2012年7月24日 (火)

丸山邦男著
『遊撃的マスコミ論 オピニオン・ジャーナリズムの構造』
著者略歴&立読み版

書名: 『遊撃的マスコミ論 オピニオン・ジャーナリズムの構造』
価格: 840円

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著者: 丸山邦男(まるやま・くにお/1920-1994)
    ⇒ウィキペディア「丸山邦男

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立読み版PDFは、目次と本文第三章の「誤報・虚報・無報」の冒頭部分です。

「遊撃的マスコミ論 立読み版」PDF

※今回よりボイジャーでは「BinB store」での発売となります。
BinBとは電子書籍を読むための特定のアプリケーションは必要なく、ブラウザ上で電子書籍を読むことができます(タブレットやスマートフォンでももちろんOK)。画面も大変きれいです。
是非、一度、立読み版をご覧ください。
立読み版はこちらの「立ち読み」をクリック!


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2012年4月15日 (日)

大泉黒石著
『山の人生 上』
著者略歴&立読み版

書名: 『山の人生 上』
価格: 525円

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著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

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立読み版は、目次と本文の三節目にあたる「谷底の絃歌」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
※PDF版は画面左下「Scribd.の右隣りにあるアイコン[view in fullscreen]のアイコンをクリックすると拡大されます(画面を元に戻す時には、[Exit Fullscreen]をクリックしてください)。
文字は画面下の「+-ボタン」で拡大縮小します。ただしリフロー(スクロールしないで画面の範囲内で文字拡大していくこと)はしません。

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立読み版『山の人生 上』

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【立読み版】

山の人生 上

大泉黒石

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  目  次

上越アルプス──三国山塊の横顔──
紅葉の中をゆく──片品川渓谷──
谷底の絃歌
銀山平の今昔
駒鳥の唄──鬼怒川渓谷──
六字の題目
秋の夜の旅
雪の中の浮世
雪橇は走る
利根の深渓──湯の小屋の一夜──
石塔を剃る──狸を食うまで譚──
鷲の復讐
蝮の缶詰

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  谷底の絃歌

 上州と岩代の国境尾瀬沼(おぜぬま)からの帰りだった。片品川渓谷老神(おいがみ)温泉、白雲閣の湯槽(ゆぶね)に浸りながら、私の道連(みちづ)れは、山の怪奇について各自の経験を語合うのだった。この道連れというのは、東京から来た登山家で、私とは片品川渓谷で知合ったのである。こういったのは私、
「これも山の怪異というものでしょうか、国立公園候補地になっている尾瀬沼」
「知っています」
「あれから沼山(ぬまやま)峠を越えて東へ一里の山中に、矢櫃平(やびつだいら)といって、摺鉢の底みたような熊笹の原がある。ここは源義家に追われた安部惟任(あベこれとう)一族が、はるばる奥州から利根へ逃げ込むときに、矢櫃、鎧櫃(よろいびつ)などを埋匿(まいとく)したというので、矢櫃平の名称があるんだそうですがね。不思議なことは、只今でもこの笹原に足踏み入れると、方角の見当がつかなくなって、立往生する。御承知の通り、山の中で頼りになるものは地図でしょう。それがですよ。持っている地図の文字や線が消えてしまって、いつの間にやら、白紙になっている。だからどちらへ行ったらいいか、サッパリわからず、迷いに迷いながら、やっとのことで笹原を脱け出て見ると、また、いつの間にやら元の地図になっているんだそうです」
「ほう。本当ですか?」
「さあ。どうですかなあ。そういう話を知っておれば、尾瀬沼を訪ねついでに、行ってみるんでしたが、山を下ってから聞いたので、本当か嘘かわかりません。山の人たち……樵夫(きこり)や炭焼などの説によると、これは正しく滅亡した安部一族の幽魂、ここに留まって、埋めし宝を護るためになす業である、というている。怖れて近づかないそうです」
「しかしこういうことがあります。私の知っている山の温泉宿の二階座敷に、近ごろ女の幽霊が出たり、真夜中になると、床の下から嬰児(あかご)の泣声がきこえる、という噂が立ったんです」
「なるほど」
「噂は段々ひろがって、その土地の新聞にまで書立てられるほど、有名になった。温泉場の人たちの話によると、その温泉宿は、もと部落の者の墓地だったところへ建てたんだそうで、墓地の持主の娘が旅(たび)商人(あきんど)の胤(たね)を宿して、女の子を生んだ。父親が怒って嬰児(あかご)を里子に出して終った。娘は気が違って淵に身を投げて死んだ。父親は家をたたんで他国へ行っちまった。その家と墓地を無代同様に買ったのが、温泉宿の主人で、墓地のそばに温泉が湧いているもんだから、墓地を取り払って宿屋を建てたんですな」
「ははあ。幽霊の出る下地はありますね」
「実際、何か出そうな陰気な家でしてね。建ててから二十年近くになるというから、家も傷むでしょうが、天井を見れば雨の汚点(しみ)だらけ、廊下を歩けばミシリ、ミシリ軋(きし)むんです。以前そんな悲劇があったし、家が家だし、幽霊が出たって不思議じゃないんだから、女の幽霊があらわれるの、嬰児(あかご)の泣き声がするの、とそんな評判が立つと、世間には物好が多いから、こいつァ面白い、嬰児の泣声なんざ、聞こえなくってもいいが、別嬪の幽霊にはお目にかかりたいもんだ、というわけで、温泉の効果(ききめ)なんかどうでもいい連中が、どしどし押しかけて行く」
「ほう。出ますか。幽霊」
「へへッ。出るもんですか!」
「出なくっちゃ、お客が承知しますまい?」
「承知するもしないも、宿屋の方では、別嬪の幽霊がサービスを致しますから、御入浴にいらッしゃいなんて、言ったわけじゃなし、広告したわけではないから、幽霊が出ようと出まいと、知ったことじゃありませんよ。お客は大抵田舎の人たちだから、幽霊が出なければ、日が悪いと思って翌朝帰る。気の長いのは泊り込んでいる。お蔭様で客のなかった宿が、満員の盛況です。逆宣伝も巧く当るとこの通り。幽霊が出るとか、嬰児が泣くとか、噂を立てさせて置いて、知らん顔をしている主人、頭がいいですな」
「ははははは」
「矢櫃平もその手ではないかと思うです。矢の根などが出るそうだから、埋蔵物か何か掘っている奴が、登山家よけの禁厭(まじない)に、地図が白紙になるなんて、途方もないことをね」
「なるほど」
「自分で経験しないことには判らんけれども」
「それはそうです。経験といえば、今度の旅行で私は実に奇怪な現象……というか何というか……あなたの言葉ではないが、これだけは自分の経験だから、実際なんです。四万(しま)温泉から三国街道をぬけるつもりで、入込んだ雨見山(あめみやま)の谷。道には迷うわ、日は暮れるわ、谷間を彷(さまよ)うていると、山の斜面に朽果てた山小屋があったから、野宿する気で入込んで、寝ちまいました」
「ふむ」
「夜中に目が醒(さ)めると、何でしょう。宵会の座敷で芸者が、三味線ひいて唄い騒ぐような賑やかな物音が、真暗い谷底から聞えて来るじゃありませんか! この山奥に料理屋でもあるまいし、不思議に思って聞いているうちに、賑やかな音はパッタリ絶えてしまった。私もまたウトウト眠りました。翌朝やっとのことで、三国街道へ出ました。一軒の掛茶屋(かけぢゃや)に寄りますと、夜半の一件を思い出したんで、茶屋の爺さんに話したところが、私が迷込んだ雨見の谷は、三十六年前までは炭焼部落だったそうで、炭焼男を客に、越後三俣(みつまた)の美人が五人、谷底に小さい紅燈(こうとう)の巷(ちまた)をつくっていたが、大雪崩で家は潰れ、彼女たちは惨死した。私が闇の底に聞いた三味線や唄声は、女たちの亡霊がなす業だろうというのです。話を聞いてからゾッとしましたよ。ははははは」

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2012年3月31日 (土)

日本初の女流探偵小説家・大倉燁子(おおくら・てるこ)
幻の長編小説『殺人流線型』
※古書だと数万円!
紀伊國屋BookWeb、ソニーリーダーストアで発売です!

日本初の女流探偵小説家・大倉燁子(おおくら・てるこ/1886-1960)の長編小説『殺人流線型』が、いよいよ紀伊國屋BookWeb、ソニーリーダーストアでも発売になりました!

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立読みは→こちらへ!

古書での流通価格は数万円します。

↓は1935年に刊行された柳香書院版の本文トビラ画像です。

1

ストーリーは立読み版をご覧いただきたいのですが、最初からスピード感があり、やや唐突な感のある箇所もありますが、とてもスピード感のある作品です。
仮名遣いは現代に直してありますので、どんどん読み進めていくことができるでしょう。

昭和初期の雰囲気を堪能していただければと思います。

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2012年3月17日 (土)

大泉黒石 『人間廃業』
本日より紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストアで発売です!
そして『人生見物』はボイジャーストア、hontoから発売!

