2012年4月15日 (日)

大泉黒石著
『山の人生 上』
著者略歴&立読み版

書名: 『山の人生 上』
価格: 525円

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著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

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立読み版は、目次と本文の三節目にあたる「谷底の絃歌」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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立読み版『山の人生 上』

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【立読み版】

山の人生 上

大泉黒石

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  目  次

上越アルプス──三国山塊の横顔──
紅葉の中をゆく──片品川渓谷──
谷底の絃歌
銀山平の今昔
駒鳥の唄──鬼怒川渓谷──
六字の題目
秋の夜の旅
雪の中の浮世
雪橇は走る
利根の深渓──湯の小屋の一夜──
石塔を剃る──狸を食うまで譚──
鷲の復讐
蝮の缶詰

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  谷底の絃歌

 上州と岩代の国境尾瀬沼(おぜぬま)からの帰りだった。片品川渓谷老神(おいがみ)温泉、白雲閣の湯槽(ゆぶね)に浸りながら、私の道連(みちづ)れは、山の怪奇について各自の経験を語合うのだった。この道連れというのは、東京から来た登山家で、私とは片品川渓谷で知合ったのである。こういったのは私、
「これも山の怪異というものでしょうか、国立公園候補地になっている尾瀬沼」
「知っています」
「あれから沼山(ぬまやま)峠を越えて東へ一里の山中に、矢櫃平(やびつだいら)といって、摺鉢の底みたような熊笹の原がある。ここは源義家に追われた安部惟任(あベこれとう)一族が、はるばる奥州から利根へ逃げ込むときに、矢櫃、鎧櫃(よろいびつ)などを埋匿(まいとく)したというので、矢櫃平の名称があるんだそうですがね。不思議なことは、只今でもこの笹原に足踏み入れると、方角の見当がつかなくなって、立往生する。御承知の通り、山の中で頼りになるものは地図でしょう。それがですよ。持っている地図の文字や線が消えてしまって、いつの間にやら、白紙になっている。だからどちらへ行ったらいいか、サッパリわからず、迷いに迷いながら、やっとのことで笹原を脱け出て見ると、また、いつの間にやら元の地図になっているんだそうです」
「ほう。本当ですか?」
「さあ。どうですかなあ。そういう話を知っておれば、尾瀬沼を訪ねついでに、行ってみるんでしたが、山を下ってから聞いたので、本当か嘘かわかりません。山の人たち……樵夫(きこり)や炭焼などの説によると、これは正しく滅亡した安部一族の幽魂、ここに留まって、埋めし宝を護るためになす業である、というている。怖れて近づかないそうです」
「しかしこういうことがあります。私の知っている山の温泉宿の二階座敷に、近ごろ女の幽霊が出たり、真夜中になると、床の下から嬰児(あかご)の泣声がきこえる、という噂が立ったんです」
「なるほど」
「噂は段々ひろがって、その土地の新聞にまで書立てられるほど、有名になった。温泉場の人たちの話によると、その温泉宿は、もと部落の者の墓地だったところへ建てたんだそうで、墓地の持主の娘が旅(たび)商人(あきんど)の胤(たね)を宿して、女の子を生んだ。父親が怒って嬰児(あかご)を里子に出して終った。娘は気が違って淵に身を投げて死んだ。父親は家をたたんで他国へ行っちまった。その家と墓地を無代同様に買ったのが、温泉宿の主人で、墓地のそばに温泉が湧いているもんだから、墓地を取り払って宿屋を建てたんですな」
「ははあ。幽霊の出る下地はありますね」
「実際、何か出そうな陰気な家でしてね。建ててから二十年近くになるというから、家も傷むでしょうが、天井を見れば雨の汚点(しみ)だらけ、廊下を歩けばミシリ、ミシリ軋(きし)むんです。以前そんな悲劇があったし、家が家だし、幽霊が出たって不思議じゃないんだから、女の幽霊があらわれるの、嬰児(あかご)の泣き声がするの、とそんな評判が立つと、世間には物好が多いから、こいつァ面白い、嬰児の泣声なんざ、聞こえなくってもいいが、別嬪の幽霊にはお目にかかりたいもんだ、というわけで、温泉の効果(ききめ)なんかどうでもいい連中が、どしどし押しかけて行く」
「ほう。出ますか。幽霊」
「へへッ。出るもんですか!」
「出なくっちゃ、お客が承知しますまい?」
「承知するもしないも、宿屋の方では、別嬪の幽霊がサービスを致しますから、御入浴にいらッしゃいなんて、言ったわけじゃなし、広告したわけではないから、幽霊が出ようと出まいと、知ったことじゃありませんよ。お客は大抵田舎の人たちだから、幽霊が出なければ、日が悪いと思って翌朝帰る。気の長いのは泊り込んでいる。お蔭様で客のなかった宿が、満員の盛況です。逆宣伝も巧く当るとこの通り。幽霊が出るとか、嬰児が泣くとか、噂を立てさせて置いて、知らん顔をしている主人、頭がいいですな」
「ははははは」
「矢櫃平もその手ではないかと思うです。矢の根などが出るそうだから、埋蔵物か何か掘っている奴が、登山家よけの禁厭(まじない)に、地図が白紙になるなんて、途方もないことをね」
「なるほど」
「自分で経験しないことには判らんけれども」
「それはそうです。経験といえば、今度の旅行で私は実に奇怪な現象……というか何というか……あなたの言葉ではないが、これだけは自分の経験だから、実際なんです。四万(しま)温泉から三国街道をぬけるつもりで、入込んだ雨見山(あめみやま)の谷。道には迷うわ、日は暮れるわ、谷間を彷(さまよ)うていると、山の斜面に朽果てた山小屋があったから、野宿する気で入込んで、寝ちまいました」
「ふむ」
「夜中に目が醒(さ)めると、何でしょう。宵会の座敷で芸者が、三味線ひいて唄い騒ぐような賑やかな物音が、真暗い谷底から聞えて来るじゃありませんか! この山奥に料理屋でもあるまいし、不思議に思って聞いているうちに、賑やかな音はパッタリ絶えてしまった。私もまたウトウト眠りました。翌朝やっとのことで、三国街道へ出ました。一軒の掛茶屋(かけぢゃや)に寄りますと、夜半の一件を思い出したんで、茶屋の爺さんに話したところが、私が迷込んだ雨見の谷は、三十六年前までは炭焼部落だったそうで、炭焼男を客に、越後三俣(みつまた)の美人が五人、谷底に小さい紅燈(こうとう)の巷(ちまた)をつくっていたが、大雪崩で家は潰れ、彼女たちは惨死した。私が闇の底に聞いた三味線や唄声は、女たちの亡霊がなす業だろうというのです。話を聞いてからゾッとしましたよ。ははははは」

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2012年3月17日 (土)

大泉黒石 『人間廃業』
本日より紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストアで発売です!
そして『人生見物』はボイジャーストア、hontoから発売!

本日より紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストア他で、
大泉黒石(1893-1957)著『人間廃業』が発売となりました。

Haigyo

立ち読み版は→こちらから

圧倒的な語り口で紡ぎ出される文章。貧乏のどん底で繰り広げられる人間活劇は、ニヒリズムをベースにしながらも抱腹絶倒、まるで古典落語のような面白さ。
本書は大泉黒石の著書の代表作の一冊です。
是非、立ち読み版をご覧いただければ幸いです。

また、ボイジャーストア、hontoでは同じく大泉黒石の
『人生見物』も発売となっております。

Kenbutu

立ち読み版は→こちらから

黒石と友人が、釜山からハルピン経由でシベリアへ。行く先々で巻き起る騒動とともに、大正年間における日本のシベリア出兵という騒然とした世相がくっきりと浮かび上がります。
こちらは来週23日より、紀伊国屋BookWeb、ソニーリーダーストアで発売となります。


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2012年3月 6日 (火)

大泉黒石著
『人 生 見 物』
著者略歴&立読み版

書名: 『人生見物』
価格: 420円

Kenbutsu

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

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立読み版は、本文の2章に該当する「二」の冒頭部分です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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人生見物_立読み版


