それについての情報はまったく市民に知らされず、それに対するあらゆる疑念自体が認められない。それは、まさに国策であるゆえに存在理由を持つのであり、そこに懐疑も、検証もあってはならないのである。それこそが一党独裁の強いる現実にほかならない。国策であるならなおのこと、十分な検証が必要なはずなのだが、むろんそういう「まとも」は、そこでは通用しないのである。
 危ないものを危ないと感じて、危ないものをやめようと提案して、危ないものに執着する論理はあり得ないとするところの、「まっとうな」市民感覚は、原発をめぐって存在を許されなかった。情報帝国主義は、さまざまな手だてをもって、それを押さえ込んできたのである。
 そのひとつに、原発を危険だなどというのは、科学的な無知のしからしむるものにすぎない、という「理屈」がある。これはけっこう有効な詭弁だった。この「理屈」は、「危険性などはない」という結論を、「無知」呼ばわりと引き換えにきめつけるけれども、その「無知」が納得するようには説明してくれるわけではなく、ただ懐疑は無知の結果であると、決めつけるだけなのだから。
 たとえわれわれ市民が、科学的な専門性を持たないのは事実だとしても、そしてそのかぎりでは「無知」であるのが事実であるにしても、それを「無知」呼ばわりすることで懐疑を嘲笑し、否定した論議は、ついに懐疑のなかにある無知を、懐疑を超えたところの「納得して安心した知的認識」に転じさせることができなかった。そんなにも、説得力のない専門性などというものがあるだろうか。
 はっきりいって、このきめつけにあったのは、論理でも専門性でもなく、ただ「無知」という高飛車な罵倒で、懐疑自体を封じ込める「政治」なのであり、そうである限り「無知」が正当に感じている懐疑や危惧に対して、「無知」よりはるかに非論理的であることははっきりしているのだ。
 さて、だからこそわたしは、さきの指摘にこそここでもどらなければならない。すなわち、この程度の基本的、初歩的な事故の可能性を持つのが、原子力発電所というものなのである、という指摘に。
 科学的な知識が、それだけで認識の優越性を保証するという考え方自体が意味を持たないが、それ以上にここでの皮肉な結論は判然としている。懐疑や危惧を無知呼ばわりした、科学的に優越している立場が、少なくとも専門家としては、この程度に基本的で、初歩的な事故を起こしてしまったのだ。つまりは、非専門家の「無知」が感じた懐疑や危惧こそが、じつは正当に事態を認識していたわけなのだから。
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株式会社志木電子書籍より岡庭昇著『かくもさまざまな言論操作』を発売した。
上記の引用は同書の『「国策」はどのような「許容」をも許容しない』という項の一節である。

Gwngos

かくもさまざまな言論操作

この引用の冒頭で指摘されている「事態」とは1997年に茨城県東海村にある旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)の再処理工場で起きた爆発事故のこと(ちなみに「もんじゅ」を開発したのもこの旧動燃である)。
今回、こちらのブログのエントリーを書くにあたって、この事故のことを検索して驚いた(つまりは気づいていなかったということでもあるのだが)。
その日付というのが3月11日なのである。つまり本年3月11日から遡ること14年前の同じ日に東海村で重大な事故が起きていたわけだ。
驚くことは、この事態に対する岡庭氏の指摘が、今日の福島第一原発事故と寸分の狂いもなく符号することである。
つまり――
日本の原子力政策というのは、どのような事故が起きても一つも反省することなく継続されてきたということだ。
後世の人たちが、この歴史を振り返った時、「もしもあの時に原子力政策を見直していれば……」という、その「もしも」のタイミングは一つや二つではなかったろう。しかし、そのすべてのタイミングにおいて、「事故」は「事象」と言い換えられて、何一つ変わらぬまま日本の原子力政策は官民一体となって暴走してきた。
そして行きついた果てが2011年の3・11だったわけだ。

「原発をやめろというならば、その前にクルマの利用をやめろと言え。原発事故の死者はいないが、交通事故の死者は年間5000人だ」というような与太を言う人間が今でもいるそうだが、そういう輩はずっと昔から存在していた。
つまり、原発というのは事故を起こしても大したことはないのだから、どんどんやれということなのだろう。
そもそも、今回の福島第一原発事故の死者がいないというのもまた言論操作の一環だと私は考えているが、一万歩譲ってそれが事実だとしても、それは事故を起こした原発周辺に普段着の人間が近づいていないからというに過ぎないのである。
交通事故を処理する警官が防護服を着て作業をしているか? 現場に長時間いると危険だから入れ替わり立ち替わりの人海戦術をしているか? その事故現場には百年単位で人が近づけないなどということがあるか?
つまり、もう比較の仕方がまったく異なるのである。
にもかかわらず、原発を再開しろ社説でわめきたてている新聞社もあるそうだが、だまされてはいけない。すべては「言論操作」なのである。

※以下も好評発売中です。

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2011/09/05

『戦後日本の思想』発売! ~ 志木電子書籍からのお知らせ

本日、株式会社志木電子書籍より、久野収、鶴見俊輔、藤田省三著、『戦後日本の思想』を発売いたしました。
詳しくは↓をご覧ください。

・志木電子書籍
本日、『戦後日本の思想』発売しました!