本日より紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストア他で、
大泉黒石(1893-1957)著『人間廃業』が発売となりました。

Haigyo

立ち読み版は→こちらから

圧倒的な語り口で紡ぎ出される文章。貧乏のどん底で繰り広げられる人間活劇は、ニヒリズムをベースにしながらも抱腹絶倒、まるで古典落語のような面白さ。
本書は大泉黒石の著書の代表作の一冊です。
是非、立ち読み版をご覧いただければ幸いです。

また、ボイジャーストア、hontoでは同じく大泉黒石の
『人生見物』も発売となっております。

Kenbutu

立ち読み版は→こちらから

黒石と友人が、釜山からハルピン経由でシベリアへ。行く先々で巻き起る騒動とともに、大正年間における日本のシベリア出兵という騒然とした世相がくっきりと浮かび上がります。
こちらは来週23日より、紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストアで発売となります。


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2012年3月 6日 (火)

大泉黒石著
『人 生 見 物』
著者略歴&立読み版

書名: 『人生見物』
価格: 420円

Kenbutsu

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

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立読み版は、本文の2章に該当する「二」の冒頭部分です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
※PDF版は画面左下「Scribd.の右隣りにあるアイコン[view in fullscreen]のアイコンをクリックすると拡大されます(画面を元に戻す時には、[Exit Fullscreen]をクリックしてください)。
文字は画面下の「+-ボタン」で拡大縮小します。ただしリフロー(スクロールしないで画面の範囲内で文字拡大していくこと)はしません。

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人生見物_立読み版


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【立読み版】

人生見物

大泉黒石

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   二

 アルトール・ショーペンハウエルの動機説(エテイシエレグルンド)によると、俺みたいなつむじ曲がりの男が時々鳴動するのも矢張り虫の精だそうだ。岩蛸の忠告には無頓着で小田巻立春斎に鳴動してやった訳はこうだから、勢い、親方の家に居るわけにもいくまい。当てはないけれども出て行こうじゃないかと言うと慌て者の万之助が、待っていましたと言わぬばかりに「痛快痛快。小田巻風情の没分暁漢(ワカラズヤ)にコキ使われるような手の筋は持ちませんと言ってやりゃよかった。出て行くなら一刻も早い方がいい。親方が戻ると面倒だからなア」と一人で勇み立ちながら、硯に墨を摺るのだ。何をやり出すかと思うと、貸本屋から借りた「義士銘々伝」の上表紙に『一筆啓上、長々お世話になったる我等両人、時来りて今日立ち退き申す。両人出世の暁には昔日の恩義に酬ゆるべく、別れに臨み固く誓い申す者也、御機嫌宜敷、伝兵衛殿』と書き殴って、仏壇の正面に押し立てた。そして「君、これでよかろうじゃないか」と言った。いいかも知れないが、親方に読めるかしらと心配すると、それだから君、このとおり平仮名さ、と澄ましていたが、大袈裟な男だ。万之助とはシベリアで別れたきり会わないから、平仮名の文句どおりに、昔日の恩に酬いたかどうか知らないけれども、親方の家を出ると間もなく、親方のことなんか曖気(おくび)にも出さないほど当てにならぬ万之助のことだから、本気にして待っていようものなら、とんだ馬鹿を見るのが落ちだろう。岩蛸が見たら噴き出すかも知れないと思いながら、ビール箱の家を出た。出た足で三河島の屠牛場へころげ込んだ。
 こう言うと、俺たちの親兄弟が牛の皮でも剥いでいるように聞こえるから、その辺の消息を明らかにする必要がある。けれども三年前に一通り書いた『俺の穢多時代』がそれだ。も一度くり返してもいいが、書けば穢多という言葉が出る。大泉黒石ともあろうものが、法律で禁じてある言葉を平気で使うとは何事だ。挨拶の次第によっては覚悟があると、三年前に水平社仲間に脅かされて面食らったこともある。親代々の水平ではないが、貧乏のお蔭で社員に選挙される資格は充分あるつもりだ。それ程馴染みの深い俺は何でもご承知だ、挨拶の次第によって肉切庖丁でも持ち込まれちゃ大変だから、屠牛場時代の話はやめた。折角だが今度もやめる。そして屠牛場からシベリアへ駆け出そう。シベリアへ行くならつてがあると万之助が俺を誘ったなんて先刻も言ったが、そういう事情で、出発の支度や路銀の工面をつけると大正七年十月がやって来た。これでは余りあっけないだろう。この節地方へ行くと俺は間違って文豪の候補者扱いにされるのだ。折角の好意なら候補者なんて心細い。何故いきなり文豪にしてくれないのかと思っているくらいだから、気の利いた立志伝の作者を見つけたら、この辺の記述を一つこういうふうに書いて貰おうと思っている。即ち「ナポレオンの望みなしと雖(いえど)も、後年に到って文豪の疑いある大泉黒石は、この時悟るところありて牛殺しの鉄の棒をガラリと投げ捨て、手足の血糊を洗い落として屠牛場を立ち去り、颯爽たる姿を東京発下関行三等の隅に現せり」と、このくらい誇張しないとやり切れぬ。その夜行列車のベンチに、相棒の万之助と二十四時間座っていたら、下関駅に着いた。赤い電灯のついている賑やかな地下道をぬけて桟橋へ出ると、真っ暗い足場を押したり押されたりしているうちに、関釜連絡船百済丸の下甲板へ出た。出たかと思うと、今度は忽ち荷物艙みたいな所に放り込まれた。田舎芝居の桟敷より窮屈で暗くて南京虫臭い畳床が、両側二段に仕切られている。愚図愚図していると満員になりそうだから、争って割り込んだ。靴と下駄を枕に、ひと先ず横になって落ちついて見た。何のことはない古箪笥の抽斗(ひきだし)から首だけ持ち出している形だ。明日の朝までこの穴の中に逼息(ひつそく)していなければならないとはウンザリだねと言うと、かりそめにも朝鮮へ渡ろうという者が、今から悲観するようじゃ仕様がないよ、と万之助が言った。その癖、波が少し高くなって船がゆれ出すと、真っ先に蒼くなったのがこの男なんだ。かりそめにも朝鮮へ押し渡ろうという者が、今からその有様じゃ、先が思いやられるなア、と言い返してやると、どうもこの、船なんて奴は僕の性に合いかねると見えて、このとおり頭がグラグラする、吐きそうだと弁解したもんだ。その弁解に付け加えて、何しろ海へ乗り出すのはこれが始めてなんだと言った。そして、船室を出ると翌朝まで降りて来なかった。甲板の上を夜っぴて歩きながら、玄海の波に落ちて砕ける星の光が、一つ一つ減っていくのを待っていたのだそうだ。黒み渡る山と山との間に、長っ細いトンネルみたいな釜山の桟橋の影を見ると、足をバタバタやって喜んだのだそうだ。そんなことは知らないから、一人でも減ると助かると思ってウンと手足を伸ばすと「痛い!」と怒鳴って跳び上がった奴があった。見ると、今しがた、荷物の陰に転がっていた朝鮮人の「チゲクン」が、いつの間にか万之助の席へ辷り込みに来ていたのだ。暗くてハッキリしないが、鼻はペシャンコで頭の裏が崖みたいな男だ。この朝鮮のオビンズルさんが、脾腹を押さえて顔を顰めながら、今にも俺に掴みかかりそうな権幕だから肝を潰した。
「どうしました?」
「あんたが私の腹を蹴ったんだ!」
「痛いかね?」
「痛い痛い」とまた脾腹を押さえ直したから俺が蹴ったんだろう。こんなときは大急ぎで詫るに限る。俺が喫いかけの金蝙蝠(ゴールデンバツト)を床の上に吐きすてて起き直ると、朝鮮のオビンズルさんがいきなりパッと拾い取った。そして旨そうに、スパスパと喫(ふ)かそうというのだから、拍子がぬけて気の毒になった。だから一箱分けてやると、もう脾腹の方なんか、どうでもよろしいといった格好だ。ニコニコと笑顔をつくって「どうも有り難う。あんたはどこまでいらっしゃるか」なんて覚束ない日本語で、反対(あべこべ)に挨拶した。おかしな男だ。俺がシベリアへ行くのだと答えると、オビンズルさんは目を丸くして言うのだ。「それは、あんまり遠いですなア。私の田舎の郭山(かくさん)でさえ、雪が降ったと言いますから。シベリアはもうよっぽど積もっていましょうなア」そこで俺が聞いてみた。「朝鮮はよく知らないのですよ。郭山てどの辺です?」すると彼は答えた。「定州(チヨンジユ)の一つ先きです」「その定州がわがらん」「明後日の朝、そこを通りますからご覧なさい」と彼が笑った。成るほど明後日の朝になると、郭山に着いた。禿地の真ん中に背負い投げを食ったような不景気なステイションがあって、オビンズルさんの兄弟みたいな朝鮮人が、プラットホームに固まりながら、物欲しそうな目つきで、汽車の窓を眺めていた。ここに十分間停っていると、釜山から乗り合わせた出征兵どもが、あんまり退屈なもんだから、正宗や弁当の食いかけを、窓から突き出して揶揄ったもんだ。おい! ヨボ! これをやるから、汽車の尻を押せやい! すると五、六人のオビンズルさんが線路へ躍り込んで、列車の尻を必死になって押した。出征兵どもが拍手喝采する。列車はビクともしない。弁当の食いかけはお預けだ。オビンズルさんは悄然として引き揚げた。駅長が笑っている。日本の兵隊は酷い悪戯をするものだと思ったが、この尻押し連の中に、下車したばかりの船友もいるんだから感心したことがある。この船友のオビンズルさんが万之助の席へ割り込んで、殆んどひと晩一人で饒舌ろうと言うのだ。眠くはあるが、眠ると南京虫にやられそうだから、無闇と煙草を喫(ふ)かして話を聞いているうちに、鼻の穴が笹子のトンネルみたいに真っ黒くなった。オビンズルさんの言うことは、よく解りかねるけれども、何だか一人の兄貴があって、この兄貴と郭山の田舎から釜山港へ出て来たらしい。そこで誘拐屋にだまされて、九州若松近在の石炭山に嵌められた。もっとも誘拐屋の手にかかって日本へ渡る朝鮮の労働連は、毎日八百人もあるそうだから、その組だろうと思って謹聴していると、つい二、三日前のことだ、五十人ばかりの坑夫がセッセと石炭を掘っている第何号かの坑に火が入った。空気を早く絶たなければ、何万か何十万の損害になるので、係の役人が、坑夫ぐるみに坑口を密閉したのだそうだ。火が消える時間を見計って、坑の口をあけると、五十人ばかりの坑夫が、坑の扉口まで這い寄ったまま、黒焦げになっていた。その中にオビンズルさんの兄貴がいたのだそうだ。俺も大抵のことはやったつもりだが、まだ坑夫の経験はないから、随分乱暴な真似をするもんだと、心中大いに驚いた。オビンズルさんの兄貴は何万円か何十万円かの、犠牲の一人になって焼け死んだわけだから、慰謝料の千や二千は寄越したろうと聞いてみたら、坑の大将が黙って十円札を一枚くれたと言った。粗末な命だ。それでは旅費にも足るまいと言うと、「全くです。郭山へ着くとお終いになります。でも日本にいるよりは安全です」と悲しげに呟いた。あんまり可哀想だから釜山へつくと、電車道のちっぽけなカフェーへ連れ込んでやった。万之助が陸軍省に勤めている知合いの役人から貰った金を二分して、旅費を差し引いても、この男を喜ばせるのに差し支えはないと思うから、朝飯を奢ってやるがどうだいと、船の下りぎわに万之助と相談すると、それもよかろうと言った。そのカフェーは三角路の釜山郵便局と向き合っている。後ろは街で前は丘だ。丘の上に憲兵分隊の看板が立っていた。卓子(テーブル)に腰かけて窓の外を眺めると、白衣の朝鮮人が桶を担いだり車を押したり、ウヨウヨ通る。粥の椀を抱えてツルツル啜りながら、天狗の団扇みたいな煙草の葉を売っている爺さんがいる。見すぼらしい電車がやって来ると、砂ぼこりが立って、煙草の葉が真っ白くなる。腰から下がひどく冷えるから、成るほど朝鮮は寒いなアと言いながら、万之助を見ると、いつの間にか手も顔も洗わずにパンを噛っているのだ。オビンズルさんがナイフを持って俺の合図を待っていた。だから、サア遠慮なく平らげてくれたまえと言うと、石のように固いパンを一分間で食いつくした上に、バタの皿を舐めてしまった。よっぽどひだるいのだろうと思った。「も一つ何か注文したまえ、ライスカレーがいいだろう」と俺が言った。するとオビンズルさんは、海老のフライにしましょうと言った。万之助がパンの中から驚きの目を見張って俺を見た。その海老のフライを片づけてしまって物足りない様子をしているから「も一つ注文したまえ、今度はライスカレーがいいよ。海老のフライなんぞ、いくら食ったって腹にこたえるもんじゃない」と言った。つづけざまに高い海老を食われてはたまらない。万之助が妙な目付きでまた俺を見るから、ハハア、奴さんヒヤヒヤしているのだと思いながら朝飯を片づけた。連絡車に乗ろうかひと休みしようかと、万之助が言い出した。こんなに疲れているから次の汽車にして、酒でも飲もうと俺が発起すると、すぐ賛成した。これからが不思議なんだ。オビンズルさんとは、カフェーの戸口で別れることにきめた。「大層にご馳走さまでした。ご機嫌よろしゅう」と朝鮮人がステイションの方ヘスゴスゴと出て行くのを待ち構えたように、万之助かムッとした表情で「おい君!」と言うのだ。「君は何だって、あんなヨボの野郎に、無闇と物を食わせるんだい?」だから俺はこう言った。「いいじゃないか、お互いさまだ」ところが万之助はますますムッとして「よかないよ!」と怒鳴った。「僕等は未だ他人(ひと)の世話を焼くような身分じゃあるまい!」