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【立読み版】

人生見物

大泉黒石

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   二

 アルトール・ショーペンハウエルの動機説(エテイシエレグルンド)によると、俺みたいなつむじ曲がりの男が時々鳴動するのも矢張り虫の精だそうだ。岩蛸の忠告には無頓着で小田巻立春斎に鳴動してやった訳はこうだから、勢い、親方の家に居るわけにもいくまい。当てはないけれども出て行こうじゃないかと言うと慌て者の万之助が、待っていましたと言わぬばかりに「痛快痛快。小田巻風情の没分暁漢(ワカラズヤ)にコキ使われるような手の筋は持ちませんと言ってやりゃよかった。出て行くなら一刻も早い方がいい。親方が戻ると面倒だからなア」と一人で勇み立ちながら、硯に墨を摺るのだ。何をやり出すかと思うと、貸本屋から借りた「義士銘々伝」の上表紙に『一筆啓上、長々お世話になったる我等両人、時来りて今日立ち退き申す。両人出世の暁には昔日の恩義に酬ゆるべく、別れに臨み固く誓い申す者也、御機嫌宜敷、伝兵衛殿』と書き殴って、仏壇の正面に押し立てた。そして「君、これでよかろうじゃないか」と言った。いいかも知れないが、親方に読めるかしらと心配すると、それだから君、このとおり平仮名さ、と澄ましていたが、大袈裟な男だ。万之助とはシベリアで別れたきり会わないから、平仮名の文句どおりに、昔日の恩に酬いたかどうか知らないけれども、親方の家を出ると間もなく、親方のことなんか曖気(おくび)にも出さないほど当てにならぬ万之助のことだから、本気にして待っていようものなら、とんだ馬鹿を見るのが落ちだろう。岩蛸が見たら噴き出すかも知れないと思いながら、ビール箱の家を出た。出た足で三河島の屠牛場へころげ込んだ。
 こう言うと、俺たちの親兄弟が牛の皮でも剥いでいるように聞こえるから、その辺の消息を明らかにする必要がある。けれども三年前に一通り書いた『俺の穢多時代』がそれだ。も一度くり返してもいいが、書けば穢多という言葉が出る。大泉黒石ともあろうものが、法律で禁じてある言葉を平気で使うとは何事だ。挨拶の次第によっては覚悟があると、三年前に水平社仲間に脅かされて面食らったこともある。親代々の水平ではないが、貧乏のお蔭で社員に選挙される資格は充分あるつもりだ。それ程馴染みの深い俺は何でもご承知だ、挨拶の次第によって肉切庖丁でも持ち込まれちゃ大変だから、屠牛場時代の話はやめた。折角だが今度もやめる。そして屠牛場からシベリアへ駆け出そう。シベリアへ行くならつてがあると万之助が俺を誘ったなんて先刻も言ったが、そういう事情で、出発の支度や路銀の工面をつけると大正七年十月がやって来た。これでは余りあっけないだろう。この節地方へ行くと俺は間違って文豪の候補者扱いにされるのだ。折角の好意なら候補者なんて心細い。何故いきなり文豪にしてくれないのかと思っているくらいだから、気の利いた立志伝の作者を見つけたら、この辺の記述を一つこういうふうに書いて貰おうと思っている。即ち「ナポレオンの望みなしと雖(いえど)も、後年に到って文豪の疑いある大泉黒石は、この時悟るところありて牛殺しの鉄の棒をガラリと投げ捨て、手足の血糊を洗い落として屠牛場を立ち去り、颯爽たる姿を東京発下関行三等の隅に現せり」と、このくらい誇張しないとやり切れぬ。その夜行列車のベンチに、相棒の万之助と二十四時間座っていたら、下関駅に着いた。赤い電灯のついている賑やかな地下道をぬけて桟橋へ出ると、真っ暗い足場を押したり押されたりしているうちに、関釜連絡船百済丸の下甲板へ出た。出たかと思うと、今度は忽ち荷物艙みたいな所に放り込まれた。田舎芝居の桟敷より窮屈で暗くて南京虫臭い畳床が、両側二段に仕切られている。愚図愚図していると満員になりそうだから、争って割り込んだ。靴と下駄を枕に、ひと先ず横になって落ちついて見た。何のことはない古箪笥の抽斗(ひきだし)から首だけ持ち出している形だ。明日の朝までこの穴の中に逼息(ひつそく)していなければならないとはウンザリだねと言うと、かりそめにも朝鮮へ渡ろうという者が、今から悲観するようじゃ仕様がないよ、と万之助が言った。その癖、波が少し高くなって船がゆれ出すと、真っ先に蒼くなったのがこの男なんだ。かりそめにも朝鮮へ押し渡ろうという者が、今からその有様じゃ、先が思いやられるなア、と言い返してやると、どうもこの、船なんて奴は僕の性に合いかねると見えて、このとおり頭がグラグラする、吐きそうだと弁解したもんだ。その弁解に付け加えて、何しろ海へ乗り出すのはこれが始めてなんだと言った。そして、船室を出ると翌朝まで降りて来なかった。甲板の上を夜っぴて歩きながら、玄海の波に落ちて砕ける星の光が、一つ一つ減っていくのを待っていたのだそうだ。黒み渡る山と山との間に、長っ細いトンネルみたいな釜山の桟橋の影を見ると、足をバタバタやって喜んだのだそうだ。そんなことは知らないから、一人でも減ると助かると思ってウンと手足を伸ばすと「痛い!」と怒鳴って跳び上がった奴があった。見ると、今しがた、荷物の陰に転がっていた朝鮮人の「チゲクン」が、いつの間にか万之助の席へ辷り込みに来ていたのだ。暗くてハッキリしないが、鼻はペシャンコで頭の裏が崖みたいな男だ。この朝鮮のオビンズルさんが、脾腹を押さえて顔を顰めながら、今にも俺に掴みかかりそうな権幕だから肝を潰した。
「どうしました?」
「あんたが私の腹を蹴ったんだ!」
「痛いかね?」
「痛い痛い」とまた脾腹を押さえ直したから俺が蹴ったんだろう。こんなときは大急ぎで詫るに限る。俺が喫いかけの金蝙蝠(ゴールデンバツト)を床の上に吐きすてて起き直ると、朝鮮のオビンズルさんがいきなりパッと拾い取った。そして旨そうに、スパスパと喫(ふ)かそうというのだから、拍子がぬけて気の毒になった。だから一箱分けてやると、もう脾腹の方なんか、どうでもよろしいといった格好だ。ニコニコと笑顔をつくって「どうも有り難う。あんたはどこまでいらっしゃるか」なんて覚束ない日本語で、反対(あべこべ)に挨拶した。おかしな男だ。俺がシベリアへ行くのだと答えると、オビンズルさんは目を丸くして言うのだ。「それは、あんまり遠いですなア。私の田舎の郭山(かくさん)でさえ、雪が降ったと言いますから。シベリアはもうよっぽど積もっていましょうなア」そこで俺が聞いてみた。「朝鮮はよく知らないのですよ。郭山てどの辺です?」すると彼は答えた。「定州(チヨンジユ)の一つ先きです」「その定州がわがらん」「明後日の朝、そこを通りますからご覧なさい」と彼が笑った。成るほど明後日の朝になると、郭山に着いた。禿地の真ん中に背負い投げを食ったような不景気なステイションがあって、オビンズルさんの兄弟みたいな朝鮮人が、プラットホームに固まりながら、物欲しそうな目つきで、汽車の窓を眺めていた。ここに十分間停っていると、釜山から乗り合わせた出征兵どもが、あんまり退屈なもんだから、正宗や弁当の食いかけを、窓から突き出して揶揄ったもんだ。おい! ヨボ! これをやるから、汽車の尻を押せやい! すると五、六人のオビンズルさんが線路へ躍り込んで、列車の尻を必死になって押した。出征兵どもが拍手喝采する。列車はビクともしない。弁当の食いかけはお預けだ。オビンズルさんは悄然として引き揚げた。駅長が笑っている。日本の兵隊は酷い悪戯をするものだと思ったが、この尻押し連の中に、下車したばかりの船友もいるんだから感心したことがある。この船友のオビンズルさんが万之助の席へ割り込んで、殆んどひと晩一人で饒舌ろうと言うのだ。眠くはあるが、眠ると南京虫にやられそうだから、無闇と煙草を喫(ふ)かして話を聞いているうちに、鼻の穴が笹子のトンネルみたいに真っ黒くなった。オビンズルさんの言うことは、よく解りかねるけれども、何だか一人の兄貴があって、この兄貴と郭山の田舎から釜山港へ出て来たらしい。そこで誘拐屋にだまされて、九州若松近在の石炭山に嵌められた。もっとも誘拐屋の手にかかって日本へ渡る朝鮮の労働連は、毎日八百人もあるそうだから、その組だろうと思って謹聴していると、つい二、三日前のことだ、五十人ばかりの坑夫がセッセと石炭を掘っている第何号かの坑に火が入った。空気を早く絶たなければ、何万か何十万の損害になるので、係の役人が、坑夫ぐるみに坑口を密閉したのだそうだ。火が消える時間を見計って、坑の口をあけると、五十人ばかりの坑夫が、坑の扉口まで這い寄ったまま、黒焦げになっていた。その中にオビンズルさんの兄貴がいたのだそうだ。俺も大抵のことはやったつもりだが、まだ坑夫の経験はないから、随分乱暴な真似をするもんだと、心中大いに驚いた。オビンズルさんの兄貴は何万円か何十万円かの、犠牲の一人になって焼け死んだわけだから、慰謝料の千や二千は寄越したろうと聞いてみたら、坑の大将が黙って十円札を一枚くれたと言った。粗末な命だ。それでは旅費にも足るまいと言うと、「全くです。郭山へ着くとお終いになります。でも日本にいるよりは安全です」と悲しげに呟いた。あんまり可哀想だから釜山へつくと、電車道のちっぽけなカフェーへ連れ込んでやった。万之助が陸軍省に勤めている知合いの役人から貰った金を二分して、旅費を差し引いても、この男を喜ばせるのに差し支えはないと思うから、朝飯を奢ってやるがどうだいと、船の下りぎわに万之助と相談すると、それもよかろうと言った。そのカフェーは三角路の釜山郵便局と向き合っている。後ろは街で前は丘だ。丘の上に憲兵分隊の看板が立っていた。卓子(テーブル)に腰かけて窓の外を眺めると、白衣の朝鮮人が桶を担いだり車を押したり、ウヨウヨ通る。粥の椀を抱えてツルツル啜りながら、天狗の団扇みたいな煙草の葉を売っている爺さんがいる。見すぼらしい電車がやって来ると、砂ぼこりが立って、煙草の葉が真っ白くなる。腰から下がひどく冷えるから、成るほど朝鮮は寒いなアと言いながら、万之助を見ると、いつの間にか手も顔も洗わずにパンを噛っているのだ。オビンズルさんがナイフを持って俺の合図を待っていた。だから、サア遠慮なく平らげてくれたまえと言うと、石のように固いパンを一分間で食いつくした上に、バタの皿を舐めてしまった。よっぽどひだるいのだろうと思った。「も一つ何か注文したまえ、ライスカレーがいいだろう」と俺が言った。するとオビンズルさんは、海老のフライにしましょうと言った。万之助がパンの中から驚きの目を見張って俺を見た。その海老のフライを片づけてしまって物足りない様子をしているから「も一つ注文したまえ、今度はライスカレーがいいよ。海老のフライなんぞ、いくら食ったって腹にこたえるもんじゃない」と言った。つづけざまに高い海老を食われてはたまらない。万之助が妙な目付きでまた俺を見るから、ハハア、奴さんヒヤヒヤしているのだと思いながら朝飯を片づけた。連絡車に乗ろうかひと休みしようかと、万之助が言い出した。こんなに疲れているから次の汽車にして、酒でも飲もうと俺が発起すると、すぐ賛成した。これからが不思議なんだ。オビンズルさんとは、カフェーの戸口で別れることにきめた。「大層にご馳走さまでした。ご機嫌よろしゅう」と朝鮮人がステイションの方ヘスゴスゴと出て行くのを待ち構えたように、万之助かムッとした表情で「おい君!」と言うのだ。「君は何だって、あんなヨボの野郎に、無闇と物を食わせるんだい?」だから俺はこう言った。「いいじゃないか、お互いさまだ」ところが万之助はますますムッとして「よかないよ!」と怒鳴った。「僕等は未だ他人(ひと)の世話を焼くような身分じゃあるまい!」

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岡庭昇著
『この情報はこう読め』
著者略歴&立読み版

書名: 『この情報はこう読め』
価格: 500円(税込)
3月中旬、刊行予定。

Johoi

著者: 岡庭昇(おかにわ・のぼる)
1942年生まれ。
慶應大学経済学部卒業後、TBSに入社。ドキュメント・ディレクターとして活躍する一方、文芸評論家としても多くの著作を出す。
原発、人権、差別、交通警察、ゴミ、在日外国人、学校教育などのテーマに切り込む一方、テレビ・ディレクターだからこそのメディア、ニュースの読み方を提示。
著書に、『飽食の予言』シリーズ、『この情報はこう読め』シリーズ、『メディアの現象学』『亡国の予言』『自己決定力』『メディアと差別』他多数。

『かくもさまざまな言論操作』『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』は志木電子書籍より昨年電子化。


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立読み版は、「電子書籍版への序文」「目次」「汚染列島をどう生きるか 狂奔する消費者不在のコスト史上主義」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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この情報はこう読め_立読み版


【テキスト版】

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電子書籍版への序文
──このクソはこう読め!

 本書は一九八九年に青峰社から発行した。
 一九八九年と言えば、『天安門事変』という歴史的な反乱があった。わたしは魯迅に習って、こう書いた。
《学生が改革に乗りださなければならない社会は不幸だが、いかに頽廃しても学生が一声も上げない社会はもっと不幸ではないか》
 自らの限りない頽廃を顧みること抜きに、他国の青年たちの体を張った抵抗を賛美してもあざといだけではないか。まず鏡に映った己の醜態を知れ。
 公的な情報は、まずウソであると決め付けた上で、そこから思考すること。わたしの永年の主張を、誇張が過ぎると思っていた「和と常識の国」の人々は、二〇一一年の東京電力の醜態を眼前にして自分の方が非常識だと気付いたはずだ。
 公に流通している「制度としての情報」、つまり大陰謀から小陰謀までのクソをどう読み変えるか。どこかに真実をたっぷり含んだ「本当の話」が用意されているわけではない。本当の情報を知る良いルートがあるわけでもない。すべての手掛かりは、まさにそのクソの中にある。
 わたしがテレビの現役ドキュメンタリストだったそのころでも、何かツテがあって「この情報はこう読め」と言ったわけではない。テレビ局の報道マンなんて、いささかも情報のプロなんかじゃなくて、そのときどきの仕掛けに屈折も抜きに感情を同化するだけの無邪気な存在でしかないのだ。
 小沢一郎が悪人の代名詞のように扱われる現状は、二〇〇九年衆議院選挙のマニフェストがやはり官僚独裁やアメリカにとって確実に脅威だったんだな、と少し知恵のある者なら誰しも思う。ところがテレビや新聞報道は、本気で「小沢の犯罪」に怒っているらしいから恐れ入る。どうしてこんな幼稚園に、情報の読み替えのルーツなどがあろう。
 手掛かりは垂れ流されるクソの中にある。それは報道が自前で取材したものではない。だから多少は良心的であるより、思い切りウソっぽい方がかえって真実を(反転して)映している。その真実を読むのは、それを読み得る実力である。
 何の話でも同じだ。政治が駄目なのは、どこがなぜ駄目なのか見抜こうとしない自分のせいなのである。小沢が悪だとテレビが騒げばすぐそれを信じる人間が大半では、いつまでたっても良い政治などが「やって来る」わけがない。
 自分の頭で考え、常に公的情報以外の情報に接することや、思考はどのように多義的であるかを知ることで、自分を鍛え上げる。そのとき、クソはあなたの前で真実の鏡として輝くだろう。
 従って本書のタイトルは、正確にはこうである。
 このクソはこう読め!
 一九八九年に刊行して貰った内藤忍さんと二〇一二年に電子書籍として生き返されて下さった京谷六二さんに感謝する。

岡庭 昇

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 目  次

電子書籍版への序文
──このクソ情報はこう読め!

1 コスト至上主義ニッポンの風景
  ・汚染列島をどう生きるか
    狂奔する消費者不在のコスト至上主義
  ・知らしむべし 依らしむべからず
    墜落した日航機は放射性物質を積んでいた!?
  ・“暗い感情”からの脱却
    傲慢な都市生活者に呪いあれ
  ・資本主義ってなんだっけ
  ・ああ、官民一致協力してガン王国ニッポン!
    社会的責任を放棄するコスト・バカ
  ・傲慢なウソつきたち
    農産物輸入問題の中身
  ・“鬼畜米英”は正しかった
    “民主主義”と“自由”の国アメリカの幻影
  ・印象社会における権力の手法とは
    企業責任を問う者は逮捕する!

2 マスメディアの頽廃
  ・サラリーマンには自分に属する時間がないのか
    “大朝日”による本多勝一の執筆禁止令
  ・テレビ殺すに刃物はいらぬヤラセとひとこと云えばよい
    テレビ=ヤラセの宣伝に隠された本当のねらい
  ・客観報道という名のデマゴギー
  ・管理列島ニッポンの春
    『フライデー』的“スクープ”の手法
  ・法と秩序の奴隷たち
    浅薄な“実力行使”と警察に頼る“スキャンダリズム”
  ・活字人間がなんぼのもんじゃ
    自分を棚上げしてテレビ批判をする“作家”のレベル
  ・匿名報道によって誰が救われるのか
    記者クラブのあり方こそが問題
  ・テレビ批評は不毛地帯なり
    無責任なヨタをとばす“批評家”たち

3 日本社会のファシズム原理
  ・いよいよ広瀬隆攻撃がはじまった
    政治的な目的で流される脆弁の数々
  ・浜田幸一を断固支持する
    形式的な品位の裏にひそむ暴力的構造
  ・“合意のファシズム”について考える
    労働者への抑圧を固定化した「連合」の成立
  ・醜い国家と醜い民衆たち
    日本という暗い風土の暗い権力の体質
  ・ナカソネが高らかに笑う日
    恥知らずな健忘症社会の成立
  ・権力広報としてのスキャンダリズム
    黄色い白人の差別意識
  ・教育は闘争の中にある
    ワンチャン先生騒動記
  ・日本人はどこまで不感症たりうるか
    中畑攻撃に見る労組っぶし
  ・義務教育を廃止せよ
    管理という名の子供たちへの暴力

4 この情報はこう読め
  ・あまりに遠いアジア
  ・“しゃべりすぎる”社会と沈黙させられたままの事実
  ・“アジア人であること”への想像力
  ・国境はどのように越えられたか
    鎖国ニッポンを憫笑する豊かさ
  ・労働と権力にかかわる御参考までのバカ話
  ・法廷ファシズムの時代がきた
    発表ジャーナリズムの空洞化
  ・上海であらためて考えたこと
    “禁じられた歌”の紡ぎ出すもの
  ・鎖国日本人の対外感覚
    外務官僚は国民気質を代行する
  ・歴史に対する感傷と現状認識の欠落と
    歴史の握造を行うニュージャーナリズム
  ・裁判か茶番か
    矢沢美智子と裁判制度の詭計

  あとがき

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汚染列島をどう生きるか
狂奔する消費者不在のコスト至上主義

