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2008/07/04

トヨタは労働者の“溜め”を搾取して利益にしている

かつてトヨタ自動車は財界活動に熱心ではなかった。本社が名古屋にあるということもあったが、何よりも財界活動が“ムダ”以外の何ものでもなかったからである。
その分、自動車業界で財界活動に熱心だったのは日産だ。こちらは本社も東京だし、なによりも自動車業界の代表というような立場が大好きだったこともあり、トヨタにかわってせっせと財界活動をしていたのである。これはトヨタにとっても非常にありがたいことだったのだが、そうこうしているうちにトヨタと日産の差はどんどん開き、なかんずくホンダにまで追い上げられる始末。ついには財界活動にうつつを抜かす余裕がなくなる。
そうしたなかでやっとトヨタは重い腰を上げ、財界活動に力を入れ始める。もちろんそれはトヨタが押しも押されもしないナンバーワン企業になったからであり、もはや「財界活動はカネがかかるからやらない」というような勝手なことを言える立場ではなくなったからというのが一般的な解説なのだが、、、

先日の田中康夫のアクセスにゲスト出演していた湯浅誠の「反貧困」を読んだ。
このなかで湯浅が強調しているのは貧困が金銭や人間関係、あるいは精神などの“溜め”が失われることによって起きるということだ。
そしてこの状態というのは、小泉政権下ですすめられたいわゆる新自由主義的政策を抜きにしては語れないという。

その小泉政権にトヨタの奥田碩が強い影響力を持っていたことは誰もが知っている。あれほど財界活動に無関心だった会社が、なぜ時の政権にあれほどまでに関与したのか。
湯浅の本を読んだ後にそれを考えると、トヨタにはそうせざるを得ない理由があったということが見えてくる。
このブログでも何度も書いているように、トヨタの合理化、製造原価低減運動というのは、「乾いたタオルをなお絞る」と言われている。かつてはそれは人から来た手紙をひっくり返してメモ帳に使うことであったり、電気料金の安い日曜日に工場を稼働させることであった。あるいは1次、2次、3次という下請け会社に対してそれこそ“銭”単位でも切りつめることを要求して、それを積み上げていくことでコストを削減していったわけである。
が、その手法にだって限界がある。その時にトヨタが目を付けたのが、湯浅が言うところの労働者の“溜め”だったのではないだろうか。つまりここには合理化余力があると見たのだ。
しかしながらこの“溜め”を奪って自分たちの利益に置き換えるためには、政治的な影響力を行使しないと外すことのできないさまざまな“規制”があった。だからトヨタは財界活動に本腰を入れたのである。
そうして再構築した利益体質を御用学者や御用評論家は“強い”と褒める。しかし、このトヨタの強さはきわめて“特殊”なものであって、世界に通ずるような普遍性はまったくない。

先日、終わったサッカーのユーロ2008がなぜあれほど面白かったのか。それは今考えると、ヨーロッパの国々に(いろいろな問題があるとはいえ)十分な“溜め”が存在することと無縁ではないような気がする。
つまり本当の豊かさとは“溜め”の量が多いことなのだろう。

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