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岡庭昇著
『この情報はこう読め』
著者略歴&立読み版

書名: 『この情報はこう読め』
価格: 500円(税込)
3月中旬、刊行予定。

Johoi

著者: 岡庭昇(おかにわ・のぼる)
1942年生まれ。
慶應大学経済学部卒業後、TBSに入社。ドキュメント・ディレクターとして活躍する一方、文芸評論家としても多くの著作を出す。
原発、人権、差別、交通警察、ゴミ、在日外国人、学校教育などのテーマに切り込む一方、テレビ・ディレクターだからこそのメディア、ニュースの読み方を提示。
著書に、『飽食の予言』シリーズ、『この情報はこう読め』シリーズ、『メディアの現象学』『亡国の予言』『自己決定力』『メディアと差別』他多数。

『かくもさまざまな言論操作』『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』は志木電子書籍より昨年電子化。


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立読み版は、「電子書籍版への序文」「目次」「汚染列島をどう生きるか 狂奔する消費者不在のコスト史上主義」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
※PDF版は画面左下「Scribd.の右隣りにあるアイコン[view in fullscreen]のアイコンをクリックすると拡大されます(画面を元に戻す時には、[Exit Fullscreen]をクリックしてください)。
文字は画面下の「+-ボタン」で拡大縮小します。ただしリフロー(スクロールしないで画面の範囲内で文字拡大していくこと)はしません。

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この情報はこう読め_立読み版


【テキスト版】

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電子書籍版への序文
──このクソはこう読め!

 本書は一九八九年に青峰社から発行した。
 一九八九年と言えば、『天安門事変』という歴史的な反乱があった。わたしは魯迅に習って、こう書いた。
《学生が改革に乗りださなければならない社会は不幸だが、いかに頽廃しても学生が一声も上げない社会はもっと不幸ではないか》
 自らの限りない頽廃を顧みること抜きに、他国の青年たちの体を張った抵抗を賛美してもあざといだけではないか。まず鏡に映った己の醜態を知れ。
 公的な情報は、まずウソであると決め付けた上で、そこから思考すること。わたしの永年の主張を、誇張が過ぎると思っていた「和と常識の国」の人々は、二〇一一年の東京電力の醜態を眼前にして自分の方が非常識だと気付いたはずだ。
 公に流通している「制度としての情報」、つまり大陰謀から小陰謀までのクソをどう読み変えるか。どこかに真実をたっぷり含んだ「本当の話」が用意されているわけではない。本当の情報を知る良いルートがあるわけでもない。すべての手掛かりは、まさにそのクソの中にある。
 わたしがテレビの現役ドキュメンタリストだったそのころでも、何かツテがあって「この情報はこう読め」と言ったわけではない。テレビ局の報道マンなんて、いささかも情報のプロなんかじゃなくて、そのときどきの仕掛けに屈折も抜きに感情を同化するだけの無邪気な存在でしかないのだ。
 小沢一郎が悪人の代名詞のように扱われる現状は、二〇〇九年衆議院選挙のマニフェストがやはり官僚独裁やアメリカにとって確実に脅威だったんだな、と少し知恵のある者なら誰しも思う。ところがテレビや新聞報道は、本気で「小沢の犯罪」に怒っているらしいから恐れ入る。どうしてこんな幼稚園に、情報の読み替えのルーツなどがあろう。
 手掛かりは垂れ流されるクソの中にある。それは報道が自前で取材したものではない。だから多少は良心的であるより、思い切りウソっぽい方がかえって真実を(反転して)映している。その真実を読むのは、それを読み得る実力である。
 何の話でも同じだ。政治が駄目なのは、どこがなぜ駄目なのか見抜こうとしない自分のせいなのである。小沢が悪だとテレビが騒げばすぐそれを信じる人間が大半では、いつまでたっても良い政治などが「やって来る」わけがない。
 自分の頭で考え、常に公的情報以外の情報に接することや、思考はどのように多義的であるかを知ることで、自分を鍛え上げる。そのとき、クソはあなたの前で真実の鏡として輝くだろう。
 従って本書のタイトルは、正確にはこうである。
 このクソはこう読め!
 一九八九年に刊行して貰った内藤忍さんと二〇一二年に電子書籍として生き返されて下さった京谷六二さんに感謝する。

岡庭 昇

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 目  次

電子書籍版への序文
──このクソ情報はこう読め!

1 コスト至上主義ニッポンの風景
  ・汚染列島をどう生きるか
    狂奔する消費者不在のコスト至上主義
  ・知らしむべし 依らしむべからず
    墜落した日航機は放射性物質を積んでいた!?
  ・“暗い感情”からの脱却
    傲慢な都市生活者に呪いあれ
  ・資本主義ってなんだっけ
  ・ああ、官民一致協力してガン王国ニッポン!
    社会的責任を放棄するコスト・バカ
  ・傲慢なウソつきたち
    農産物輸入問題の中身
  ・“鬼畜米英”は正しかった
    “民主主義”と“自由”の国アメリカの幻影
  ・印象社会における権力の手法とは
    企業責任を問う者は逮捕する!