 『朝日新聞』八八年九月二〇日朝刊に、“トリクロロエチレン/汚染地下水で奇形金魚/千葉/体内、高濃度を検出”という記事が出ている。《発ガン物質の有機塩素系溶剤・トリクロロエチレンによる地下水汚染が問題になっている千葉県君津市で、汚染された井戸の水を利用していた池の金魚が「奇形」になったとして県衛生研究所と県内水面水産試験所が調べていたが、一九日、金魚の体内から〇・三四ppmという高濃度のトリクロロエチレンが検出されたことが明らかになった》(同)というものだ。この記事を読んで、金魚なんてもともと奇形ではないか、といった者がいる。たしかに、きわめて人工的な魚であることは歴史的な事実だが、それとこれとは話が別だろう。汚染された井戸水で飼われていたこの金魚は、体の表面にコブのようなものが多くでき、卵巣のう腫もできていた。
 かたわらに、“農薬が気化/一二〇人が被害/埼玉”という記事があるのも、何やら凄まじい。《畑の土中にまいた液体農薬が気化して流れ出し》、被害が出たというもの。まだ、こんなことをやっているのだ。
 また、それ以前に一六日の同紙には、“病死牛肉/都内でも食用に?/発送用段ボールを納品”という記事が出ている。かねてペットフード用の病死牛肉が、人間向けに大量に出回っていたことが大阪で明らかになり、調査が進められていたが、東京と岐阜にも送られていたことが明らかになったというもの。
 双方とも、人災による食=環境の破壊という点で、まったくおなじ事件と見るべきである。それにしても、まったく、よくもまあ、類似のケースが続々と出てくるものである。
 わたしは八八年九月二六日に、「これでいいか日本の食卓―汚染列島からの証言」を、放送したばかりである。まさに、汚染列島としか評しようのないところにこの国はきている。永年のGNP至上主義と、その支柱であるコスト主義体制がすっかり自然を破壊し、われわれの健康を危機にさらしている。たしかに、根っからコスト主義に囚えられた中年男性たちでさえ、半数が原発反対になったと報道されてはいるが、そしてそれはむろんいいことだが、その一面で、日常的な汚染と環境破壊を省みないのではなんにもならない。むしろ原発の賛否が大きく語られることが、身近な自然破壊に目を向けることを妨げてしまうなら、それほどの皮肉はあるまい。
 八六年の一二月、養殖ハマチの実態をテレビでレポートして、大きな反響を呼んだ。そのとき以来、一貫してわたしは、何が危険な魚で、何が安全な魚かというような“情報”にのみこだわっていたのでは、問題の本質を見誤ることになるだろうと、警告してきた。問題は、消費者を犠牲にすることによってのみ成立している生産体制、コスト切り下げのためならいかに危険なことをしても許されるという、この国の倒錯そのものにある。そのことをわたしは、「食べることによってみずからの身体を食べられるシステム」と呼んだ。
 放送のあと、八七年の二月、全漁連は大会をひらき、TBTOの使用をやめると発表した。それを、民間団体の決議なのに、水産庁の思惑どおり、“TBTO、使用禁止に”と報道した新聞もあった。
 そんなものはまるでウソっぱちだ、とわたしは番組でも、文章でも主張し続けてきた。TBTOは中枢神経を狂わせる薬品だから、ただちに使用禁止されるべきである。水産業界は、それを網に貝や海藻が着かないために使用している。ただちにやめるべきであるが、やめるにはやめるだけの準備が必要である。たとえば養殖の網を、亜鉛メッキの金属網に切り替えることだ。そういう準備にまったくとりかかろうとしていない。また大会の雰囲気は、あたかもわれわれの番組がウソをいっているかのような説明が幹部からなされ、関係者なら誰でも猛毒性を知っているTBTOを、無害な薬品のようにとりつくろったものだった。その上で、世間の批判を避けるため、とりあえず“発表”したのである。実行するわけがない。できるわけがない。
 案の定だった。八八年八月一〇日、環境庁が発表したところによれば、日本近海は全域にわたってTBTOに汚染されており、瀬戸内海に至っては、昨年の二倍の濃度になっている。瀬戸内海が、養殖ハマチや養殖タイの本場であることは、説明するまでもない。
 動かぬ証拠を映像化して、この、官民一体となった、あざとすぎる体制を告発しなければならぬ。いくらやっても、蛙の面にションベンだろうが、やりはじめた以上、ひとつの決着をつけなければなるまい。
 8ミリビデオを片手に、西九州に飛んだ。カメラクルーが大がかりに近づいたのでは、拒絶され、隠されるにきまっている。家庭用ビデオで、観光客を装って証拠の映像を撮影してやろうと思ったのだ。考えてみれば、自然が破壊されているという告発の映像が、美しくある必要はない。いや、美しくあってはいけないはずだ。ひるがえっていえば、テレビ画面の美しい整序性こそ、破壊された自然、汚染のなかの現実を見えないものとさせてきた元凶であるのかもしれない。
 簡単に“犯行現場”をおさえることができた。ロケ運もあるのだろうが、それほどどこでもTBTOを使っているということだろう。それにしても、東松浦で見つけた、TBTOの作業場はたいへんな規模だった。おりしも二人の漁民が、せっせとTBTOで網を染めていたが、どうやら一括請負方式になったらしい。あっけらかんのカー、といったところである。
 まったく、消費者の顔が想像力から欠落しているのだから、なんでも平気でできるということなのだろう。
 そのほか、紀伊半島もまわったが、どこでも以前とおなじように使っていた。行政が無利子の資金を貸し付け、金属網に替えさせることとひきかえに、TBTOを成分禁止にしないかぎり、こんな劇薬が養殖魚を経由して、消費者の体内に入る事態は、回避できない。あるいは原発の取水口と排水口にTBTOを使っているため、禁止処分が出せないのだろうか。
 コスト主義が必然的に健康を犠牲にするというこの国のシステムをこそ撃たねばならぬのだが、政治的な御都合主義によってわれわれの肉体が売りわたされるとなると、さらに腹立たしい。いくらも例があるが、たとえば、八八年三月から六月にかけて表面に出かかった、輸入ブタ肉の問題が典型である。
 まず、アメリカ産のブタ肉から、抗菌剤・スルファミシンが検出された。続いて、台湾産のブタ肉からも、おなじ結果が出た。こう書くと、厚生省はいつも検査に励んでいるようだが、とんでもない。いつもは野放しである。アメリカから何やらキナ臭い噂が伝わってきて、それでしぶしぶやってみたところ、予想どおり検出されたということなのである。スルファミジンは、サルファ剤の一種で、発ガン物質である。そして、両国のものをトップクラスにして、いま日本で消費されているブタ肉の三○%が輸入肉なのである。
 輸入禁止処分になったのは、いうまでもあるまい。ところが、問題はその先だ。すぐさまアメリカから、高官が飛んできた。そして、ひそかに農水省、厚生省に迫ったのである。いちいち安全性に目くじらを立てるのは、関税外障壁である、そんなことでは、日米の貿易をめぐるかねてのトラブルにも、どういう影響があるかもしれないと恫喝したらしい。
 行政はすぐ折れた。どういう結論になったか? 輸出する側が証明書をつけさえすればいい、ということになった。
 つまり、いっさい、検査しないということにしたのである。
 バカげた、そして許せない話ではないか。自国民の健康を損なう食品を、それとわかっていながらわざわざ見逃すなどという行政が、世界中のどこにあるというのか。発ガン物質、スルファミジンは、たまたまアメリカ産、台湾産ブタ肉から検出されたのではない。大阪大学の植村振作さんの分析調査によれば、生産体制の必然性だという。つまり、つねにふくまれている可能性があるということだ。それなのに現在、両国の汚染ブタ肉は、まったく検査されないまま、わたしたちの食卓にのぼろうとしている。行政は、政治と引き換えにわれわれの健康を売り渡したのである。
 日本はガン王国である。年間に二〇万人もの人々が、ガンで死んでいる。そこには、環境破壊の現状が端的に反映しているといえよう。このような事態を招いたのは、以下のような体制だ。
 官民一体となって、生産至上主義に狂奔している。薬剤メーカーの便宜にのみ行政の顔が向いていて、危険な農薬、抗菌剤を“成分禁止”にしない。流通を停滞させると、経済大国が崩壊するかのような脅迫観念に陥っているから、放射能食品などもフリーパスで輸入される。国内の食品検査なども、形式だけのものにしている。政治的な思惑だけを最優先させて、いかなる危険な事態が起こっても関知しない。
 そして、食=環境をめぐる行政犯罪の仕上げは、消費者に必要な情報の秘匿と、特定の大消費市場への押し付け消費にほかならない。後者は、たとえば社員食堂、弁当、給食業界である。
 給食には、歴史的にみて、ありとあらゆる危険な食品が出回った。いわばそこは、行政の矛盾と御都合主義を解消する、“食の捨て場”なのである。八七年の秋には、背曲がりハマチが学校給食に入っているのが発見されたが、かつてはかの臭素米も押しつけられたのである。
 わたしは、流通における、食品の大量一括消費システム自体を廃止すべきだと考える。つまり、弁当、食堂、給食への、中間的な専門流通にこそ、この問題の因がある。それにしても、給食の現状を批判する人々の間にも、ただちにもはや無意味となった給食などやめてしまえという声が聞かれないのは、どうしたことなのだろうか。

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2012年2月29日 (水)

大泉黒石著
『人 間 廃 業』
著者略歴&立読み版!

※本書は来週3月7日(ボイジャーストア)以降、順次、各書店で発売の予定です。
発売日は順次、お知らせしてまいります。

書名: 『人間廃業』
価格: 420円

Haigyos

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石

<<<<立読みコーナー>>>

立読み版は、「目次」と1章に相当する「慙服の巻」の冒頭部分です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
※PDF版は画面左下「Scribd.の右隣りにあるアイコン[view in fullscreen]のアイコンをクリックすると拡大されます(画面を元に戻す時には、[Exit Fullscreen]をクリックしてください)。
文字は画面下の「+-ボタン」で拡大縮小します。ただしリフロー(スクロールしないで画面の範囲内で文字拡大していくこと)はしません。