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戦後日本の思想

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2011/09/04

マスメディアはなぜ思考停止するのか

9月1日の以下の朝日新聞の記事には驚いた。

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朝日がん大賞に山下俊一さん 被曝医療に貢献

日本対がん協会(垣添忠生会長)は、今年度の朝日がん大賞と対がん協会賞の受賞者を1日付で発表した。大賞には長崎大学大学院教授で、7月に福島県立医科大学副学長に就任した山下俊一さん(59)が選ばれた。チェルノブイリ原発事故後の子どもの甲状腺がんの診断、治療や福島第一原発事故による福島県民の健康調査や被曝(ひばく)医療への取り組みが評価された。2日に鹿児島市である「がん征圧全国大会」で表彰する。
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朝日新聞が何をしようが知ったことではない。しかし、最初にこの情報をとあるブログで見た時にはさすがにビックリして、おもわずツイッターで「何これ。ネタじゃないの?マジなの?」とつぶやいてしまった。が、その後、上記の記事を見て(もちろんネットで)、「ホントだったんだナ、それにしても朝日も堕ちるところまで堕ちたナ」と思わずにはいられなかった。
ま、ここで山下俊一について書くことは省くが、この人物こそは霞が関や東電の意を体して福島に送り込まれた男である。そういう人物を「高く評価する」ということは、まさに記者クラブという情報下げ渡し制度の中でせっせと権力の広報をつとめる御用機関の証明に他ならない。

その日の晩、私はメディア関係者が集う会合に顔を出した。そこには朝日新聞の社員も何人かいたのだが、そのうちの一人が「今日は朝から山下俊一のガン大賞のことで大騒ぎでした。まあ1カ月前からわかっていたんですけどね(笑)」と言っているのを聞いて、「ああ、やっぱり完全な確信犯だったんだナ」と思ったものだった。
その後、別の若い記者と名刺交換をしながら雑談をしている折、アルコールの勢いもあって思わず私が「それにしても山下の件にしろ何にしろ、最近の朝日さんはどうなっちゃったんですか?」と訊くと、その記者(女性だった)は、「まあ、うちにもいろいろな人がいますから」と別に気にとめる風もなく、むしろ「なんでそんなことを言うの?」という目を向けられてしまったので、早々にその場を移動したのだった……。

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ところで、このメディア関係者の集いの中で私がもう一つ感じたのは、全体に福島第一原発に対する危機意識が希薄なのではないかということだ。
現在進行形の福島第一原発の事故は、もはやチェルノブイリを越えて人類史上、誰も経験したことのない域に突入している。にもかかわらずメディア関係者の中で、そのファクターをきちんと織り込んでいる人は意外に少なく、誰もがなんとなく「事態は収束に向かっている」と思い込んでいるように見える。

もっとも、そう感じたのは別にこの日が初めてではない。
たとえば私の古巣の出版社は、リストラから1年を経て、そこそこの黒字を出したらしい。
それはそれで良かったと思うのだが(ただしその結果、大きな経営責任のある前経営者に退職金を払ったというのには驚いた)、聞こえてくるのは圧倒的に「広告が戻ってきた」という声である。ま、確かに私が在籍した最後の数年はものすごい勢いで広告の売り上げが落ちていたので、それがプラスに転じたというは朗報だろう。とくにこの会社の場合、女性ファッション誌の売り上げと広告が生命線なだけに安堵感は大きいはずだ。
だが――
それで安心していて大丈夫なのだろうかとも思う。
というのも、ブランドの新作バッグがどうしただの、着こなしがどうしただのといった編集内容の雑誌がこれからも永続的に売れる つまりそれらの雑誌の売上げの非常に大きな部分をしめる首都圏の読者が3・11以前のような生活にこれからも現を抜かしていられるとは私にはとうてい思えなのだ。
もちろん今は国もメディアも必死になって福島第一原発は収束に向かっているイメージを振りまいている。そのため、景気が悪いと言ってもファッション雑誌のビジネスモデルが存続できる程度の状況にはある。
しかし、一方で来年、再来年……と年を経るごとに、放射能による被害は恐るべき勢いで拡大していき、しかも、それがいつ終わるのかは誰にも予測がつかない。
確実に言えることは、小出裕章氏が言うように、3・11と前と後では別の世界になってしまったということだ。
が、今のところ私の古巣にはそういう危機感は皆無のようだ。無論、今や外から見るだけなので、本当の内情はわからないが、少なくとも経営陣が原発リスクのヘッジを真剣に考えているようには見えない。
そして、これは私の古巣のみならず、程度の差こそあれ、メディア企業に共通しているように思えるのだ。
その理由を考えてみると、突き詰めればこれまでの広告を中心としたビジネスモデルがあまりにも美味しすぎたがゆえ、今日の状況を迎えてもなお、そこから一歩も抜け出すことができずに思考停止に陥っているということではないかと思う。
マスメディアが福島第一原発の真実を伝えようとしないのは、もちろん権力による情報コントロールがあるからだが、深層心理の中に「これまでの美味しい生活を失いたくない」という願望があるからだと私は思う。
ただでさえインターネットの登場によって壊れつつあるマスメディアのビジネスモデルは、実は福島第一原発の破局事故によってさらに揺らいでいる。しかし、(あたかも原発において想定を越えた地震や津波を考えないことをしたのと同じように)それは考えないことにする、つまり思考停止に陥っているのが現在のマスコミなのではないだろうか。
朝日が山下俊一にガン大賞とやらを進呈してしまうのも、つまるところはその結果なのである。

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