2 マスメディアの頽廃
  ・サラリーマンには自分に属する時間がないのか
    “大朝日”による本多勝一の執筆禁止令
  ・テレビ殺すに刃物はいらぬヤラセとひとこと云えばよい
    テレビ=ヤラセの宣伝に隠された本当のねらい
  ・客観報道という名のデマゴギー
  ・管理列島ニッポンの春
    『フライデー』的“スクープ”の手法
  ・法と秩序の奴隷たち
    浅薄な“実力行使”と警察に頼る“スキャンダリズム”
  ・活字人間がなんぼのもんじゃ
    自分を棚上げしてテレビ批判をする“作家”のレベル
  ・匿名報道によって誰が救われるのか
    記者クラブのあり方こそが問題
  ・テレビ批評は不毛地帯なり
    無責任なヨタをとばす“批評家”たち

3 日本社会のファシズム原理
  ・いよいよ広瀬隆攻撃がはじまった
    政治的な目的で流される脆弁の数々
  ・浜田幸一を断固支持する
    形式的な品位の裏にひそむ暴力的構造
  ・“合意のファシズム”について考える
    労働者への抑圧を固定化した「連合」の成立
  ・醜い国家と醜い民衆たち
    日本という暗い風土の暗い権力の体質
  ・ナカソネが高らかに笑う日
    恥知らずな健忘症社会の成立
  ・権力広報としてのスキャンダリズム
    黄色い白人の差別意識
  ・教育は闘争の中にある
    ワンチャン先生騒動記
  ・日本人はどこまで不感症たりうるか
    中畑攻撃に見る労組っぶし
  ・義務教育を廃止せよ
    管理という名の子供たちへの暴力

4 この情報はこう読め
  ・あまりに遠いアジア
  ・“しゃべりすぎる”社会と沈黙させられたままの事実
  ・“アジア人であること”への想像力
  ・国境はどのように越えられたか
    鎖国ニッポンを憫笑する豊かさ
  ・労働と権力にかかわる御参考までのバカ話
  ・法廷ファシズムの時代がきた
    発表ジャーナリズムの空洞化
  ・上海であらためて考えたこと
    “禁じられた歌”の紡ぎ出すもの
  ・鎖国日本人の対外感覚
    外務官僚は国民気質を代行する
  ・歴史に対する感傷と現状認識の欠落と
    歴史の握造を行うニュージャーナリズム
  ・裁判か茶番か
    矢沢美智子と裁判制度の詭計

  あとがき

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汚染列島をどう生きるか
狂奔する消費者不在のコスト至上主義

 『朝日新聞』八八年九月二〇日朝刊に、“トリクロロエチレン/汚染地下水で奇形金魚/千葉/体内、高濃度を検出”という記事が出ている。《発ガン物質の有機塩素系溶剤・トリクロロエチレンによる地下水汚染が問題になっている千葉県君津市で、汚染された井戸の水を利用していた池の金魚が「奇形」になったとして県衛生研究所と県内水面水産試験所が調べていたが、一九日、金魚の体内から〇・三四ppmという高濃度のトリクロロエチレンが検出されたことが明らかになった》(同)というものだ。この記事を読んで、金魚なんてもともと奇形ではないか、といった者がいる。たしかに、きわめて人工的な魚であることは歴史的な事実だが、それとこれとは話が別だろう。汚染された井戸水で飼われていたこの金魚は、体の表面にコブのようなものが多くでき、卵巣のう腫もできていた。
 かたわらに、“農薬が気化/一二〇人が被害/埼玉”という記事があるのも、何やら凄まじい。《畑の土中にまいた液体農薬が気化して流れ出し》、被害が出たというもの。まだ、こんなことをやっているのだ。
 また、それ以前に一六日の同紙には、“病死牛肉/都内でも食用に?/発送用段ボールを納品”という記事が出ている。かねてペットフード用の病死牛肉が、人間向けに大量に出回っていたことが大阪で明らかになり、調査が進められていたが、東京と岐阜にも送られていたことが明らかになったというもの。
 双方とも、人災による食=環境の破壊という点で、まったくおなじ事件と見るべきである。それにしても、まったく、よくもまあ、類似のケースが続々と出てくるものである。
 わたしは八八年九月二六日に、「これでいいか日本の食卓―汚染列島からの証言」を、放送したばかりである。まさに、汚染列島としか評しようのないところにこの国はきている。永年のGNP至上主義と、その支柱であるコスト主義体制がすっかり自然を破壊し、われわれの健康を危機にさらしている。たしかに、根っからコスト主義に囚えられた中年男性たちでさえ、半数が原発反対になったと報道されてはいるが、そしてそれはむろんいいことだが、その一面で、日常的な汚染と環境破壊を省みないのではなんにもならない。むしろ原発の賛否が大きく語られることが、身近な自然破壊に目を向けることを妨げてしまうなら、それほどの皮肉はあるまい。
 八六年の一二月、養殖ハマチの実態をテレビでレポートして、大きな反響を呼んだ。そのとき以来、一貫してわたしは、何が危険な魚で、何が安全な魚かというような“情報”にのみこだわっていたのでは、問題の本質を見誤ることになるだろうと、警告してきた。問題は、消費者を犠牲にすることによってのみ成立している生産体制、コスト切り下げのためならいかに危険なことをしても許されるという、この国の倒錯そのものにある。そのことをわたしは、「食べることによってみずからの身体を食べられるシステム」と呼んだ。
 放送のあと、八七年の二月、全漁連は大会をひらき、TBTOの使用をやめると発表した。それを、民間団体の決議なのに、水産庁の思惑どおり、“TBTO、使用禁止に”と報道した新聞もあった。
 そんなものはまるでウソっぱちだ、とわたしは番組でも、文章でも主張し続けてきた。TBTOは中枢神経を狂わせる薬品だから、ただちに使用禁止されるべきである。水産業界は、それを網に貝や海藻が着かないために使用している。ただちにやめるべきであるが、やめるにはやめるだけの準備が必要である。たとえば養殖の網を、亜鉛メッキの金属網に切り替えることだ。そういう準備にまったくとりかかろうとしていない。また大会の雰囲気は、あたかもわれわれの番組がウソをいっているかのような説明が幹部からなされ、関係者なら誰でも猛毒性を知っているTBTOを、無害な薬品のようにとりつくろったものだった。その上で、世間の批判を避けるため、とりあえず“発表”したのである。実行するわけがない。できるわけがない。
 案の定だった。八八年八月一〇日、環境庁が発表したところによれば、日本近海は全域にわたってTBTOに汚染されており、瀬戸内海に至っては、昨年の二倍の濃度になっている。瀬戸内海が、養殖ハマチや養殖タイの本場であることは、説明するまでもない。
 動かぬ証拠を映像化して、この、官民一体となった、あざとすぎる体制を告発しなければならぬ。いくらやっても、蛙の面にションベンだろうが、やりはじめた以上、ひとつの決着をつけなければなるまい。
 8ミリビデオを片手に、西九州に飛んだ。カメラクルーが大がかりに近づいたのでは、拒絶され、隠されるにきまっている。家庭用ビデオで、観光客を装って証拠の映像を撮影してやろうと思ったのだ。考えてみれば、自然が破壊されているという告発の映像が、美しくある必要はない。いや、美しくあってはいけないはずだ。ひるがえっていえば、テレビ画面の美しい整序性こそ、破壊された自然、汚染のなかの現実を見えないものとさせてきた元凶であるのかもしれない。
 簡単に“犯行現場”をおさえることができた。ロケ運もあるのだろうが、それほどどこでもTBTOを使っているということだろう。それにしても、東松浦で見つけた、TBTOの作業場はたいへんな規模だった。おりしも二人の漁民が、せっせとTBTOで網を染めていたが、どうやら一括請負方式になったらしい。あっけらかんのカー、といったところである。
 まったく、消費者の顔が想像力から欠落しているのだから、なんでも平気でできるということなのだろう。
 そのほか、紀伊半島もまわったが、どこでも以前とおなじように使っていた。行政が無利子の資金を貸し付け、金属網に替えさせることとひきかえに、TBTOを成分禁止にしないかぎり、こんな劇薬が養殖魚を経由して、消費者の体内に入る事態は、回避できない。あるいは原発の取水口と排水口にTBTOを使っているため、禁止処分が出せないのだろうか。
 コスト主義が必然的に健康を犠牲にするというこの国のシステムをこそ撃たねばならぬのだが、政治的な御都合主義によってわれわれの肉体が売りわたされるとなると、さらに腹立たしい。いくらも例があるが、たとえば、八八年三月から六月にかけて表面に出かかった、輸入ブタ肉の問題が典型である。
 まず、アメリカ産のブタ肉から、抗菌剤・スルファミシンが検出された。続いて、台湾産のブタ肉からも、おなじ結果が出た。こう書くと、厚生省はいつも検査に励んでいるようだが、とんでもない。いつもは野放しである。アメリカから何やらキナ臭い噂が伝わってきて、それでしぶしぶやってみたところ、予想どおり検出されたということなのである。スルファミジンは、サルファ剤の一種で、発ガン物質である。そして、両国のものをトップクラスにして、いま日本で消費されているブタ肉の三○%が輸入肉なのである。
 輸入禁止処分になったのは、いうまでもあるまい。ところが、問題はその先だ。すぐさまアメリカから、高官が飛んできた。そして、ひそかに農水省、厚生省に迫ったのである。いちいち安全性に目くじらを立てるのは、関税外障壁である、そんなことでは、日米の貿易をめぐるかねてのトラブルにも、どういう影響があるかもしれないと恫喝したらしい。
 行政はすぐ折れた。どういう結論になったか? 輸出する側が証明書をつけさえすればいい、ということになった。
 つまり、いっさい、検査しないということにしたのである。
 バカげた、そして許せない話ではないか。自国民の健康を損なう食品を、それとわかっていながらわざわざ見逃すなどという行政が、世界中のどこにあるというのか。発ガン物質、スルファミジンは、たまたまアメリカ産、台湾産ブタ肉から検出されたのではない。大阪大学の植村振作さんの分析調査によれば、生産体制の必然性だという。つまり、つねにふくまれている可能性があるということだ。それなのに現在、両国の汚染ブタ肉は、まったく検査されないまま、わたしたちの食卓にのぼろうとしている。行政は、政治と引き換えにわれわれの健康を売り渡したのである。
 日本はガン王国である。年間に二〇万人もの人々が、ガンで死んでいる。そこには、環境破壊の現状が端的に反映しているといえよう。このような事態を招いたのは、以下のような体制だ。
 官民一体となって、生産至上主義に狂奔している。薬剤メーカーの便宜にのみ行政の顔が向いていて、危険な農薬、抗菌剤を“成分禁止”にしない。流通を停滞させると、経済大国が崩壊するかのような脅迫観念に陥っているから、放射能食品などもフリーパスで輸入される。国内の食品検査なども、形式だけのものにしている。政治的な思惑だけを最優先させて、いかなる危険な事態が起こっても関知しない。
 そして、食=環境をめぐる行政犯罪の仕上げは、消費者に必要な情報の秘匿と、特定の大消費市場への押し付け消費にほかならない。後者は、たとえば社員食堂、弁当、給食業界である。
 給食には、歴史的にみて、ありとあらゆる危険な食品が出回った。いわばそこは、行政の矛盾と御都合主義を解消する、“食の捨て場”なのである。八七年の秋には、背曲がりハマチが学校給食に入っているのが発見されたが、かつてはかの臭素米も押しつけられたのである。
 わたしは、流通における、食品の大量一括消費システム自体を廃止すべきだと考える。つまり、弁当、食堂、給食への、中間的な専門流通にこそ、この問題の因がある。それにしても、給食の現状を批判する人々の間にも、ただちにもはや無意味となった給食などやめてしまえという声が聞かれないのは、どうしたことなのだろうか。