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『人間廃業』_立読み版

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【立読み版】

人間廃業

大泉黒石

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   目  次

慙服の巻
悶着の巻
絶倒の巻
寂滅の巻

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慙服の巻

「慙服(ざんぷく)」という文句がある。『北史李賢伝』の中にある。恐れ入って赤面することだそうだ。そこで今に偉くなってお目にかけますから見ておいでなさいと、親の前で見得を切ったが、一向偉くならんので慙服して坊主になったのが、聖オウガスチンだそうだ。今度の戦いには拙者、華々しく討死つかまつり、家門の誉れを後の世の語り草に致すでござろう、と親の前では立派な覚悟のほどを見せて置きながら、戦場へ出ると何時も生き長らえて退却するので、親に愛想をつかされて慙服のあまり、腹を切ったというのが山名氏清の伜だ。今度こそはおめがねに叶うような刀を打ちますから、お約束どおり師匠の後継(あとめ)をつがせてください、と正宗の前で腕を叩いて見せたのは天晴れだったが、作り上げた刀というのが、無類の悪剣でペケを食い、慙服して姿をくらました喜左衛門、即ち村正であると物の本に書いてある。
 物の本には書いてないが二十年ばかり前の或る日だ。半白の親爺が滅多に着たこともない金モールの洋服を着て勲章をブラ下げた。伜が驚いてどこへ行くんですか? と訊ねると、吾輩はこれから外国へ赴任するんだ。お前も早くこんな洋服を着て外国へ赴任するようにならなくちゃ駄目だよ、と伜の頭を叩いて言った。ふん、そうですかい。承知しました。そんなこたア、お安い御用だ。父上閣下! 及ばずながらも閣下の伜だ。お帰りまでには、ちゃあんと着ていますから、安心して行ってらっしゃい、と伜は昂然として請け合って見せた。請け合って見せるくらいだから、まんざら当てのないことでもなかったろうが、この伜、二十年後の今日に至るまで、金モールはおろかフロックを着るだけの身分にもなれない。なれそうな見込みすらないので、そろそろ慙服しなければ済まないことになってきた。だから親爺の手前、ともかくも慙服だけはしているが、思い切って坊主にもならず、男らしく腹も切らず、奮発して姿も隠さずに、ただ他人(ひと)様のご厄介になったり、往来の邪魔にならないのが関の山で、のんべんくらりと娑婆の穴を塞いでいるに過ぎない始末だから、むろん聖人にもなれず、物の本にも載せて貰えず、名人にもなれないのは当り前だろう。それで相済むのは、この伜の親爺が任地で死んだからだ。生きていたって、まさか坊主になれの腹を切れのと、古風なことを言う気づかいはないが、お前みたいな意気地なしは、窓からでも消え失せろぐらいの宣告はするかも知れないと思うと、この伜の耳は赤くなって冷汗が出る。冷汗では追っつかないような不面目を勘定したら幾らあるか知れない。むろん本人の不心得のいたすところだが、責任の片荷は運命の神様に背負わせて然るべきふしもある。あったって始まらん。持ち込む尻はどこにもない。ないから神妙に凹(へこ)んでいるんだが、なかんずく、金モールの親爺の手前も、ご自分の手前も、さらに申し訳なしと感ずるのは、この伜たるや、きまりの悪いほどの貧乏で酒のみで、おまけに文士と来ていることだ。肩書にもいろいろあるが、泥棒と文士ほど哀れ滑稽(おかし)きものは、世に絶えてないというのがこの伜の思惑だ。学問も知恵もないのは我慢するが、幇間(たいこもち)の帽子を被り、掏摸(すり)の眼鏡をかけて、洋服屋の看板みたいに、ひょろついている穀つぶしのくせに、生きているのは俺ばかりだと言わぬばかり高く止まって気取り澄ましている烏滸面(おこづら)を見ると浅ましくなる。「何物老嫗生寧馨児」と支那人が言った。どこの老婆(ばばあ)の臍の穴から、こういう人間の鉋屑(かんなくず)が出て来るのか、いやに薄っぺらで、ひねくれ曲がって、吹けばコロコロ飛んで行くというのは、この連中のことだ。黙って聞いていると、われわれこそは社会民衆の覚醒を促して、文化の向上を何とかする尊い先駆者だなんて、途方もない譫言(うわごと)をいう奴がいるのだ。「大きにお世話じゃないか。社会民衆だなんて柄にもない心配をするのはよしたまえ。社会民衆は君達を物の数にも入れちゃいないんだよ」と西洋人のマックス・ジャコブさんが仰有(おつしや)るのはそこだ。われわれこそは覚醒される方だと訂正するがいい。図々しい身のほど知らずめ。どんなに困ったって、そんな奴の仲間になんぞなるものかと思っていたのに、いつの間にやらズルズルべったりなっているんだから金モールの伜も悲観せざるを得なかった。もっとも始めからこうまで軽蔑してかかった訳じゃないんだ。商売仲間と交際(つきあ)っているうちに、右の思惑が確かになってきたのだ。だから何かの拍子で悲観の虫が被って来ると、もうこんな下等な人間のするような仕事は今日かぎり廃めちまって、納豆でも売った方が遙かに潔(いさぎよ)いということになるばかりじゃない、机を押しやって、いよいよ廃業に取りかかるのだ。納豆は後まわしでもいい。こう見えたってこの伜には数学の先生の資格もあれば、西洋人の言葉も少しばかり持ち合わせている。造船機の組立てや製図の真似ぐらいはやって見せる。人間に出来ることなら何でもやる。ただ残念なのは自転車に乗れないだけだ。乗れないのは乗らないからだ。乗らないのは虫が好かないからだ。だからもっと気の利いた商売もありそうなもんだと思って、一心不乱に駆けずりまわると、成る程これならという仕事の口にぶつかるから妙だが、南無三、その仕事をさせてやろうかという親方が、伜の履歴を聞くと驚いて逃げちまうのだ。良家のマダムに芸者あがりじゃ面白くないそうだ。学校の先生も、会社の技師も文士あがりの鰌髭(なまずひげ)には、勤まりかねますよ。おやめになったが利口です。エヘヘヘという挨拶だから、折角はりつめた気が抜けてゲッソリする。ついに退却だ。万事この筆法で扱われるのだからつまり、犬に食われるのが般若の面で、そこら近所の人間に舐(な)められるのが文士の面と相場は決まった。無理も砂利もありゃしない。何時もの口癖だが、青年ダンとか、爆ダンとか、文ダンとか、ダンのつく奴に碌なものはないのだから、馬鹿にされる価値は充分あるのだ。いや、このくらいの馬鹿あつかいは丁寧な方で、間の悪い時には五臓六腑に滲み渡るほど辛辣に翻弄されることがある。と、金モールの伜はつくづく考えるのだ。
 伜は一度宇都宮の文学有志に招かれて講演に行った。行くと匆々、公会堂にしては少し小(ち)っぽけなホールの壇上に突っ立ちながら、いささか滔々と弁じ終ったのが、ショオペンハウエルの悲観哲学で、汽車の中での思いつきだったが、わかるのかわからないのか、三百あまりの聴衆が口あんぐりの体(てい)で、下から弁士の顔ばかり覗いていたのは静かでよかったが、どう勘違いしてやって来たのか、一番手前に腰かけている薄汚い禿頭の爺さんが、目爛(くさ)れの赤ん坊を負んぶしたまま、ベンチの上にひっくりかえって、無作法千万にも寝こんでしまった。その爺さんの鼾が弁士の声を圧倒する勢いで轟々とひびきわたるんだから、すっかり参って引き下がると、待っていましたと言わぬばかりに、雲助みたいな面魂の男がのこのこと聴衆の中から現れて、演壇に這い上がった。紋付の下着に紋付の羽織を着流しているのは多分借り物だろう。袴を佩(は)いていないのは貸し手が見つからなかったんだろう、と思って見ていると紋付の男は、いきなり卓上のコップに手をかけた。金モールの伜の飲みかけた水が半分ほど入っているので、捨てるのかしらと思うと平気でグッと呷っちまって澄ました顔で、日の丸の扇子を振り上げながら、ポンと一つ卓子を叩いて、エエ今晩は! と敬(うや)々しくお辞儀をするから、金モールの伜も少々驚いて、ありゃ一体何ですか? と文学有志家の一人を捕まえて訊いてみると、これがこの土地で有名な新派浪花節の一飄亭熊吉だそうだ。熊吉か馬五郎か知らんが、苟(かりそめ)にも文学と銘を打った講演の席表にのさばり出るとは奇怪至極だと心外に思っていると、この熊吉が日の丸の扇子で拍子をとりながら、エエ! 只今はソウペンハウエルとか精進料理とか申スまスて、恐ろスく色気のないものをお聴きに入れまスたが、私はその埋め合わせに、お色気たっぷりの腥(なまぐさ)料理は「金色夜叉」を一席読みましょうでございます、と落ちつき払って襟をつくろうと、またコップの水をガブリとやって唸り出した──鼠のズクン、ツウガタの、スロク模様の毛織なる、ソールまとうた宮さんは、こなたの学生、焦茶なる、オンバコートに身をすくめ、フククルコガラス遣りスゴス、オクレス宮の辿りつく、オソスとマツス、クワンイツが……「ネイ、宮さん。今夜のカルタ会のダイヤモンドめ、いやにクザな野郎じゃねエか」「ほんとだわね。ワタスいやだわ」「嫌な者が何だって一つクムになるんだえ?」「そりゃ、クムはクヅだもの、スカタないさ」「ああダイヤモンド! 僕等の及ぶところじゃねえなあ!」「ス、ス、ス、ス、スらないわよウ!」──という調子っぱずれの獰猛(ねいもう)な東北弁だ。この辺の若い衆が、名物の干瓢畑で頬かぶりの姐さんを揶揄(からか)っているようだ。お宮が聞いたら後生ですからもうその辺で助けてくださいと言うだろう。貫一が聞いたら怪しからん侮辱だ、訴えると息巻くに違いない。しかもこれが聴く方の耳には立派に通じた上に、御意に召すこと一通りでないと見え、今まではまるで宙に迷った亡者みたいにベソかいていた聴衆が、俄かに元気づいて盛んに拍手する。熊吉は得意になってますます泡をふく。聴衆は愈々喝采する。子守りの爺さんまでが目を覚まして、威勢のいい嚏(くさみ)で応援する。と──お宮はストウ貫一の、名をばまたスも叫びたり……ここで熱海の浜の舞台が回るなら、何とかなるのかまた言上……ハイ。お退屈様──と、日の丸の扇子を紋付の襟に差して見得を切りながら、悠然と引き下がる熊吉に、ちょっと会釈して演壇の上にノッソリ現れたのが、お次の番で、赤いゴム靴に荒っぽい弁慶縞の半ズボンと来た扮装(ふんそう)は、正しく土方の元締か、それとも砂利運搬の請負師と睨める柄の、でっぷり太った親分だ。チョッキの釦にからませた太い金鎖を見てくれというふうに前に突き出して、脂(やに)っこい真っ赤な提灯面をツルリと撫でまわしながら口をふくらましてプウと息を吹いたかと思うと、ニヤニヤ笑い出した。どこかの居酒屋で五、六杯引っかけて来たのだろう。気味の悪い格好だ。いま熊吉が新派で当てたから、俺は旧派で一つ、神崎弥五郎の東(あずま)下りでも遣っつけようか、と言い出しかねない景色だ。この勢いで行くと今度は尻まくりの盆踊りに、オイトコソーダの伴奏でもやるべえかと、褌(ふんどし)を締め直して現れる篤志家があるかも知れない。もっとも会場の入口の看板には、ショオペンハウエルの他に余興あり。会費無料。傍聴歓迎と明らかに書いてあるから、講演がすんだ後で誰かピアノでもやるのかしらと、金モールの伜は考えていたので、別に伺いもしなかった。だからこの体たらくを見ると、さすがに驚いて呆れて、苟(いやしく)もショオペンハウエルと熊吉と半ズボンとが同席をするとは何事だ。失礼にも非常識にも程があると、幹事の面に抗議を叩きつけぬ訳にはいかんのだが、憤然として開き直るひまなんかありゃしない。お次の番だよ。お次の番だと勇ましく来ちまうのだから、ふん! こんな野蛮人どもに何を説諭したって始まらん話だ。二度と再び来さえしなきゃいいと諦めて、遣り切れない肚の閂(かんぬき)を遣り切れるように、シカと癪の虫を押さえるより他に仕方がなかった。もうこうなると、お次の番には何が飛び出すかわからないのだから、オイトコソーダや洗濯曹達に肝をつぶすこたア無い、と気を取り直して壇上の親分に好きな真似をさせて置くと、この酔っぱらいの半ズボンが、呂律のまわらぬ舌を出したり引っこめたり、石炭の講釈を始めたのは意外だった。エエ、ご承知のとおり。と言いながら、上衣のポケットから小さい石炭の塊を一片(きれ)つまみ出して──この石炭は文明のタマモノでありますから、皆様にとって便利なことは、もう確実でごぜえやす──と少々気違いじみてきた。石炭が文明のタマモノで皆さんにとって便利なこと確実である。序(ついで)に申しますが、半ズボンの私なんかは、文明のケダモノでありますから、皆さんの目ざわりになることは、もう確実でごぜえやすと言えば、丁度語呂が合いそうだ、と思って聴いていると──その石炭の中でも茨城産の無煙炭ときた日には、煙が出ないから煙突の掃除が略(はぶ)けてお女中さんは大助かり。値段が安いから奥さんは大喜び。実際皆様のお家庭に日常お使いなさるにはこんな誂え向きの品はごぜえやせんよ。そういう訳で、今回手前どもは、当地において茨城産の無煙炭小売店を新設いたしやしたに就ては、この文明のタマモノのご利用を切におすすめ申す旁々、これを御縁に是非とも手前どもへ御用命仰せつけられ、御贔屓あらんことを偏えに御願いする次第でごぜえやして、手前どもの名刺と炭の値段書きを只今一枚ずつ差し上げることにいたしやすから、それによって御注文下さるように……ハイ! これで今晩は閉会といたしやす。皆様。御苦労さんでやした──とお辞儀をして降壇するのだ。いくらなんでもこれには皆毒気をぬかれたろう。と思ったが一向そんな様子もないのだ。文学有志家の一人が何時の間にか、石炭屋の小僧に早変りして、配って歩く紙片を神妙に貰っているんだから度し難い無神経ばかり揃ったもんだと思った。これが済むと今度は金モールの伜に向かって、宇都宮見物の御案内をいたしましょうかと文学有志連が挨拶するから、お交際(つきあい)はもう沢山です。サヨウナラと停車場へ駆けつけて上野行三等に飛び込むと、有志連が追っかけて来て、窓ぎわでお辞儀をしながら、──エエ今回は遠路はるばるお運び下さいまして有益なるお話を賜わり、お蔭さまで盛会の光栄を得ました。甚だ軽少ながらこれは私等一同感泣のしるしです。どうか御笑覧ください。──と言いながら有志の一人が懐に手を突っ込んだから、金の十円もくれるかしらと思って
「そいつはお気の毒ですな」と礼を言うと、
「いえ、何、その、エヘヘ」
 と頭を掻きながら、掴み出したのが細長い紙包みだ。窓口からポンと投げ込んで、
「先生の奥さんに上げてください。では御機嫌よろスウ!」
 と言った。汽車が動き出すと一緒に紙包みをあけて見ると、かもじが出て来たからオヤと思った。とんだ御笑覧だ。到れり尽せりの待遇に感泣したいのはこっちだろう? つらつら観(おも)うにこの文学有志連の中には石炭屋の息子か小僧かがいるのだ。薪や炭団(たどん)と違って石炭は文明のタマモノだから、開店披露をするにも多少ハイカラのお客さんを集めて吹聴する必要がある。そこで金モールの伜でも引っぱり出して、何でも好きなことを饒舌らせると、奴さんのことだから偉そうな熱を吹くに違いない。お礼には売出し景品の「かもじ」かバケツでもやれば喜んで帰るだろう? してみると費用ぬきで広告が出来る訳だ。一挙両得の名案じゃありませんか? どうです? と勧めたので、石炭屋の半ズボンが賛成して、その息子か小僧の仲間を狩り集め、木賃宿あたりに転がっている熊吉に紋付を着せてやらせたんだろう? 文学講演会とは表向き体のいい名前だから、つまり金モールの伜こそいい面の皮で、人よせのダシに使われているのも知らずに、汗を流して意志絶滅の肩を持つやら、ヘエゲルやフィヒテを罵倒するやら、独りでメートルを上げていたんだから世話はない。世話はないが怪我もない。怪我もないのは、まだ見っつけものだ、というのはその夏、金モールの伜は中国筋の或る港街の文学有志連に頼まれて、よせばいいのに性懲りず出掛けて行った。汽車で着いたのが講演会の前の晩だ。出迎えの有志連に頼んで宿を取ってもらい、宿の一室に蚊帳を釣って独り寝たまでは至極無事だったが、とろりと眠りかけてチンという物音に眼を開けると、枕もとに胡坐(あぐら)を掻いている奴がある。此奴が飲みさしのビール瓶を両手に持って喇叭(ラツパ)のみにガブガブ失敬しているのだ。よく見るとそれが汗とり襦袢に赤い腰巻の女で、蒼んぶくれの顔一面貼りつけた膏薬の上に、振り乱れ脱けかけている髪の毛がフラフラ靡(なび)いているのだ。何のことはない、お化け加留多でお目にかかる蒟蒻(こんにやく)島(じま)のブルブル女にお見舞いをうけたようにビックリ仰天して跳ね起きると、女はビール瓶を放り出して金モールの伜をじっと見た。見たかと思うとニヤリと笑った。
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2012年2月14日 (火)

岡庭昇著
『かくもさまざまな言論操作』
著者紹介&立読み版!