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2012年2月29日 (水)

大泉黒石著
『人 間 廃 業』
著者略歴&立読み版!

※本書は来週3月7日(ボイジャーストア)以降、順次、各書店で発売の予定です。
発売日は順次、お知らせしてまいります。

書名: 『人間廃業』
価格: 420円

Haigyos

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

<<<<立読みコーナー>>>

立読み版は、「目次」と1章に相当する「慙服の巻」の冒頭部分です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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『人間廃業』_立読み版

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【立読み版】

人間廃業

大泉黒石

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   目  次

慙服の巻
悶着の巻
絶倒の巻
寂滅の巻

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慙服の巻

「慙服(ざんぷく)」という文句がある。『北史李賢伝』の中にある。恐れ入って赤面することだそうだ。そこで今に偉くなってお目にかけますから見ておいでなさいと、親の前で見得を切ったが、一向偉くならんので慙服して坊主になったのが、聖オウガスチンだそうだ。今度の戦いには拙者、華々しく討死つかまつり、家門の誉れを後の世の語り草に致すでござろう、と親の前では立派な覚悟のほどを見せて置きながら、戦場へ出ると何時も生き長らえて退却するので、親に愛想をつかされて慙服のあまり、腹を切ったというのが山名氏清の伜だ。今度こそはおめがねに叶うような刀を打ちますから、お約束どおり師匠の後継(あとめ)をつがせてください、と正宗の前で腕を叩いて見せたのは天晴れだったが、作り上げた刀というのが、無類の悪剣でペケを食い、慙服して姿をくらました喜左衛門、即ち村正であると物の本に書いてある。
 物の本には書いてないが二十年ばかり前の或る日だ。半白の親爺が滅多に着たこともない金モールの洋服を着て勲章をブラ下げた。伜が驚いてどこへ行くんですか? と訊ねると、吾輩はこれから外国へ赴任するんだ。お前も早くこんな洋服を着て外国へ赴任するようにならなくちゃ駄目だよ、と伜の頭を叩いて言った。ふん、そうですかい。承知しました。そんなこたア、お安い御用だ。父上閣下! 及ばずながらも閣下の伜だ。お帰りまでには、ちゃあんと着ていますから、安心して行ってらっしゃい、と伜は昂然として請け合って見せた。請け合って見せるくらいだから、まんざら当てのないことでもなかったろうが、この伜、二十年後の今日に至るまで、金モールはおろかフロックを着るだけの身分にもなれない。なれそうな見込みすらないので、そろそろ慙服しなければ済まないことになってきた。だから親爺の手前、ともかくも慙服だけはしているが、思い切って坊主にもならず、男らしく腹も切らず、奮発して姿も隠さずに、ただ他人(ひと)様のご厄介になったり、往来の邪魔にならないのが関の山で、のんべんくらりと娑婆の穴を塞いでいるに過ぎない始末だから、むろん聖人にもなれず、物の本にも載せて貰えず、名人にもなれないのは当り前だろう。それで相済むのは、この伜の親爺が任地で死んだからだ。生きていたって、まさか坊主になれの腹を切れのと、古風なことを言う気づかいはないが、お前みたいな意気地なしは、窓からでも消え失せろぐらいの宣告はするかも知れないと思うと、この伜の耳は赤くなって冷汗が出る。冷汗では追っつかないような不面目を勘定したら幾らあるか知れない。むろん本人の不心得のいたすところだが、責任の片荷は運命の神様に背負わせて然るべきふしもある。あったって始まらん。持ち込む尻はどこにもない。ないから神妙に凹(へこ)んでいるんだが、なかんずく、金モールの親爺の手前も、ご自分の手前も、さらに申し訳なしと感ずるのは、この伜たるや、きまりの悪いほどの貧乏で酒のみで、おまけに文士と来ていることだ。肩書にもいろいろあるが、泥棒と文士ほど哀れ滑稽(おかし)きものは、世に絶えてないというのがこの伜の思惑だ。学問も知恵もないのは我慢するが、幇間(たいこもち)の帽子を被り、掏摸(すり)の眼鏡をかけて、洋服屋の看板みたいに、ひょろついている穀つぶしのくせに、生きているのは俺ばかりだと言わぬばかり高く止まって気取り澄ましている烏滸面(おこづら)を見ると浅ましくなる。「何物老嫗生寧馨児」と支那人が言った。どこの老婆(ばばあ)の臍の穴から、こういう人間の鉋屑(かんなくず)が出て来るのか、いやに薄っぺらで、ひねくれ曲がって、吹けばコロコロ飛んで行くというのは、この連中のことだ。黙って聞いていると、われわれこそは社会民衆の覚醒を促して、文化の向上を何とかする尊い先駆者だなんて、途方もない譫言(うわごと)をいう奴がいるのだ。「大きにお世話じゃないか。社会民衆だなんて柄にもない心配をするのはよしたまえ。社会民衆は君達を物の数にも入れちゃいないんだよ」と西洋人のマックス・ジャコブさんが仰有(おつしや)るのはそこだ。われわれこそは覚醒される方だと訂正するがいい。図々しい身のほど知らずめ。どんなに困ったって、そんな奴の仲間になんぞなるものかと思っていたのに、いつの間にやらズルズルべったりなっているんだから金モールの伜も悲観せざるを得なかった。もっとも始めからこうまで軽蔑してかかった訳じゃないんだ。商売仲間と交際(つきあ)っているうちに、右の思惑が確かになってきたのだ。だから何かの拍子で悲観の虫が被って来ると、もうこんな下等な人間のするような仕事は今日かぎり廃めちまって、納豆でも売った方が遙かに潔(いさぎよ)いということになるばかりじゃない、机を押しやって、いよいよ廃業に取りかかるのだ。納豆は後まわしでもいい。こう見えたってこの伜には数学の先生の資格もあれば、西洋人の言葉も少しばかり持ち合わせている。造船機の組立てや製図の真似ぐらいはやって見せる。人間に出来ることなら何でもやる。ただ残念なのは自転車に乗れないだけだ。乗れないのは乗らないからだ。乗らないのは虫が好かないからだ。だからもっと気の利いた商売もありそうなもんだと思って、一心不乱に駆けずりまわると、成る程これならという仕事の口にぶつかるから妙だが、南無三、その仕事をさせてやろうかという親方が、伜の履歴を聞くと驚いて逃げちまうのだ。良家のマダムに芸者あがりじゃ面白くないそうだ。学校の先生も、会社の技師も文士あがりの鰌髭(なまずひげ)には、勤まりかねますよ。おやめになったが利口です。エヘヘヘという挨拶だから、折角はりつめた気が抜けてゲッソリする。ついに退却だ。万事この筆法で扱われるのだからつまり、犬に食われるのが般若の面で、そこら近所の人間に舐(な)められるのが文士の面と相場は決まった。無理も砂利もありゃしない。何時もの口癖だが、青年ダンとか、爆ダンとか、文ダンとか、ダンのつく奴に碌なものはないのだから、馬鹿にされる価値は充分あるのだ。いや、このくらいの馬鹿あつかいは丁寧な方で、間の悪い時には五臓六腑に滲み渡るほど辛辣に翻弄されることがある。と、金モールの伜はつくづく考えるのだ。
 伜は一度宇都宮の文学有志に招かれて講演に行った。行くと匆々、公会堂にしては少し小(ち)っぽけなホールの壇上に突っ立ちながら、いささか滔々と弁じ終ったのが、ショオペンハウエルの悲観哲学で、汽車の中での思いつきだったが、わかるのかわからないのか、三百あまりの聴衆が口あんぐりの体(てい)で、下から弁士の顔ばかり覗いていたのは静かでよかったが、どう勘違いしてやって来たのか、一番手前に腰かけている薄汚い禿頭の爺さんが、目爛(くさ)れの赤ん坊を負んぶしたまま、ベンチの上にひっくりかえって、無作法千万にも寝こんでしまった。その爺さんの鼾が弁士の声を圧倒する勢いで轟々とひびきわたるんだから、すっかり参って引き下がると、待っていましたと言わぬばかりに、雲助みたいな面魂の男がのこのこと聴衆の中から現れて、演壇に這い上がった。紋付の下着に紋付の羽織を着流しているのは多分借り物だろう。袴を佩(は)いていないのは貸し手が見つからなかったんだろう、と思って見ていると紋付の男は、いきなり卓上のコップに手をかけた。金モールの伜の飲みかけた水が半分ほど入っているので、捨てるのかしらと思うと平気でグッと呷っちまって澄ました顔で、日の丸の扇子を振り上げながら、ポンと一つ卓子を叩いて、エエ今晩は! と敬(うや)々しくお辞儀をするから、金モールの伜も少々驚いて、ありゃ一体何ですか? と文学有志家の一人を捕まえて訊いてみると、これがこの土地で有名な新派浪花節の一飄亭熊吉だそうだ。熊吉か馬五郎か知らんが、苟(かりそめ)にも文学と銘を打った講演の席表にのさばり出るとは奇怪至極だと心外に思っていると、この熊吉が日の丸の扇子で拍子をとりながら、エエ! 只今はソウペンハウエルとか精進料理とか申スまスて、恐ろスく色気のないものをお聴きに入れまスたが、私はその埋め合わせに、お色気たっぷりの腥(なまぐさ)料理は「金色夜叉」を一席読みましょうでございます、と落ちつき払って襟をつくろうと、またコップの水をガブリとやって唸り出した──鼠のズクン、ツウガタの、スロク模様の毛織なる、ソールまとうた宮さんは、こなたの学生、焦茶なる、オンバコートに身をすくめ、フククルコガラス遣りスゴス、オクレス宮の辿りつく、オソスとマツス、クワンイツが……「ネイ、宮さん。今夜のカルタ会のダイヤモンドめ、いやにクザな野郎じゃねエか」「ほんとだわね。ワタスいやだわ」「嫌な者が何だって一つクムになるんだえ?」「そりゃ、クムはクヅだもの、スカタないさ」「ああダイヤモンド! 僕等の及ぶところじゃねえなあ!」「ス、ス、ス、ス、スらないわよウ!」──という調子っぱずれの獰猛(ねいもう)な東北弁だ。この辺の若い衆が、名物の干瓢畑で頬かぶりの姐さんを揶揄(からか)っているようだ。お宮が聞いたら後生ですからもうその辺で助けてくださいと言うだろう。貫一が聞いたら怪しからん侮辱だ、訴えると息巻くに違いない。しかもこれが聴く方の耳には立派に通じた上に、御意に召すこと一通りでないと見え、今まではまるで宙に迷った亡者みたいにベソかいていた聴衆が、俄かに元気づいて盛んに拍手する。熊吉は得意になってますます泡をふく。聴衆は愈々喝采する。子守りの爺さんまでが目を覚まして、威勢のいい嚏(くさみ)で応援する。と──お宮はストウ貫一の、名をばまたスも叫びたり……ここで熱海の浜の舞台が回るなら、何とかなるのかまた言上……ハイ。お退屈様──と、日の丸の扇子を紋付の襟に差して見得を切りながら、悠然と引き下がる熊吉に、ちょっと会釈して演壇の上にノッソリ現れたのが、お次の番で、赤いゴム靴に荒っぽい弁慶縞の半ズボンと来た扮装(ふんそう)は、正しく土方の元締か、それとも砂利運搬の請負師と睨める柄の、でっぷり太った親分だ。チョッキの釦にからませた太い金鎖を見てくれというふうに前に突き出して、脂(やに)っこい真っ赤な提灯面をツルリと撫でまわしながら口をふくらましてプウと息を吹いたかと思うと、ニヤニヤ笑い出した。どこかの居酒屋で五、六杯引っかけて来たのだろう。気味の悪い格好だ。いま熊吉が新派で当てたから、俺は旧派で一つ、神崎弥五郎の東(あずま)下りでも遣っつけようか、と言い出しかねない景色だ。この勢いで行くと今度は尻まくりの盆踊りに、オイトコソーダの伴奏でもやるべえかと、褌(ふんどし)を締め直して現れる篤志家があるかも知れない。もっとも会場の入口の看板には、ショオペンハウエルの他に余興あり。会費無料。傍聴歓迎と明らかに書いてあるから、講演がすんだ後で誰かピアノでもやるのかしらと、金モールの伜は考えていたので、別に伺いもしなかった。だからこの体たらくを見ると、さすがに驚いて呆れて、苟(いやしく)もショオペンハウエルと熊吉と半ズボンとが同席をするとは何事だ。失礼にも非常識にも程があると、幹事の面に抗議を叩きつけぬ訳にはいかんのだが、憤然として開き直るひまなんかありゃしない。お次の番だよ。お次の番だと勇ましく来ちまうのだから、ふん! こんな野蛮人どもに何を説諭したって始まらん話だ。二度と再び来さえしなきゃいいと諦めて、遣り切れない肚の閂(かんぬき)を遣り切れるように、シカと癪の虫を押さえるより他に仕方がなかった。もうこうなると、お次の番には何が飛び出すかわからないのだから、オイトコソーダや洗濯曹達に肝をつぶすこたア無い、と気を取り直して壇上の親分に好きな真似をさせて置くと、この酔っぱらいの半ズボンが、呂律のまわらぬ舌を出したり引っこめたり、石炭の講釈を始めたのは意外だった。エエ、ご承知のとおり。と言いながら、上衣のポケットから小さい石炭の塊を一片(きれ)つまみ出して──この石炭は文明のタマモノでありますから、皆様にとって便利なことは、もう確実でごぜえやす──と少々気違いじみてきた。石炭が文明のタマモノで皆さんにとって便利なこと確実である。序(ついで)に申しますが、半ズボンの私なんかは、文明のケダモノでありますから、皆さんの目ざわりになることは、もう確実でごぜえやすと言えば、丁度語呂が合いそうだ、と思って聴いていると──その石炭の中でも茨城産の無煙炭ときた日には、煙が出ないから煙突の掃除が略(はぶ)けてお女中さんは大助かり。値段が安いから奥さんは大喜び。実際皆様のお家庭に日常お使いなさるにはこんな誂え向きの品はごぜえやせんよ。そういう訳で、今回手前どもは、当地において茨城産の無煙炭小売店を新設いたしやしたに就ては、この文明のタマモノのご利用を切におすすめ申す旁々、これを御縁に是非とも手前どもへ御用命仰せつけられ、御贔屓あらんことを偏えに御願いする次第でごぜえやして、手前どもの名刺と炭の値段書きを只今一枚ずつ差し上げることにいたしやすから、それによって御注文下さるように……ハイ! これで今晩は閉会といたしやす。皆様。御苦労さんでやした──とお辞儀をして降壇するのだ。いくらなんでもこれには皆毒気をぬかれたろう。と思ったが一向そんな様子もないのだ。文学有志家の一人が何時の間にか、石炭屋の小僧に早変りして、配って歩く紙片を神妙に貰っているんだから度し難い無神経ばかり揃ったもんだと思った。これが済むと今度は金モールの伜に向かって、宇都宮見物の御案内をいたしましょうかと文学有志連が挨拶するから、お交際(つきあい)はもう沢山です。サヨウナラと停車場へ駆けつけて上野行三等に飛び込むと、有志連が追っかけて来て、窓ぎわでお辞儀をしながら、──エエ今回は遠路はるばるお運び下さいまして有益なるお話を賜わり、お蔭さまで盛会の光栄を得ました。甚だ軽少ながらこれは私等一同感泣のしるしです。どうか御笑覧ください。──と言いながら有志の一人が懐に手を突っ込んだから、金の十円もくれるかしらと思って
「そいつはお気の毒ですな」と礼を言うと、
「いえ、何、その、エヘヘ」
 と頭を掻きながら、掴み出したのが細長い紙包みだ。窓口からポンと投げ込んで、
「先生の奥さんに上げてください。では御機嫌よろスウ!」
 と言った。汽車が動き出すと一緒に紙包みをあけて見ると、かもじが出て来たからオヤと思った。とんだ御笑覧だ。到れり尽せりの待遇に感泣したいのはこっちだろう? つらつら観(おも)うにこの文学有志連の中には石炭屋の息子か小僧かがいるのだ。薪や炭団(たどん)と違って石炭は文明のタマモノだから、開店披露をするにも多少ハイカラのお客さんを集めて吹聴する必要がある。そこで金モールの伜でも引っぱり出して、何でも好きなことを饒舌らせると、奴さんのことだから偉そうな熱を吹くに違いない。お礼には売出し景品の「かもじ」かバケツでもやれば喜んで帰るだろう? してみると費用ぬきで広告が出来る訳だ。一挙両得の名案じゃありませんか? どうです? と勧めたので、石炭屋の半ズボンが賛成して、その息子か小僧の仲間を狩り集め、木賃宿あたりに転がっている熊吉に紋付を着せてやらせたんだろう? 文学講演会とは表向き体のいい名前だから、つまり金モールの伜こそいい面の皮で、人よせのダシに使われているのも知らずに、汗を流して意志絶滅の肩を持つやら、ヘエゲルやフィヒテを罵倒するやら、独りでメートルを上げていたんだから世話はない。世話はないが怪我もない。怪我もないのは、まだ見っつけものだ、というのはその夏、金モールの伜は中国筋の或る港街の文学有志連に頼まれて、よせばいいのに性懲りず出掛けて行った。汽車で着いたのが講演会の前の晩だ。出迎えの有志連に頼んで宿を取ってもらい、宿の一室に蚊帳を釣って独り寝たまでは至極無事だったが、とろりと眠りかけてチンという物音に眼を開けると、枕もとに胡坐(あぐら)を掻いている奴がある。此奴が飲みさしのビール瓶を両手に持って喇叭(ラツパ)のみにガブガブ失敬しているのだ。よく見るとそれが汗とり襦袢に赤い腰巻の女で、蒼んぶくれの顔一面貼りつけた膏薬の上に、振り乱れ脱けかけている髪の毛がフラフラ靡(なび)いているのだ。何のことはない、お化け加留多でお目にかかる蒟蒻(こんにやく)島(じま)のブルブル女にお見舞いをうけたようにビックリ仰天して跳ね起きると、女はビール瓶を放り出して金モールの伜をじっと見た。見たかと思うとニヤリと笑った。
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2012年2月24日 (金)