書名: 『かくもさまざまな言論操作』
価格: 1000円

Gwngos

著者: 岡庭昇(おかにわ・のぼる)
1942年生まれ。
慶應大学経済学部卒業後、TBSに入社。ドキュメント・ディレクターとして活躍する一方、文芸評論家としても多くの著作を出す。
原発、人権、差別、交通警察、ゴミ、在日外国人、学校教育などのテーマに切り込む一方、テレビ・ディレクターだからこそのメディア、ニュースの読み方を提示。
著書に、『飽食の予言』シリーズ、『この情報はこう読め』シリーズ、『メディアの現象学』『亡国の予言』『自己決定力』『メディアと差別』他多数。

『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』は志木電子書籍より昨年電子化。

<<<<立読みコーナー>>>

立読み版は、「目次」「究極のニヒリズムを越えて――原発社会との対峙」「二〇一一年版へのあとがき」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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かくもさまざまな言論操作_立読み

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  目 次

究極のニヒリズムを越えて──原発社会との対峙
一党独裁と情報帝国主義について
野村証券「不祥事」と権力意志
人間の本性は卑しいものだという倣慢な思い込み
「政治家という職業」こそは倒錯である
国家独占資本主義のいかがわし
独裁の危機意識は虚構を増幅する
「産業としての駐留」について
「国策」はどのような「許容」をも許容しない
一党独裁の仕上げとしての「持ち株会社」解禁
「無償労働」は「無償」ゆえにこそかけがえのない価値である
情報を「主体化」する心得
改革と称する虚偽と反省という名の開き直り
一党独裁に対抗する地方自治とは
なにが批判されるべきなのか
官僚スキャンダル報道のからくり
「行政改革」というデマゴギーについて
マスコミ批判の主体性
司法は自らを卑しくする
「民間的なもの」への意志
国家は生活に優越しない
「制度」としての創価学会攻撃
この国家は謝罪しない
マスコミはセクハラを理解しない
共生的民主主義について
だからどうしたというのか
情報公開法について
住専処理と世論操作
新・食糧法の欺瞞
住専問題「批判」のからくり
差別に対して制度は何をなし得るか
さまざまな官僚独裁
「好景気」は「いいことか」か
「共生的であること」の原則
「大蔵省解体」の欺瞞
「価格破壊」は「いいこと」か
「所得移転」というからくり
自治と共生と心意気
「信用不安」という脅し
情報帝国主義とはなにか
独裁には断固市民感覚を

あとがき
二〇一一年版へのあとがき

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 究極のニヒリズムを越えて
   ──原発社会との対峙

 原子力に平和利用などというものはない

 原子力に平和利用などというものはない。
 この端的な一言こそが、何にもましてわれわれ──まっとうにニヒリズムを越えようとする人々──の基本的な認識でなければなるまい。原子力にそもそも、平和利用などというものはあり得ない。この基本認識から出発しないから、何やらもって回った虚偽とヨダレクリを大量にばらまきながら、結局原発しかないんだなァ、停電も困るし……といった、震災で少しは覚醒した大衆社会が、その本来のニヒリズムにまたぞろ帰着する事態を、原発体制はせっせと虚偽をばらまきながら待っている。ハダカの帝王の生来の極度の無能と、政治そのものが意図した金縛り──帝王と経産大臣の玄海原発を巡る八百長なんて相撲より下手だった──との合わせ技による被災民対策の放棄は、覚醒しかけた大衆社会への日本流テルミドールなのだ。
 一貫して核依存社会を根底から批判し続けた故・高木仁三郎は、『核時代を生きる』で、一九八二年のイスラエルによる建設中のイラクの原子炉への攻撃と破壊について述べ、この蛮行こそ「平和利用」論の欺瞞を明かしていると言う。「平和利用」という欺瞞こそが、いまや「核の潜在的脅威をどれだけ増大させているのか」と指摘し、そもそも《「平和」とはいったい何か》と問うている。一九八三年に発せられたこの本質的な問いに向き合い、二〇一一年の常識は「核に平和利用なんてものはない」とずけりと答えるのである。

《私にはむしろ、軍事一辺倒によってある種の行き詰まりに直面した核技術開発を、発電など民事もとりこむことによって裾野をひろげ、いっそう巨大なシステムとして確立しようとする意図があったように思える。(アメリカにとって)原子力の「平和」利用と軍事利用は、車の両輪となった。》(第一章「〈核〉としての原発」)

 そしてまた高木は、

《放射能の危険性という面では、ある意味では核兵器よりもおそろしい。大型原発では、広島の原爆の二、三発分ぐらいの死の灰が毎日つくられている。原発の集中する福島県の双葉とか福井の若狭のようなところでは、何百億キュリーの(何兆人もの致死量にあたる)放射能が常時存在しているわけです。》(「核に滅ぶか?」)

 と述べる。この先を読んだら、あなたたちは慄然たるブラックユーモアに泣き笑うだろう。これほど危険な原発施設が地震などに会えば、問題をどう解決することが出来るかと、一九八〇年前半に、すでに問いが発せられているのである。現にいま二〇一一年七月二十七日に国会でなされた、東大教授・児玉龍彦氏の証言がある。福島原発の事故による広範囲な汚染は、ヒロシマの三十九・六個分だと言うのだ(『東京新聞』二〇一一年八月三日)。ウラン換算では二十個文が漏出し、しかも《原爆による放射能の残存量が一年で千分の一程度に低下するのに対し、原発の放射能汚染は十分の一程度にしかならない》(同)と証言している。
 いまわれわれは「ダイジョーブだよ、ダイジョーブだよ」とわめきたてる「専門家」たち(その実は政治的ペテン師たち)と共に、地獄へ落ちるかも知れない実存を慰謝(?)しているわけだ!

 民衆無視の底にあるもの

 二〇一一年八月十七日のTV報道は、北海道知事が泊原発の公式運転を許可したと伝えた。ずっと運転を続けて来たので漢奸、オット違った菅(総理)が誓った原発再開はストレステストを経てからという約束は、踏みにじって構わないということのようだ。どういう理屈か分らないが、TVコメンターでさえ、ずっと稼働して来たからこそストレステストが必要なんじゃないか、と指摘するくらい無茶苦茶な論理である。
 やれやれ、もう待てないのかい。ここにあるのは、原発再開に当たって欺瞞に満ちた屁理屈さえ必要としないと、日本の人民が権力からすっかり嘗められているという実態だ。いまは原発の危険を考えているようだがなに構わない、すぐ民衆はメイファーズ(仕方がない)に落ち着くだろう。どうせ落ち着く先は沈黙でしかないというわけ。ニヒリズム社会(哲学なき社会)が、すっかり足下を見透かされているのだ。それとも君は、ニヒリズムを拒否出来るか?
 北海道知事は総理発言を無視したように見えるが、すでに邪推したように総理も経産相も北海道知事も、みんな引っ括めた八百長芝居なのではないのかと思った方が俯に落ちる。
 旧体制(アンシャンレジューム)への動きはもう始まっている。覚醒の延長に健康な社会を志向する人々が勝つのか、それとも究極のニヒリズムである原発翼賛社会に結局は落ち着くのか。ここに決戦は賭けられている。
 相変わらずがんばっている「東京新聞」だが、二〇一一・八・十一朝刊に「電源立地交付金は温存/脱原発と矛盾/国民負担倍増」という見出しで大きく報道している。嘘とペテンで原発が塗り固められているのは昔からだが、それに官僚独裁の「依らしめるべし知らしむべかざる」という傲慢体質が重なると、ここで記事がすっぱ抜いたようなことになる。
《この促進税額は電気料金の利用明細書にも明示されず、国民が知らないうちに原発建設に荷担させられているのも同然だ》(同)と鋭く問うた同記事は、《再生エネルギーを本気で普及させるなら、同時に電源立地地域対策交付金の見直しも必要ではないか》(同)と妥当に疑問を投げ掛けている。それに、わたしが権力の中の権力と呼ぶ官僚独裁が、露骨にニヒリズム社会の立て直しに動いているのが読み取れる。また同日の同紙は、研究家の新原昭治氏が米国立公文書館で入手したとして、興味深い記事を出している。

《米国の原子力協力は五四年の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米国に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上った。(略)フーバー国務長官代行は(略)核兵器を日本に配備する必要があると判断した。(略)「平和利用」への理解が深まれば「軍事的な原子力」への理解も進み》(同)

 核兵器を自分の手で配備するのは目的だが、「日帝自立」主義者に自分でされるのは願い下げということか。
 尻馬に乗って、見ろ「平和利用」なんてありはしないのだ、などと言う気はない。ああそれにしても、言葉の政治にかくも抵抗力がない日本人の特質は、すっかり鬼畜米英にばれていたわけだ! 情けないね。そう言えば、言葉の政治にまんまと絡め取られて、「平和利用」にすっかり感激し、原発批判の運動を「ソ連の手先」などとクソミソに罵倒したカリスマがいたな(駄目を押すが吉本隆明のことである)。仮にそうであるにせよ、当時の吉本ら原発批判批判派が、アメリカの手先であることは、どうやら証明されてしまったわけだ。

 虚無社会の暴力性

 原発社会は究極の虚無社会である。人々は原発の地獄の釜の上で、被災した他者への痛みを感じることもなく、ただ他者に不幸が行ったことに満足し、たかが停電(それもどうやらデマだが)等の「便利さ」と引き換えに、自分だけはツケが回らないという錯覚で納得させ、原発の存在を前提にする。究極の頽廃だ。
 この虚無社会は二つの面で尖鋭に暴力的である。消費と生産において。消費の面での暴力性はすでに述べた。たかが停電がない程度の便利さをもって、地獄を日常化する。しかもそこには“平和利用”というペテンを駆使した、原子力基地建設が狙いとしてある。
 一方で消費面の暴力的な本質と並ぶ生産面での暴力は、原発現場の労働に関わっている。わたしは一九八〇年代に盛んに原発を検証するテレビドキュメントに携わったが、電力会社自身が安全を称しながら、原発現場に入りたくないという気分が濃厚であった。そして敦賀原発で、行く先を告げられないまま、労働手配師によって現場に投入された人物に出会った。彼は筑豊のマルタン(炭鉱離職者)だった。
 すでに七〇年代に、炉心部近くで事故で死んだ労働者を、誰もが名前さえ知らないというケースがあった。山谷から日雇い労働者を手配師が連れて来たので、何者とも知れなかったのである。今度の福島第一原発事故でも大阪あいりん地区(釜が崎)から、行き先を教えられずに連れて来られたという労働者が話題になった。
 私が直面した事態は、エネルギー転換のさなか、資本と労働の総対決と言われた三井三池炭鉱ストを始めとして、争議に負けた炭鉱労働者が、幽鬼のごとくさ迷うマルタンと井上光晴が描いたように窮迫のどんぞこに喘ぎ、そこに付け込んだ手配師が、原発に彼らを送り込むネットワークを作り上げている現実だった。これに下請け労働者から聞いた、現場の管理者はしばしば、生産力を阻害するという理由で、親方から原発労働者にとっては必需品の被曝量計測メーターのスイッチを切って働かされるという話を付け加えようか。
 原発は消費、生産双方において、コスト社会の尖鋭に突出した暴力性なのである。

 独裁のクソ溜め

 自民党一党独裁とは、かくも汚猥なクソ溜めの集大成であったことを理解しなければならない。
 そしてマニフェストを掲げていた政権奪取初期の民主党は、すくなくも理念ではクソ溜めに挑戦していた。だから金銭疑惑というもっとも安直な手段で、つまり後で証拠不十分で白となるのを前提に一定時期は被告として縛れる手法が安直なのだが、鳩山・小沢を行動不能に追いこむ陰謀があったとわたしは邪推する(無位無官にして納税者の爺さん岡庭昇には、証拠はないにせよ、これくらいの公人公職批判は特権としてある)。
 それは恐らくはアメリカと、日本の官僚独裁(すなわちクソ溜めそれ自身)の共謀であった。官僚独裁は一党独裁というすり替えの隠れ蓑の陰で、独裁を支える日本のあらゆる面での汚猥なクソ溜めが、白日のもとにさらけ出されることに怯えた。アメリカは田中角栄の最強の弟子である小沢一郎が、師の「日帝自立論」を継承しているかも知れない面を忌避した。自分たちが日本の核兵器配置を企図するのは構わないが、日本が自らそれをやるのは大問題だと言うわけだ。
 かくて鳩山政権時代にアメリカに呼ばれた漢奸、オット違った菅(直人)は、クソ溜め連合が抜擢した鳩山=小沢への刺客だったのである(と無位無官の爺さんは邪推する)。
 原発は安全かどうかなどと、いくら論争しても空しい。そのような論争への参加そのものがわれわれ、すなわちニヒリズム社会を越えて行こうとする者にとっては敗北である。絶望的な実感の中、「メイファーズ(仕方がない)」精神と闘い続けた魯迅を想え。
 原発の回りには、ありとあらゆる旧社会のクソ溜めが重なり合う。そのクソ溜の連鎖の中に浸って、飽食の頽廃をなお(出来るだけ安いコストに変わったとは言え)続けようとするのが、依然として腰砕けの日本の大衆社会の本質である。官僚独裁が策動する再びなるニヒリズムへの雪崩込みは、まんまと成功するだろう。クソ溜め社会のシンボルとしての原発は、また不滅の輝きを誇るだろう。われわれはまた負けるだろう。しかし魯迅もまた、必敗の思想ゆえに闘えた。一パーセントの不服従があれば、奴等の魂胆通りには行かないのである。
 クソ溜めを正当に忌避して、すこしでもニヒリズム共犯社会を拒否する方向に、真っ向から発想を転換出来るか。たとえ一パーセントならぬ一億人中の六人(笑)でも、ともかく腐臭に満ちたニヒリズムを嫌悪出来るか。早い話が嫌なものを嫌と言えるか。問題はそこである。匂いはすぐ不感症になるよう、体は作られているらしい。そうだとすれば、クソ溜めの中の飽食はさぞかし心地良いだろうなあ。三日でも共犯したら、止められないものなあ。

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二〇一一年版へのあとがき

 一九九八年に三一書房から「かくもさまざまな言論操作」を出して貰った。ちょうど同社に大争議が起きたときで、綺麗な本を作っていただいた林順治氏、大倉徹氏ともども抱いた感想だと思うが、何かと営業活動に限界があったのは残念だった。
 刊行十三年後の二〇一一年初夏、元光文社カッパ・ブックスの編集者で、市民運動や自ら電子出版を手がけている京谷六二氏に出会い、わたしとしては二冊目の電子出版を進められ、二〇一一年版への前書きである「究極のニヒリズムを越えて──原発社会との対峙」と「二〇一一年版へのあとがき」を加えて出して頂くことになった。望外の喜びであり京谷さんに感謝する。
 わたしとしては、危機の年二〇一一年にあっても、結局かつてわたしが指摘したことは何も解決していないではないかと言いたいが、そんなことは誇るべきではなく絶望に直結する思いだろう。だが何もかも未解決であることに正当に怒るべきにせよ、そのことで陰気になるのは止めよう。闘いは始まったばかりだ。陽気に行こうじゃないか。

  二〇一一年八月六日 著者
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大泉黒石著『人間開業』が
一部書店で発売になります!