大泉黒石『人間開業』
紀伊國屋BookWeb、BookLiveで発売開始!
ソニーリーダーストアも本日です

伝説的アナキスト作家大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)の破天荒の自叙伝、「人間開業」は本日より紀伊國屋BookWeb、BookLive等で発売となっております。
また、ソニーリーダーストアも本日中に発売の予定です。
古い本ですが、大変、読みやすくなっております。
立読み版は→こちらです
その他、深沢七郎の幻の短編小説、「風流夢譚」他も好評発売中です。

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2012年2月14日 (火)

岡庭昇著
『かくもさまざまな言論操作』
著者紹介&立読み版!

書名: 『かくもさまざまな言論操作』
価格: 1000円

Gwngos

著者: 岡庭昇(おかにわ・のぼる)
1942年生まれ。
慶應大学経済学部卒業後、TBSに入社。ドキュメント・ディレクターとして活躍する一方、文芸評論家としても多くの著作を出す。
原発、人権、差別、交通警察、ゴミ、在日外国人、学校教育などのテーマに切り込む一方、テレビ・ディレクターだからこそのメディア、ニュースの読み方を提示。
著書に、『飽食の予言』シリーズ、『この情報はこう読め』シリーズ、『メディアの現象学』『亡国の予言』『自己決定力』『メディアと差別』他多数。

『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』は志木電子書籍より昨年電子化。

<<<<立読みコーナー>>>

立読み版は、「目次」「究極のニヒリズムを越えて――原発社会との対峙」「二〇一一年版へのあとがき」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
※PDF版は画面左下「Scribd.の右隣りにあるアイコン[view in fullscreen]のアイコンをクリックすると拡大されます(画面を元に戻す時には、[Exit Fullscreen]をクリックしてください)。
文字は画面下の「+-ボタン」で拡大縮小します。ただしリフロー(スクロールしないで画面の範囲内で文字拡大していくこと)はしません。

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かくもさまざまな言論操作_立読み

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  目 次

究極のニヒリズムを越えて──原発社会との対峙
一党独裁と情報帝国主義について
野村証券「不祥事」と権力意志
人間の本性は卑しいものだという倣慢な思い込み
「政治家という職業」こそは倒錯である
国家独占資本主義のいかがわし
独裁の危機意識は虚構を増幅する
「産業としての駐留」について
「国策」はどのような「許容」をも許容しない
一党独裁の仕上げとしての「持ち株会社」解禁
「無償労働」は「無償」ゆえにこそかけがえのない価値である
情報を「主体化」する心得
改革と称する虚偽と反省という名の開き直り
一党独裁に対抗する地方自治とは
なにが批判されるべきなのか
官僚スキャンダル報道のからくり
「行政改革」というデマゴギーについて
マスコミ批判の主体性
司法は自らを卑しくする
「民間的なもの」への意志
国家は生活に優越しない
「制度」としての創価学会攻撃
この国家は謝罪しない
マスコミはセクハラを理解しない
共生的民主主義について
だからどうしたというのか
情報公開法について
住専処理と世論操作
新・食糧法の欺瞞
住専問題「批判」のからくり
差別に対して制度は何をなし得るか
さまざまな官僚独裁
「好景気」は「いいことか」か
「共生的であること」の原則
「大蔵省解体」の欺瞞
「価格破壊」は「いいこと」か
「所得移転」というからくり
自治と共生と心意気
「信用不安」という脅し
情報帝国主義とはなにか
独裁には断固市民感覚を

あとがき
二〇一一年版へのあとがき

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 究極のニヒリズムを越えて
   ──原発社会との対峙

 原子力に平和利用などというものはない

 原子力に平和利用などというものはない。
 この端的な一言こそが、何にもましてわれわれ──まっとうにニヒリズムを越えようとする人々──の基本的な認識でなければなるまい。原子力にそもそも、平和利用などというものはあり得ない。この基本認識から出発しないから、何やらもって回った虚偽とヨダレクリを大量にばらまきながら、結局原発しかないんだなァ、停電も困るし……といった、震災で少しは覚醒した大衆社会が、その本来のニヒリズムにまたぞろ帰着する事態を、原発体制はせっせと虚偽をばらまきながら待っている。ハダカの帝王の生来の極度の無能と、政治そのものが意図した金縛り──帝王と経産大臣の玄海原発を巡る八百長なんて相撲より下手だった──との合わせ技による被災民対策の放棄は、覚醒しかけた大衆社会への日本流テルミドールなのだ。
 一貫して核依存社会を根底から批判し続けた故・高木仁三郎は、『核時代を生きる』で、一九八二年のイスラエルによる建設中のイラクの原子炉への攻撃と破壊について述べ、この蛮行こそ「平和利用」論の欺瞞を明かしていると言う。「平和利用」という欺瞞こそが、いまや「核の潜在的脅威をどれだけ増大させているのか」と指摘し、そもそも《「平和」とはいったい何か》と問うている。一九八三年に発せられたこの本質的な問いに向き合い、二〇一一年の常識は「核に平和利用なんてものはない」とずけりと答えるのである。

《私にはむしろ、軍事一辺倒によってある種の行き詰まりに直面した核技術開発を、発電など民事もとりこむことによって裾野をひろげ、いっそう巨大なシステムとして確立しようとする意図があったように思える。(アメリカにとって)原子力の「平和」利用と軍事利用は、車の両輪となった。》(第一章「〈核〉としての原発」)

 そしてまた高木は、

《放射能の危険性という面では、ある意味では核兵器よりもおそろしい。大型原発では、広島の原爆の二、三発分ぐらいの死の灰が毎日つくられている。原発の集中する福島県の双葉とか福井の若狭のようなところでは、何百億キュリーの(何兆人もの致死量にあたる)放射能が常時存在しているわけです。》(「核に滅ぶか?」)

 と述べる。この先を読んだら、あなたたちは慄然たるブラックユーモアに泣き笑うだろう。これほど危険な原発施設が地震などに会えば、問題をどう解決することが出来るかと、一九八〇年前半に、すでに問いが発せられているのである。現にいま二〇一一年七月二十七日に国会でなされた、東大教授・児玉龍彦氏の証言がある。福島原発の事故による広範囲な汚染は、ヒロシマの三十九・六個分だと言うのだ(『東京新聞』二〇一一年八月三日)。ウラン換算では二十個文が漏出し、しかも《原爆による放射能の残存量が一年で千分の一程度に低下するのに対し、原発の放射能汚染は十分の一程度にしかならない》(同)と証言している。
 いまわれわれは「ダイジョーブだよ、ダイジョーブだよ」とわめきたてる「専門家」たち(その実は政治的ペテン師たち)と共に、地獄へ落ちるかも知れない実存を慰謝(?)しているわけだ!

 民衆無視の底にあるもの

 二〇一一年八月十七日のTV報道は、北海道知事が泊原発の公式運転を許可したと伝えた。ずっと運転を続けて来たので漢奸、オット違った菅(総理)が誓った原発再開はストレステストを経てからという約束は、踏みにじって構わないということのようだ。どういう理屈か分らないが、TVコメンターでさえ、ずっと稼働して来たからこそストレステストが必要なんじゃないか、と指摘するくらい無茶苦茶な論理である。
 やれやれ、もう待てないのかい。ここにあるのは、原発再開に当たって欺瞞に満ちた屁理屈さえ必要としないと、日本の人民が権力からすっかり嘗められているという実態だ。いまは原発の危険を考えているようだがなに構わない、すぐ民衆はメイファーズ(仕方がない)に落ち着くだろう。どうせ落ち着く先は沈黙でしかないというわけ。ニヒリズム社会(哲学なき社会)が、すっかり足下を見透かされているのだ。それとも君は、ニヒリズムを拒否出来るか?
 北海道知事は総理発言を無視したように見えるが、すでに邪推したように総理も経産相も北海道知事も、みんな引っ括めた八百長芝居なのではないのかと思った方が俯に落ちる。
 旧体制(アンシャンレジューム)への動きはもう始まっている。覚醒の延長に健康な社会を志向する人々が勝つのか、それとも究極のニヒリズムである原発翼賛社会に結局は落ち着くのか。ここに決戦は賭けられている。
 相変わらずがんばっている「東京新聞」だが、二〇一一・八・十一朝刊に「電源立地交付金は温存/脱原発と矛盾/国民負担倍増」という見出しで大きく報道している。嘘とペテンで原発が塗り固められているのは昔からだが、それに官僚独裁の「依らしめるべし知らしむべかざる」という傲慢体質が重なると、ここで記事がすっぱ抜いたようなことになる。
《この促進税額は電気料金の利用明細書にも明示されず、国民が知らないうちに原発建設に荷担させられているのも同然だ》(同)と鋭く問うた同記事は、《再生エネルギーを本気で普及させるなら、同時に電源立地地域対策交付金の見直しも必要ではないか》(同)と妥当に疑問を投げ掛けている。それに、わたしが権力の中の権力と呼ぶ官僚独裁が、露骨にニヒリズム社会の立て直しに動いているのが読み取れる。また同日の同紙は、研究家の新原昭治氏が米国立公文書館で入手したとして、興味深い記事を出している。

《米国の原子力協力は五四年の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米国に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上った。(略)フーバー国務長官代行は(略)核兵器を日本に配備する必要があると判断した。(略)「平和利用」への理解が深まれば「軍事的な原子力」への理解も進み》(同)

 核兵器を自分の手で配備するのは目的だが、「日帝自立」主義者に自分でされるのは願い下げということか。
 尻馬に乗って、見ろ「平和利用」なんてありはしないのだ、などと言う気はない。ああそれにしても、言葉の政治にかくも抵抗力がない日本人の特質は、すっかり鬼畜米英にばれていたわけだ! 情けないね。そう言えば、言葉の政治にまんまと絡め取られて、「平和利用」にすっかり感激し、原発批判の運動を「ソ連の手先」などとクソミソに罵倒したカリスマがいたな(駄目を押すが吉本隆明のことである)。仮にそうであるにせよ、当時の吉本ら原発批判批判派が、アメリカの手先であることは、どうやら証明されてしまったわけだ。

 虚無社会の暴力性

 原発社会は究極の虚無社会である。人々は原発の地獄の釜の上で、被災した他者への痛みを感じることもなく、ただ他者に不幸が行ったことに満足し、たかが停電(それもどうやらデマだが)等の「便利さ」と引き換えに、自分だけはツケが回らないという錯覚で納得させ、原発の存在を前提にする。究極の頽廃だ。
 この虚無社会は二つの面で尖鋭に暴力的である。消費と生産において。消費の面での暴力性はすでに述べた。たかが停電がない程度の便利さをもって、地獄を日常化する。しかもそこには“平和利用”というペテンを駆使した、原子力基地建設が狙いとしてある。
 一方で消費面の暴力的な本質と並ぶ生産面での暴力は、原発現場の労働に関わっている。わたしは一九八〇年代に盛んに原発を検証するテレビドキュメントに携わったが、電力会社自身が安全を称しながら、原発現場に入りたくないという気分が濃厚であった。そして敦賀原発で、行く先を告げられないまま、労働手配師によって現場に投入された人物に出会った。彼は筑豊のマルタン(炭鉱離職者)だった。
 すでに七〇年代に、炉心部近くで事故で死んだ労働者を、誰もが名前さえ知らないというケースがあった。山谷から日雇い労働者を手配師が連れて来たので、何者とも知れなかったのである。今度の福島第一原発事故でも大阪あいりん地区(釜が崎)から、行き先を教えられずに連れて来られたという労働者が話題になった。
 私が直面した事態は、エネルギー転換のさなか、資本と労働の総対決と言われた三井三池炭鉱ストを始めとして、争議に負けた炭鉱労働者が、幽鬼のごとくさ迷うマルタンと井上光晴が描いたように窮迫のどんぞこに喘ぎ、そこに付け込んだ手配師が、原発に彼らを送り込むネットワークを作り上げている現実だった。これに下請け労働者から聞いた、現場の管理者はしばしば、生産力を阻害するという理由で、親方から原発労働者にとっては必需品の被曝量計測メーターのスイッチを切って働かされるという話を付け加えようか。
 原発は消費、生産双方において、コスト社会の尖鋭に突出した暴力性なのである。

 独裁のクソ溜め

 自民党一党独裁とは、かくも汚猥なクソ溜めの集大成であったことを理解しなければならない。
 そしてマニフェストを掲げていた政権奪取初期の民主党は、すくなくも理念ではクソ溜めに挑戦していた。だから金銭疑惑というもっとも安直な手段で、つまり後で証拠不十分で白となるのを前提に一定時期は被告として縛れる手法が安直なのだが、鳩山・小沢を行動不能に追いこむ陰謀があったとわたしは邪推する(無位無官にして納税者の爺さん岡庭昇には、証拠はないにせよ、これくらいの公人公職批判は特権としてある)。
 それは恐らくはアメリカと、日本の官僚独裁(すなわちクソ溜めそれ自身)の共謀であった。官僚独裁は一党独裁というすり替えの隠れ蓑の陰で、独裁を支える日本のあらゆる面での汚猥なクソ溜めが、白日のもとにさらけ出されることに怯えた。アメリカは田中角栄の最強の弟子である小沢一郎が、師の「日帝自立論」を継承しているかも知れない面を忌避した。自分たちが日本の核兵器配置を企図するのは構わないが、日本が自らそれをやるのは大問題だと言うわけだ。
 かくて鳩山政権時代にアメリカに呼ばれた漢奸、オット違った菅(直人)は、クソ溜め連合が抜擢した鳩山=小沢への刺客だったのである(と無位無官の爺さんは邪推する)。
 原発は安全かどうかなどと、いくら論争しても空しい。そのような論争への参加そのものがわれわれ、すなわちニヒリズム社会を越えて行こうとする者にとっては敗北である。絶望的な実感の中、「メイファーズ(仕方がない)」精神と闘い続けた魯迅を想え。
 原発の回りには、ありとあらゆる旧社会のクソ溜めが重なり合う。そのクソ溜の連鎖の中に浸って、飽食の頽廃をなお(出来るだけ安いコストに変わったとは言え)続けようとするのが、依然として腰砕けの日本の大衆社会の本質である。官僚独裁が策動する再びなるニヒリズムへの雪崩込みは、まんまと成功するだろう。クソ溜め社会のシンボルとしての原発は、また不滅の輝きを誇るだろう。われわれはまた負けるだろう。しかし魯迅もまた、必敗の思想ゆえに闘えた。一パーセントの不服従があれば、奴等の魂胆通りには行かないのである。
 クソ溜めを正当に忌避して、すこしでもニヒリズム共犯社会を拒否する方向に、真っ向から発想を転換出来るか。たとえ一パーセントならぬ一億人中の六人(笑)でも、ともかく腐臭に満ちたニヒリズムを嫌悪出来るか。早い話が嫌なものを嫌と言えるか。問題はそこである。匂いはすぐ不感症になるよう、体は作られているらしい。そうだとすれば、クソ溜めの中の飽食はさぞかし心地良いだろうなあ。三日でも共犯したら、止められないものなあ。

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二〇一一年版へのあとがき

 一九九八年に三一書房から「かくもさまざまな言論操作」を出して貰った。ちょうど同社に大争議が起きたときで、綺麗な本を作っていただいた林順治氏、大倉徹氏ともども抱いた感想だと思うが、何かと営業活動に限界があったのは残念だった。
 刊行十三年後の二〇一一年初夏、元光文社カッパ・ブックスの編集者で、市民運動や自ら電子出版を手がけている京谷六二氏に出会い、わたしとしては二冊目の電子出版を進められ、二〇一一年版への前書きである「究極のニヒリズムを越えて──原発社会との対峙」と「二〇一一年版へのあとがき」を加えて出して頂くことになった。望外の喜びであり京谷さんに感謝する。
 わたしとしては、危機の年二〇一一年にあっても、結局かつてわたしが指摘したことは何も解決していないではないかと言いたいが、そんなことは誇るべきではなく絶望に直結する思いだろう。だが何もかも未解決であることに正当に怒るべきにせよ、そのことで陰気になるのは止めよう。闘いは始まったばかりだ。陽気に行こうじゃないか。

  二〇一一年八月六日 著者
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