本日より、BooksV、honto、ボイジャーストアで大泉黒石著『人間開業』が発売となります。
すでに、BooksVでは販売が開始されております。
夕方までには他2店でも購入が可能になると思います。

なお、紀伊國屋BookWeb、SonyReaderStoreなどは17日からの販売となります。

ロシア人の父と日本人の母の間に生まれ、明治、大正、昭和を波乱万丈に生き抜いた作家の自叙伝。
文中にトルストイまで登場!の立読み版は→こちら

著者、大泉黒石の息子は俳優の故・大泉滉氏です。

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2012年2月 7日 (火)

大泉黒石著
『 人 間 開 業 』
著者略歴&立読み版!

※本書は来週2月14日(ボイジャーストア)以降、順次、各書店で発売の予定です。
発売日は順次、お知らせしてまいります。

書名: 『人間開業』
価格: 630円

Small

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石」 

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立読み版は、「挨拶」と「目次」、および「少年時代 一」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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『人間開業』_立読み版

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【立読み版】

人間開業

大泉黒石

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   挨 拶

 最も平凡な言葉を借用して言うならば、実に作者の私をして文壇的にも社会的にも一躍有名ならしめたこの随筆体小説『世界人(コスモポリタン)』は、即ち過去七年間にわたって『中央公論』にのせた『俺の自叙伝』第一から第五までを集めたものである。もう一度この調子で書いてくれと頼まれても書けるかどうか解らないし、実際書けそうにもない。この意味に於て、この一冊は私の文学者生活に於ける、一つの高大な記念塔だとも言えるだろう。ところで、読者諸君の中には、この中の、どれか一つくらいは目を通した人もないとは限らないが、こうして全部まとまるのを待っている人も少なくないようだから、即ちここに旧態を守って謹んで是を出版し、私の親愛なる読者諸君に向かって簡単な挨拶を申し上げて、以って序文とする次第である。
  一九二六年二月
                大 泉 黒 石

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   目  次

少 年 時 代
青 年 時 代
労 働 者 時 代
文 士 時 代

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少 年 時 代

     一

 アレキサンドル・ワホウィッチは、俺の親爺(おやじ)だ。親爺は露西亜(ロシア)人だが、俺は国際的な居候(いそうろう)だ。あっちへ行ったりこっちへ来たりしている。泥棒や人殺しこそしないが、大抵のことはやってきたんだから、大抵のことは知っているつもりだ。ことに、露西亜人で俺くらい日本語のうまい奴は確かにいまい。これほど図々しく自慢が出来なくちゃ、愚にもつかない身の上譚が臆面もなく出来るものじゃない。
 露西亜の先祖はヤスナヤ・ポリヤナから出た。レオフ・トルストイの邸から二十町ばかり手前で、今残っている農夫のワホウィッチというのが本家だ。俺の親爺は本家の総領だった。
 日本の先祖はどこから来たんだか、あまりいい家柄でないとみえて系図も何もない。祖父の代から知っているだけだ。俺の祖父は本川といった。下関の最初の税関長がそうだ。維新頃日本にも賄賂が流行したとみえて、祖父は賄賂を取ったのか、取り損ねたのか、そこははっきり知らないが、長州の小さい村で自殺した。あまり人聞きのいい話ではないが、恥を打ち明けないと真相が解らないから、敢えて祖先の恥をさらす。さぞ、不孝な孫だと思っているだろう。
 俺のお袋 Keita(恵子)はこの人の娘だ。俺を生むと一週目に死んだから、まるで顔を知らない。そんな理由から親類の有象無象が俺のことを仇子(かたぎご)というんだろう。俺には兄弟がない。天にも地にもたった一人だ。
 露西亜の先皇が日本を見舞った──その時はまだ彼は皇太子だった──とき親爺も末社の一人だった。親爺が長崎へ立ち寄ったとき、ある官吏の世話でお袋を貰ったんだそうだ。その時親爺はまだ天津の領事館にいた。
 お袋は露西亜文学の熱心な研究者だった。それは彼女の日記や蔵書を見ても解る。それで、親爺がお袋をくれろと談判に来たとき、物の解らない親類の奴共が大反対をしたにもかかわらず、彼女は黙って家を飛び出して行った。旧弊人共が、お恵さんは乱暴な女だと、攻撃した。「わたしは、その時、どうしようかと思って困り果(はて)たばな」と、祖母が言った。
 俺は二十七だ。
 支那海の波が長崎港へ押し寄せて来る、英彦山がまともに見えるだろう、山麓の蛍茶屋から三つ目の橋際に芝居小屋があるだろう、その隣が八幡宮だ。鳥居をくぐると青桐の陰に白壁の暗い家がある。今でも無論あるはずだ。そこでお袋は俺を生んで直ぐ死んだ。死んだときは十六歳だった。
「おばあさまに難儀をかけずに、大きくなってくだはれ」と、言って息を引き取ったそうだが、おばあさまには、それ以来難儀のかけどおしで、まことに申し訳がない。
 乳母は淫奔な女だったと誰でも言う。俺を三つまで世話して、情夫と豊後へ駆け落ちする途中、耶馬渓の柿坂で病没したそうで、乳母の母親が、娘が可哀想だから、何とぞ石塔を一基建ててくれと何遍も頼みに来たが、頑固な祖母が、不人情なわがまま者のお恵(乳母の名もお袋と同じだった)に建ててやる石塔はないと言って何時(いつ)も断ったそうだ。だから今でも乳母は石塔のない土饅頭の下で眠っている。
 俺の代になったから、こっそり建ててやろうと思うが、いつも自分一人を持てあましているくらいだから、そこまで手が出ない。
 乳母が逃げた後は、祖母の手一つで、曲がりなりにも育ってきた。俺は癇癪持ちだから、随分だだをこねて老婆を弱らせたというが、それは本当だろう。
 俺が泣くと、雨が降ろうが、風が吹こうが、山の麓から海岸まで背負って行った。祖母は目が悪いところへ持ってきて、あまり知恵のある質(たち)でなかったから、俺を背中へ縛りつけて海岸へ行って、海を見せさえすれば、得心して泣き止むものだと決めているらしかった。
 今でもあるが、その時波止場に大きな、まんまるい大砲の弾丸があった。
「ほら、大砲ん弾丸。な、ふてえ弾丸じゃろが。よう見なはれ。唐人船うちに使うたもんばい、ふてえ弾丸じゃろが」
 と言った。「ふてえ弾丸じゃろが」を何百遍聞いたかしれない。祖母のほうでも、俺を持てあましたろうが、俺のほうでも、大砲の弾丸(たま)には飽き飽きした。
 俺が三つの時、化け物のような奴が突然やって来た。
 俺は玄関で乳母と一緒に裸で鞘豆の皮を剥(む)いていた。するとこの化け物が俺の顔を見てかっと赤い舌を吐いて抱(だ)こうとするから、俺は鞘豆のざるを抱えたまま泣き出したら、台所から油虫(あぶらむし)と一緒に祖母が飛んで来て「まあまあ、おとっつあんたい。よう来なはった」と、あべこべに化け物にお辞儀をしたことを覚えている。これが俺の親爺だ。
 その時分八幡様の石段の下に、高山彦九郎の落とし胤(だね)が貧乏世帯を張っていた。この家の爺さんが、俺が日本を離れるとき「ジャパン国にキリシタンの御堂(みどう)を建立(こんりゆう)したなあ、この俺(わし)じゃと言うてくだはれ。オロシヤ人は喜ぶばい」と言った。誰に言(こと)づてるのか、それは本人も知らないらしかった。長崎に黒船が来た時、中町にキリシタンのお寺を建てようと言い出したのがこの爺さんで、俺の祖母と一緒に高台寺の踏み絵を恐れてしばらく姿をくらましていたんだそうだ。中町のお寺は今名物になっている。爺さんは漆師だった。
 俺を可愛がって、春徳寺下の幼稚園へ入る手続きをしてくれたのも、この高山の爺さんだ。
 幼稚園で俺の組に、色の黒いギスギスの子がおった。大きな紫メリンスの帯をしめて異彩を放っていた。その時分メリンスの帯なんぞ巻いて歩く子がなかったからだろう。先生はこの子を一番可愛がって小便までさせてやった。高木という長崎代官の子と俺が、竹竿で先生を叩いたとき、半日罰を食って廊下に立往生を命じられたら、メリンス帯が来て手を叩いてはやした。代官の子と俺が相談してメリンス帯を殴ると、わいわい泣きながら、下女を小使部屋から呼んで来た。
「若様、この子でございまするかのし」
 と下女が俺を指すと、メリンス帯がウンその子だ。早(はよ)う叩(ぶ)ってくれと言う。
「畜生。この異人めが、若様をようたたいた」と言いながら俺の頬っぺたをぐっとつねった。
 代官の子は震えていた。代官の子なんてものは弱いもんだ。だから親爺が代官をやめさせられて、目薬を売ったり神主なんぞになるんだと思った。メリンス帯は小松原英太郎の子だった。もう大分大きくなっているだろう。
 よその親爺とは少し違っているから訳を質問したら祖母が偉そうな顔をして、
「そら、あんた、おとっつあんは、露西亜のお方(かた)けん、ちった違うとったい」
 と教えてくれた。
「露西亜のお方(かた)けん」靴履きで畳を荒らしたり、石臼(うす)の上にお釈迦様のようにあぐらをかいたりするのだということも解った。しかしなぜ俺のそばへ始終いないのか解らない。
 隣の車屋の三公や煙草屋の留太郎が毎晩徳利に酒を買って門前を通る。
 俺は祖母にあれは誰が飲むのかと尋ねた。説明によると三公や留太郎の親爺が飲むんだそうだ。俺の親爺にも買って飲ませたいが、一体どこに逃げたんだと、折り返して聞いた。そしたら、
「はんかおに居らっしゃるけん。こっちで酒を買ってやらんでもよか」
 ということだった。はんかおは酒を飲まないんだ。三公の親爺も留太郎の親爺もはんかおに行かないから飲むんだ。しかし、町内で徳利を下げて酒を買いに行かない子は、幅が利かない規則になっていたから、俺の親爺も早くはんかおを免職して帰って来ればいい。日に二度でも三度でも徳利を振り回してやると残念でたまらなかった。俺は幼稚園へ入ったばっかりだったが、近所の子に負けるのは嫌いだ。鋳掛屋の子が一番俺を酷(いじ)めた。此奴(きやつ)が、
「おめいの親爺は酒が飲めねいのか」
 と言うから、
「俺の親爺は、はんかおだから飲まねいぞ」
 とやっつけた。そしたら此奴が、
「はんかおなんぞ、うっちゃっちまえ」
「うっちゃるもんか。はんかおは高価(たか)いぞ」
「いくらだい?」
 俺は生憎(あいにく)、祖母にはんかおの相場を聞いていなかったが、黙っていれば、はんかおを馬鹿にするから、大抵、行軍将棋くらいの値段だろうと考えて少し安いとは思ったが、
「五銭だい。ざまあ見ろ」
 と凹(へこ)ませて帰った。
 祖母に、はんかおは五銭でいくつくれるか様子を糺(ただ)すと、はんかおは一つたいと答えてくれた。一応もっともだ。はんかおは五銭で一つと決めて、それから、はんかおの事を誰が尋ねても、高いから一つだ。親爺は、はんかおを売ってしまったら俺の家へ戻って来るんだと威張ってやった。
 大きくなってから学校の先生に、はんかおは支那の都会だ。こう書きますと、漢口という字を書いて教えて貰った。
 もう一つ腑(ふ)に落ちない奴がいた。それは俺の家に、俺が生まれる前から寝ている女だ。この女を祖母がお母さんと呼べと命令したから、中途半端から具合(ぐあい)が悪いけれども、止むを得ずお袋にして、間もなく死んだ時も、お袋なみに、解りよく泣いてやったが、あとでこの女の正体が暴露して、本当はお袋の姉だという証拠があがったとき、いくら可愛がって貰ったって、もう少し泣き惜しみすればよかったと後悔した。ところで、家族は曽祖母と祖母と俺と三人になって、小さい西山という町の家へ引っ越した。
 親爺は不人情な奴で、とうとう二度と長崎へ来ないでしまった。俺は桜の馬場の小学校を三年生で打ち切って漢口ヘ親爺の顔を見に行った。親爺が露西亜領事館に澄ましているから、領事館で小使いさんをやっているかと思ったら、親爺が「領事はわしじゃ」と吐(ぬ)かしおった。
 ここのところで説明をする。俺の親爺はウィッテ伯爵と前後(あとさき)にペトログラード大学の法科を出た支那通だ。何、初めから、こんな臭い所に来る気じゃない。やっぱり国会議員で通す意気込みだったろうが、儲かると思って、政府にだまされて追いやられたんだろう。親爺は法学博士だ。俺は二十八で博士になった、お前も俺を見習え。そうするとアレキサンドル・ネヴスキー勲章は譲ってやると言った。その時は俺だって二十八で博士になる約束をしたように覚えている。
 親爺が明治三十四年に死んで、俺はとうとう孤児になってしまった。しかし、親が揃っていたって、満足な人間になるような手軽な子でないことを自覚していたから、親がなくても不自由だとも、肩身が狭いとも思わなかった。親爺が漢口で死んだ年、俺は遺骸をウラジオストクの露西亜人の墓地へ埋めに行った。その足で叔母ラリーザとそのままモスクワへ行った。親爺には三人の兄弟があった。二人は男で、一人は女だ。女が叔母ラリーザだ。男の方は二人共藪医者で、モスクワに一人、西伯利亜(シベリア)のイルクーツクに一人開業している。俺が叔母ラリーザとモスクワで落ち着いたところが、その三男の藪医者の家だった。ここにもまた伯母がいる。馬面(うまづら)の三十代のフィンランド女で、ターニャといった。
 俺は甥のくせにこの馬面の伯母をターニャ、ターニャと呼びつけにしていた。
 しみったれで、見栄坊で、足を洗わぬ前がマルイ劇場付の女優だったせいか、馬鹿にひがみ根性の、嫉妬心の強い女だ。生意気に、女権拡張論者のソフィ・コワレヴスカヤなどと往復している。バーチナがどうの、ベロヴースカがどうの、イアキモヴァがどうのと変な本を買い込んできて伯父に喧嘩を吹っかけていた。
 俺はこのターニャが大嫌いだ。お前の母さんは日本人だからキヨスキーは露西亜人じゃないと言う。キヨスキーというのは俺のことだ。俺をターニャに預けて置いて、叔母ラリーザは、巴里(パリ)のローマ教女学校へ教師に迎えられて行った。
 その時分俺は、ニコラス二世の乗馬軍服が流行っていたので、学校通いの制服にねだって拵えて貰い、小学校へ伯母の家から出掛けたもんだ。
 読本を開いて「犬が吠える(ザバーカ・ラエート)」「狼がうなる(ヴオルグ・ヴオエート)」「鷲が叫びます(オリヨール・クリジート)」なんて、露西亜だけに「ハナ・ハト・タコ・マリ」と穏かにいかないから面白いと思った。荒っぽくて、何でもガサガサして珍しかった。
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中村智子著
『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史
立読み版

書名: 『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史
価格: 350円

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著者: 中村智子(なかむら・ともこ)
1929年、東京生まれ。
1952年日本女子大学英文科卒業。同年中央公論社入社。
「婦人公論」「思想の科学」「中央公論」、書籍編集部を経て、一九七八年退社。
東京大学新聞研究所講師をつとめる。
主な著書に『宮本百合子』『横浜事件の人々』『女の立場から医療を問う』『人間・野上弥生子』『百合子めぐり』『戦争しない国』がある。

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立読み版は、「はじめに」と「目次」、および「Ⅲ 『思想の科学事件』」の「1 「天皇制特集号」の廃棄処分」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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『風流夢譚』事件以後_立読み版

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【立読み版】

『風流夢譚』事件以後
編集者の自分史

中村智子

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 はじめに

 深沢七郎氏の小説「風流夢譚」を『中央公論』(一九六〇年十二月号)に掲載したことから起こった二つの事件──右翼少年によるテロ「嶋中事件」(一九六一年二月)と、右翼の攻撃をおそれた中央公論社が『思想の科学』の「天皇制特集号」を廃棄処分にした「思想の科学事件」(一九六一年十二月)──は、戦後の日本の出版界における「言論の自由」をゆるがせた大事件であった。そしてそれは、進歩的な思想と言論の自由を守ってきた伝統をもつ中央公論社の大不祥事であった。この事件によって戦後の天皇制論議がジャーナリズムのなかでタブー化された責任を、歴史から消すことはできない。
 私は中央公論社で働く一編集者として、「風流夢譚─嶋中事件」の渦にふかく巻きこまれた。あれからすでに十五年の歳月がながれた。十年一昔という。事件はすでに過去のものとして人びとの記憶からうすれ、そして天皇論は今日では一見花ざかりである。しかし中央公論社にとっては、また私自身にとっても、その刺(とげ)はふかくっきささったままである。十五年の歳月は、その刺を体内につきさしたまま腐蝕させ、複雑な影響をのこした後遺症となっているともいえる。一九六八年の中公労組の「言論の自由」問題闘争は、その刺をぬくためのものであった。だが切開手術は不成功に終わり、新たな患部がひろがって現在に至っている。
「風流夢譚」事件の記録を今かくのは、かなり困難な面がある。事件に直接関係した人びとは、ほとんどが中央公論社から去ったが今なお現役であり、多くを語りたがらない。そして私は現在も中央公論社につとめている。じつは私は、定年退職後に回想として、この事件のことをまとめようと思っていた。だがそれまでにはまだ十年もあり、そんなころ思い出としてかくのは自己満足にすぎないのではないか、つとめている今かき、発表することに意味があるのではないか、と思うようになった。つまり、組織内で言論の自由を実践しないで、言論の自由問題についてかたるのはナンセンスだと考えたのである。
 もう一つ今かくことにメリットがある。それはかかれた内容について、関係者が補足や反論をする自由があることである。逆にいえば、かくほうには現存者の目にさらされるという緊張感が生ずるから、回想録がしばしばおちいりがちな自己合理化を自らいましめることになる。私はかねてから、没後発表という形式は、自分が絶対の安全地帯にはいりこんで現世に波紋を投げるもので、フェアではないと思っている。
 内部批判という点については、あまり大げさに考えないほうがよいと思う。むかしの忠臣は死んで主君の非を諫め、すこしまえまでは、辞表をふところにしなくては、上役にたてつくことはできなかった。こんにちも企業内告発をしたひとが処分された例はたくさんある。しかし一方で、労働組合の力によって処分されずに、あるいは処分されてもなお裁判にうったえてたたかいつづけているひとも、またたくさんいるのである。内部批判者の数がふえればふえるほど、「たった一人の反乱」のときよりも自由度は拡大する。そしていつか、それは特別のことではなく。あたりまえのことになる。「言論の自由」を守る第一歩は、自分が考えていることを率直に言う自由を行使することだと思う。とくにジャーナリズムは「言論の自由」を呼号し、“正義の味方”として悪をあばき、あるいは内部告発を勧めるが、自社および同業他社の問題については沈黙を守る習慣がある。報道言論機関が隗より始めなくて、どうして世の中に言論の自由を拡げていくことができるであろうか。
「風流夢譚」の掲載については私は関与していないので、当時の『中央公論』編集部次長・京谷秀夫氏から前後の事情をうかがった。記して謝意を表すると共に、京谷氏をはじめ「まだ話せない」といっている直接の当事者が今後かかれることを期待したい。本稿は私が見た現代史の微小な一齣であり、私の体験をしるした、いわゆる「自分史」である。記録としてのこすために実名で登場していただいた方々、引用した原資料をかいた方々のご寛容をおねがいしたい。

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目次

はじめに

一 『風流夢譚』と嶋中事件
  1 『風流夢譚』の波紋
  2 事件直後の中央公論社
  3 『思想の科学』の「説得と暴力」特集
  4 寸聞した右翼の内幕
  5 原稿“カット”の誤解

二 中央公論社の歴史
  1 『反省会雑誌』以来の多事多端
  2 横浜事件
  3 第一次中央公論社事件

三 『思想の科学』事件

  1 「天皇制特集号」の廃棄処分
  2 廃棄号を公安調査庁係官に

四 『中央公論』編集部と私

  1 中公編集部への異動
  2 執筆拒否問題
  3 竹内・日高・嶋中座談会の流産
  4 竹内好氏の″爆弾″論文

五 中公労組の闘いと分解

  1 「言論の自由」問題の新展開
  2 「新社告」前後
  3 私の造反・編集長の責任追及
  4 一九六八年冬の激動
  5  分  解

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三 『思想の科学』事件

1 「天皇制特集号」の廃棄処分

 嶋中事件から一年もたたない一九六一年末から六二年はじめにかけて、中央公論社は、第二の事件『思想の科学』事件を起こして失点を重ねた。まえの事件では被害者であった中央公論社が、こんどは「言論の自由」への加害者として立ち現われ、私たち社員にはなんともやりきれない事件であった。まずその経緯をしるそう。
『思想の科学』編集委員会は一九六一年八月末、翌年の新年号を「天皇制特集号」とすることにきめた。発案者の斎藤真氏はその意図をつぎのように述べている。
《あたかもタブーであるかのごとき感すら見受けられる天皇制の問題を、原理の問題としてとりあげることは、思想の研究会として当然行なうべきことであり、「嶋中事件」以後の中央公論社の特殊状況を考慮しつつ、「社業をとおして言論の自由確立のために献身することを誓」った同社の誓いの実現化に協力することこそ、思想団体らしい考慮ではなかろうか。》(思想の科学研究会『会報』三二号、一九六二年二月七日より要約)
『思想の科学』は、前述した事情によって、嶋中事件後の一九六一年四月末から、編集責任は研究会がもって市井三郎氏が編集長になり、中公側は編集事務と発売だけを引きうけることになった。そのさいの協定として、「この種の雑誌刊行は双方の相互信頼にもとづくものであるから、今後も問題が起こりそうなばあいは、随時、事前に協議する」ときめられていた。したがって、問題性をはらむ天皇制特集号については、とくに市井編集長から中央公論社の山本編集局長に特集の意向を伝え、内容が確定してからは目次もみせて、「できるだけ慎重にやってほしい」──つまり、やることは承知した、やり方に気をつけてほしい、という諒承の返事をえていた。特集の目次は左のとおりである。

特集・天皇制
現段階の天皇制問題(対談) 藤田省三 掛川卜ミ子
20世紀における君主制の運命 福田歓一
戦後天皇制の存在と意味 鶴見良行
中学生はどうみるか 石川弘明
大学生はどうみるか 成蹊大学生討論会
クーデターと天皇制軍隊 野間 宏
天皇制とキリスト者 平山照次
国民統合の象徴──神道思想家の天皇制観 葦津珍彦
里見岸雄「万世一系の天皇」(書評)──その憲法改正案と天皇制 佐藤 功

 特集号が校了になった翌日の十二月十八日、市井氏はわざわざ中央公論社に出向いて山本氏に会い、どのように慎重な考慮をしたかをあらためて述べて、無事に校了になったことを報告した。記号論理学を専攻する、綿密で几帳面な市井氏は、山本編集局長の「慎重にやってほしい」という言葉への回答を律義におこなったのであった。山本氏は、「よくわかりました。ごくろうさまでした」とていねいに謝意を述べた。
 ところが、それから三日後の十二月二十一日の夜、突如、中央公論社の幹部会は、印刷・製本がすべて完了した天皇制特集号を「業務上の都合により発売を中止する」と決定したのである。社内の消息通によると、『思想の科学』新年号の見本刷りが各部長の机の上に配られてきたとき、ある業務関係の幹部が「天皇制」という文字にびっくり仰天して、急遽、幹部会を招集し、嶋中事件の裁判がおこなわれているこの時期に、ふたたび右翼を刺激するようなことをするなどとはとんでもない、と息まいた。他の幹部もみな同調して山本編集局長が非難され、発売中止が決定されたのであった。そしてただちに配本にまわっている雑誌にストップをかけ、三時間というスピードですべてを回収した。
 同夜、山本氏は市井氏に電話して、「とりあえず新年号の発売を延期したい。嶋中事件の裁判などあと処理が終わっていない時期に天皇制特集号を出すことはまずい結果を予想されるので、同特集は止めて他のテーマで続刊することを編集委員会にはかっていただきたい。特定の論文内容にたいする異議ではない。特集そのものがまずいと考えられる」と言った。
 市井氏は一晩熟考したうえで、翌朝つぎのような申し入れをおこなった。
「四月末の協定を対外的に明らかにするため、新年号に編集長の読者への挨拶文をとくに一ページ余計に挿入し、同誌の内容に対するいっさいの責任がわたしにあって中央公論社側にはないことを明言した上、新年号の発売を実施していただけないか」
 山本氏は、「その種の考慮を加えても同号の発売はとうてい考えられない」と言下にことわった。
 その日の夕方、緊急に編集委員会がひらかれ、久野収会長と永井道雄氏も出席した。会社からは山本編集局長と宮本信太郎総務部長が出向き、「このような最後的段階でそれまでの諒承をくつがえさざるをえなくなった点、衷心よりお詫びする。他のテーマの特集で続刊してほしい」と頭を下げた。
 研究会のメンバーは深更まで協議をつづけ、「近い将来に天皇制特集を発売する用意があるとか、今回のような社側の発売権なるものがふたたび行使されることはないという保障がなければ、次号以下の編集をつづけることはできない」という態度をきめ、中央公論社へ通告した。
 二十五日、嶋中社長が市井三郎・永井道雄・鶴見俊輔の三氏に会い、中公側の意向を述べた。「(1)すくなくとも現編集委員の任期満了までは続刊してほしい。(2)市井編集長はそのままで、新たに鶴見、永井両氏が編集委員に加わってほしい、そのばあいにはより長期にわたる刊行が安定して実現されるであろう。(3)当分は社として天皇制特集号を避けざるをえない。」
 研究会側は拡大編集委員会をひらき、そのような条件なら現編集委員は全員辞任する、と決定した。そして翌二十六日午後六時から翌朝五時まで、徹夜の評議員会をひらいた。十一時間にわたる真夜中の討議は多岐にわたったが、その基調には、この問題は単に思想の科学研究会と中央公論社とのトラブルではなく、右翼テロの脅威と思想運動、および資本主義下のマスコミと思想運動という思想的な課題であり、それにどう対処するかという政治判断能力がためされているという強い緊張感がつらぬかれ、明け方にはみんな疲れきった、という。
 最後に採決の結果、「中央公論社からの『思想の科学』の刊行を即時中止する」ことがきまったが、声明文はつぎのような穏やかなものであった。
《思想の科学研究会と中央公論社との話しあいによって、従来、雑誌「思想の科学」は同研究会が選出した編集委員会により編集され、中央公論社がその発行を引き受けてきた。「思想の科学」一月号の発行にあたり、思想の科学研究会と中央公論社との間に意見の相違が生じた。われわれは同社をとりまく困難を理解し同社による「思想の科学」の発行を断念する。
 中央公論社は、思想の科学編集委員会が従来の協定に基づいてすでに編集を完了した一月号を業務上の理由により発売を停止した。その処置は、出版の慣行からみて遺憾な点があったものと思う。われわれは、みずからの努力で言論の自由を守ることに、さらに積極的でありたい。これまで「思想の科学」の発行をつづけてくれた同社の好意に感謝する。
   一九六一年十二月二十七日
思想の科学研究会》 
「天皇制特集号」という文字もなく、事情を知らないものにはどういうことなのかよくわからないこの文章は、久野会長が徹夜の評議員会で終始うちだした路線によるものであった。すなわち久野氏は、従来思想団体とその機関誌を発行する出版社との間にいったんトラブルがおこると、互いに非難を投げあって泥仕合的な様相を呈し、両者が共にたたかうべき真の相手を忘れる態度がしばしばみられたが、この種のことはなんとしても避けたい、思想の科学研究会の原則である柔軟な思考方法を活かして思想的に対処したい、と主張し、それが通ったのであった。
 翌日、研究会の代表が中央公論社を訪れて右の決定を伝えると、中公側は何らの代替案をだすことなくただちに受諾した。そして研究会が用意した声明文の内容を全面的に認め、この文章は「中央公論社版『思想の科学』廃刊にあたって両者間の確認事項」として公表されることになった。この席上、中公側は「天皇制特集号」は二部だけ残してすべて断裁した旨を述べ、その二部を保存用として研究会と編集委員会に手渡した。事件は円満に解決したのである。(以上、思想の科学『会報』三二号による。)
 これらのことは、中央公論社の社内では、一般社員には知らされていなかった。私は、情報通からのひそひそ話として『思想の科学』の天皇制特集号が発売中止になったときかされたが、天皇制の特集を企画していたことさえ知らなかった──とくに秘密にされていたわけではなく、一般に雑誌の企画は外部へは洩らさない──ので、寝耳に水のおどろきだった。
「天皇制特集」という言葉が、どぎつい大文字の形となって目の前を走った。内容についてはまったくわからないが、中央公論編集部に移っていた私の感覚には、そのタイトルは、直球すぎるものであった。「原稿“カット”事件」や「編集事務問題」以来、私のなかにあった思想の科学編集委員会にたいする悪感情から、“編集の素人の無知の大胆さ”を軽蔑した。しかしそれにもまして、会社にたいする憤りがわきあがってきた。中央公論社がまたしても戦々兢々たる自己規制の姿をさらけだしたことに、からだが熱くなるほど口惜しかった。「どっちもどっちだ!」私は胸のなかで捨てぜりふをはいた。
 十二月二十八日の『毎日新聞』が大々的にこの事件を報道した。

 《「天皇制特集号(思想の科学誌)」を廃棄
「天皇制」を特集した月刊学術雑誌「思想の科学」一月号が二十七日、突然発売を中止、配本するばかりの雑誌一万部が日の目をみずに廃棄されることになった。発行元の中央公論社(嶋中鵬二社長)が“反響”を心配して自主的に発行中止の態度をきめ、編集に当たっている「思想の科学研究会」(会長・久野収学習院大講師)に申し入れたためで、同会も「嶋中事件」以来、中央公論社の置かれている立場を考えて、この申し入れを了承、同社からの「思想の科学」発行は十二月号で打ち切りとなった。出版の慣行に反する面がないわけでないことを知りながら“業務上の都合”という理由で雑誌の発行がとりやめになったケースははじめてである。……
 久野収氏の話 すでに編集を完了した一月号を業務上の理由で発売停止したことは、出版の慣行からみて遺憾に思う。しかし中央公論社を取りまく困難を私たちも十分理解しているので、結局このような形で縁を切ることになった。これは我々全員が十分検討した結果である。
 中央公論社の話 嶋中事件以後、いろいろ微妙な問題があり、わが社はむずかしい立場に置かれている。ささいなことで一部の感情を刺激し、世間に再び迷惑をおかけしたくない一心で、こんどの措置をとった。内容をどうこういうのでなく、時期的にまずいという一語につきる。》(『毎日新聞 一九六一年十二月二十八日』)
『読売新聞』にも記事がでた。会社側は、この問題は内々に解決して新聞記者には話さないと約束したはずだ、と不満らしかったが、その姑息主義は第一次中公事件のさいと同じであった。しかし今回は、リークしたのは誰だ、と追及するわけにはいかなかった。
 組合員のほとんどは新聞の記事ではじめて事件があったことを知り、おどろいて話しあっていた。思想の科学研究会が天皇制特集号をつくり、そのあげく簡単に廃棄をみとめるとは、軽率で腰抜けもはなはだしいという悪口を、私はわがことのように恥ずかしくきいた。『思想の科学』にたいして、私はやはり“身内意識”があった。担当の橋本さんや倉沢さんにたくさんの言いぶんがあるであろうが、むこうから発言しない以上、このごに及んでいろいろきくのはためらわれた。翌日から年末年始の休みにはいった。
 私はこれは「社告」路線と「お詫び」路線の衝突だと思った。先に述べたように、「社告」は思想の科学研究会のメンバーである永井道雄、久野収、鶴見俊輔氏らによって起草されたものであり、その線上に「説得と暴力」の特集があった。「社業をとおして言論の自由確立に献身することを誓」った社告を額面どおりに受けとって、編集委員会は「天皇制特集号」を編集したのであろう。
 しかし中央公論社の実態は「お詫び」路線で一貫していた。「お詫び」は嶋中氏がみずからかいたものであり、「軽挙妄動せず」の恐怖演説と相まって、つよく浸透していた。社内の力でかかれなかった社告は、最初からタテマエとして空洞化していたのである。
 山本編集局長は組合との交渉の場で、社告の言葉をあきるほどくりかえしていたが、『思想の科学』の編集権を研究会側にわたし、中公側は編集事務だけに限定して編集権を放棄したのは、「社告」路線に実質的に触れるのを回避したものとしか思えない。中公側にも編集権があり、編集の責任を負っていたのなら、「社告」路線と「お詫び」路線をつなぐパイプは有機的に機能し、「天皇制特集号」という直球的な題でなく、もっと変化球に変ええたであろう。しかし編集権を放棄した編集局長には介入する権利も義務もなかった。
 思想の科学側は中央公論社の「お詫び」路線の実態をよく知らないまま「社告」路線を走ってきて天皇制特集に至り、「お詫び」路線に激突した。「お詫び」側にとっては、それは暴走としか映らなかったのである。

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光文社闘争を記録する会 著
『光文社争議団
出版帝国の“無頼派”たち、2414日の記録
立読み版

書名: 『光文社争議団 出版帝国の“無頼派”たち2414日の記録』
価格: 1000円

Small

著者: 光文社闘争を記録する会
(メンバーは川本武、宍戸茂、柿田隆、福山健、野村豊秋、小出忍、千葉昭、上野征洋、田村哲夫、田中修輔、小野俊一、宮木信幸、小野寺照夫、早川憲司で、いずれも本書に登場します)。

<<<<立読みコーナー>>>

立読み版は、「序」「目次」「プロローグ」です。
PDF立読み版の下に、テキストの立読み版もあります。
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『光文社争議団』_立読み版

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【立読み版】

光文社争議団
出版帝国の“無頼派”たち2414日の記録

光文社闘争を記録する会

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  序

 一九七六年一一月、光文社闘争はひとつのピリオドを打った。争議がはじまってから、ほぼ七年たっていた。
 争議が終わったとき、さまざまの〈批評〉が私たちの周辺に押し寄せてきた。日刊紙、週刊誌、ラジオ、総合雑誌、労組などの機関紙、と多様なメディアが光文社闘争を取り上げた。近しい人からはもちろん、遠い人からも〈批評〉が寄せられた。
 その多くは、善意からだろうが、過分に私たちを評価するものであった。「労働運動史上、稀有な勝利である」「これからの労働者運動に一つの方向性を与える」といった調子である。
 私たちは「いえ、それほどのことでは……」と口をモグモグさせ、曖昧に答えるよりほかない。衒(てら)うためにそのような態度をとるのではなく、多様な角度から射出されてくる〈批評〉にとりまかれ、くすぐったい思いをしつつ、立ちすくんでいる、というのが実感なのである。
 だが、口ごもりつつも、私たちの一人一人には「言葉」があふれていることも確かである。七年も争議を持続していれば、肌にまとわりついた感慨のひとつやふたつは必ずあるし、忘れ得ぬエピソードもある。その多くは未整理のままに……。
 このドキュメントは、その未整理の感慨やエピソードを、集録したものである。未整理ということは、おそらく他者を意識せず、自己に向かって「吐き出す」ような形でしか、感慨やエピソードを語れないことを、意味するのではなかろうか。
 したがって、本書は、労働組合が「正式」にまとめる、いわゆる総括とは異質のものである。各章を担当した者が、それぞれのスタイルで、争議の七年間について「吐き出し」た「言葉」を集めたものであり、通読した場合、若干の重複などもあるかもしれない。当事者でなければ了解できぬたぐいのディテールも合まれているだろう。
 また、光文社闘争は「なぜ起きたか」については語ることを略し、「なにが起きたか」についてのみ記述した。そして、光文社闘争を七〇年四月一六日の無期限ストライキから、七六年一一月二三日の協定書調印に至る二、四一四日間の闘いと限定したため、闘争前史にはほとんど触れていない。不充分のそしりはまぬがれえないが、これらの点をご寛恕の上、本書とおつきあいいただければ、と願う。
 本書を分担執筆した「光文社闘争を記録する会」のメンバーは以下の通りである。川本武、宍戸茂、柿田隆、福山健、野村豊秋、小出忍、千葉昭、上野征洋、田村哲夫、田中修輔、小野俊一、宮木信幸、小野寺照夫、早川憲司。
 ところで、これはいうまでもないことだが、光文社闘争は第一ラウンドを終えただけで、本質的には持続されている。その持続の中でしか、今のところ未整理に「吐き出し」ている「言葉」を整合していく方法は見出せない、と思う。(神戸明)

光文社闘争を記録する会

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※テキスト版では「目次」は割愛いたします(PDF版にはあります)。

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 プロローグ

 一九七六年一一月二三日。午前一一時。地下鉄茗荷谷駅にほど近い茗渓会館の一室に、二六名の男女が長方形のテーブルをはさんで向かい合っていた。
 入口のドアを開いて右側に、ダークスーツの男たちが一二名、居並ぶ。小保方宇三郎光文社社長、竹内桃太郎会社側主任弁護士を中央にして両側に全役員、それに総務部長代理と元日経連法規部の労務顧問が加わる。
 対する左側には、女性を含む一四名。三労組の各委員長をはさんで、背広、ブレザー、ジーパン姿と色とりどりの団交委員。その中にまじって三角忠・光共闘(光文社闘争支援共闘労働者会議)議長、岡邦俊、古瀬駿介の両弁護士。
 真ん中のテーブルには純白のクロースがかけられ、その上には白いバラがこの日のために生けられていた。
 バラの花は「美と愛情」という花言葉をもつ。だが、この言葉ほど、対坐する両者の関係にとって無縁な言葉はないだろう。両者はこの七年間、深く憎み合い、激しく争ってきた。純白のテーブル・クロースをめくれば、そこには、罵声とび交うなかで流されたおびただしい血と汗をみることができるはずだ。
 ピケ回数三四〇回。そのなかで負傷した組合員の診断書五三枚、実際の負傷者数は、確実にこの五倍にはのぼるだろう。よほどの怪我でなければ組合員も支援労働者も診断書を取ろうなどとはしない。さらに、争議期間中三名の組合員がこの世を去っていった。ひとりは大衆団交直前に、ひとりはデモのあった夜に、ひとりは闘争資金のためのアルバイト中の事故死だった。そのうえ、二名の支援労働者の死に直面した。いつもスクラムの最先頭で威勢のいい声を張りあげていた、ともにまだ若い女性の骨をあいついで拾わねばならぬ運命など、だれが予測しえただろうか。そして、被逮捕者総数五七人。公判はいまだに続いている。
 これが光文社闘争の現実だった。
 重い沈黙がただようなかで、小保方社長がからだをグッと前に傾け、口を開く。
「六年余にわたる争議が解決できたのは、お互いの誠意によるもので、とくに関係諸先生のご尽力に感謝したい。今後は、協定書の主旨を踏まえ、お互いに敵視したり、従業員同士、いがみあったりしないようにやっていきたいと思います」
 一言一句を慎重に選びながら、眼鏡ごしにじっと、対するものたちの表情をうかがう。三労組側の“関係諸先生”である両弁護士はまったくの無表情で、そんな彼を見返す。
 小林武彦総務部長が協定書を読みあげる。
「第一条、会社は本協定の主旨に則り、本日付をもって、光労組、記者労組幹部八名に対する懲戒解雇、記者労組員二〇名ならびに臨労組員九名に対する解雇を撤回する……」
 以下、六カ条にわたる協定書と三カ条からなる覚書の内容が、事務的な口調で読みあげられていく。記者労組員と臨労組員に関する就労時の賃金を明示してあるところでは口調を落とし、数字を棒読みにしながらひとりひとり確認していく。覚書の最後を読み終え、「それでは、署名、捺印に入りたいと思います」という彼の声は、かすれていた。
 各二通の協定書と覚書が、社長と三労組代表の前におかれる。署名箇所にはすでに代表者名が印刷されていた。総務部長代理が押印の順序を説明する。
 まず、小保方社長が協定書の末尾に、社名入りの角判と代表取締役印の丸印を押す。それから協定書を綴じる表と裏に代表取締役印で割印をしていく。老眼鏡をはずし、印鑑を押す手には血管が浮きあがっていた。三労組の各委員長も同じ作業を繰り返す。捺印が終わるとそれを双方交換し、また該当箇所を印形で埋める。埋まったところで再び交換、双方の代理人が確認していく。次に覚書、同じ手順が繰り返される。
 その間、双方まったく無言。部屋には印鑑を押す音だけが響く。
 やがて、朱肉の色だけがやけに鮮やかに浮きあがった協定書と覚書が、双方の代表者の前に体裁を整えて並べられる。
 組合代表が発言を求める。
「今日、ここに労使双方は解決協定に調印するに至ったが、会社側はこの協定書の主旨を遵守し、この六年有余の教訓を踏まえて、二度とかかる組合弾圧や不当労働行為を繰り返さぬよう強く肝に命じておいてほしい」
 小保方社長がうなずく。
「続いて、光共闘議長から社長はじめ全役員に言いたいことがある」
 それまで右端にいた三角議長が、記者労委員長と席をかわり、中央で経営陣と向かい合う。特徴のある大きな目が正面から社長を見すえる。
「光共闘としては、三労組の就労後もはたして会社側が不当労働行為をはたらかないか厳しく注視している。とくに光共闘のなかから二名の支援労働者が刑事弾圧によりいまも公判中であるという事態を、われわれとしては見過ごすことはできない。刑事裁判はこれからも続く。協定書に調印したからといって光文社闘争のすべてが終わったわけではないのだ。今後、光共闘をどうするかは、就労後の三労組に対して会社側がどのような態度で臨むのかをじっくり見て決めていきたい」
 この発言を最後に、三労組側は席を立った。冒頭の社長発言からまだ一時間もたっていない。最初から最後まで、笑顔ひとつ交わされることなく、握手する光景もなかった。
 こうして、光文社闘争の調印団交は終了した。
 外に出ると、明るい秋の日差しの中に、人通りはなかった。皮肉にも、この日は「勤労感謝の日」に当たっていた。闘争開始以来、二、四一四日目のできごとである。
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